スリランカ・キャンディ

キャンデイ
 大まかに言って、スリランカの歴史はこの国へのインドの侵攻に影響を受ける。つまり、スリランカは北側から反映し、その文化の中心が次第に南側へと移動していく。したがって、私のブログの(文化の)主役も北から南へと移動してきた。それで、南側に位置するキャンディKandyは比較的遅い時期に歴史に登場することになる。15世紀に盆地の地の利を得て、国家防御に落ち着きを見せたが、16世紀初頭に始まるヨーロッパ列強の侵攻が始まる。1505年にポルトガルの植民地支配、そしてオランダ、イギリスへと覇権争いを重ねてた結果、ここキャンディも内紛を重ね、ついには1815年に300年以上続いて滅亡した。シンハラ王朝2000年の歴史の終焉である。一国の歴史である。細かい間違いはお目こぼし下さい。

ダンブッラからのインターシティ・バスで約2時間、キャンディのメィン・バスターミナルに着いた。早速、お助けマンに助けられて、近道の急な階段を上ると(この写真は上った地点)、ホテルは50メートル先にあった。「…歩き方」に載っていたこのホテルは便利すぎる
警察署にも歩いて数分
鉄道駅(右側)もすぐそば。写真が見えなかったので、「おっ、線路を歩いている」
時計塔まで見えるので時間を確認し
列車が無い場合は歩いて5分くらいでバスセンター
急ぐ時は交差点の地下道を通って近道できる
携帯を持っていないので目の前の地下道入口にあった公衆電話を使う。これでは迷いようがないはずなのだが
それでも迷う時は近くにあるモスクのミナレットを目当てに歩く
それでもわからなくなったらホワイトブッダに祈る。あーあ

 以上、ドキュメンタリー風に述べたが、まさにドキュメンタリー。すべて本当の話。追伸;実は書いていないことが一つだけあります。守衛に注意されて写真を撮ることができなかったのですが、すぐ近くに刑務所もあったのです。私には、そして当然皆様にも関係が無いと思い、書きませんでした。悪しからず?
 話を戻します。いつもはどなたかに道を聞くなどお話することが必ずあるのだが、今回は全ての施設などが狭いエリアに集約されているので一言も話さないで、移動できる。そのせいで目的のキャンディ湖に早く着くことができたが、逆に何か損をしている感じである。ケースバィケースであるが、私の旅のスタイルは、どうも見知らぬ人々との交流が無いと面白くないようだ。

キャンディ湖から寺院へ
 キャンディ湖は19世紀初めにキャンディ王朝の最後の王であったスリー・ウィクラマ・ラジャシンハが12年をかけて造った湖である。ガイドブックによると、湖に浮かぶ島は王室とトンネルでつながる王のハーレムであったという。着飾った愛妾を従えて、…、(それに対して)現代の我々はセーラー服とディパックとスニーカーで、モーターボートに乗って、…、あなたの好みはどちらですか?私の好みは、恥ずかしいのでヒミツ

キャンディ湖
森自体を剪定したように見える
部屋の窓から湖が眺められるクィーンズ・ホテル
モーターボート乗船場
マルワトウ・ヴィハーラ。ここから坂を上って行く
お坊さん達が談笑している
ここまでマルワトウ・ヴィハーラ
セントポール教会。意外に、この街には教会があったりする

キャンディアン・ダンス
 キャンディアン・ダンス(Kandyan dance)は、キャンディを中心に行われている踊り。 キャンディ王朝の頃に宮廷内で踊られていたものに、18世紀初頭に各地の舞踊が組み込まれたものである。牧歌的で非常に分かりやすく、悪魔払いやファイヤーダンスが組み込まれている。キャンディ芸術協会Kandyan Art Association(文化ホール)で催されるキャンディアン・ダンスショーの入場は、Rs.300と安く人気がある。

キャンディアン・ダンス
ファニーと言っていいのか、怖いのか
キャンディアン・ダンス
ここまでキャンディアン・ダンス

仏歯寺
 現在の仏歯寺を囲む堀と八画形の堂は、最後のキャンディ王スリー・ウィクラマ・ラジャシンハによって建てられた。寺院内に奉納されている仏歯は、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際に手に入れたものとされている。その後、4世紀にインドのオリッサ州カリンガの王子が頭髪に隠して、(セイロン=現スリランカ)のアヌラーダプラに奉納した。先に述べたように、この国は、北からの侵攻によって都が南下する運命をたどってきた歴史を持つ。そして、1590年を最後にキャンディで終止符を打った。キャンディ王ウィマラ・ダルマ・スリヤ1世の時代で、王は仏歯を祀る寺として2階建ての寺院を建てた。三世代後のナーランドラ・シンハ王が寺院を新築、これが現在、寺院内部に残っているものである。
 入場料Rs.500、カメラ持ち込み料Rs.150。仏歯寺の部屋が開かれる「プージャ」は、5時半、9時半、18時半。入場券売場の隣に無料のガイドツアー(MP3を利用)の受付がある。人気のお寺だけに、上記の時間ごとに30分前には入場して列に並ぶことが要求されるので要注意です。

仏歯寺
仏歯寺

ペーラーデニヤ植物園
 翌朝、キャンディー近郊の総面積5.6平方キロメートルのペーラーデニヤ植物園へ向かう。市内バスターミナルから、ペーラーデニヤ行きのバス(No.652、No.724)で所要10分、Rs.20でペーラーデニヤ植物園に着く。14世紀の王パラークラマバーフ3世が王妃のために造園し、1821年に植物園として開園されたものであることから「王立植物園Royal Botanic Garden」の名が付けられた。植物の種類は、4000種以上と言われている。

ペーラーデニヤ植物園(王立植物園)Royal Botanic Garden、Rs.1100
ポリエチレン包装袋の持込み禁止
映画の撮影ではありません。王立植物園で結婚記念撮影を行うのは若者の憧れだそうだ
お幸せに
最も大きい竹として知られるビルマのジャイアント・バンブー
人数制限のあった橋
橋梁の人数制限の看板(荷重制限)
違う角度から撮った橋
植物園内の案内図
植物園出入口

ピンナワラの象の孤児院
 キャンディ近郊に、親を無くしたり、はぐれた子象、あるいは失明したりした象を100頭余り保護している「像の孤児園Elephant’s orphanage」と呼ばれる施設がある。回復した像達は、寺院や象使いに引き取られるそうである。
 バスで行くのが安くて簡単である。キャンディのメイン・バスセンターからキャーガッラKegalle方面行きのバス(No.1、No.2、No.662)で約1時間、Rs.59→カランドゥパナ・ジャンクションKarandupana junction下車→ランブッカナRambukkana行き(No.681)バスに乗り換えで約15分、Rs.20→ピンナワラPinnawala の像の孤児園Elephant’ Orphanage下車。見学料金はRs.1000。

「象の孤児院」の入場券。入場する際に入場券の左側にマジックインクで自分でサインをする(この写真では記名部分をトリミングしてある)
ピンナワラ(Pinnawara)の象の孤児院
象のエサ
小象の水浴び。ポヤポヤの毛が可愛くて、大人気である
のどかな風景
こんなに近くで像の親子を見たことはありませんでした
これは観光客が象にあげるための観光客用の売り物です。人間が食べると鼻を巻き付けてきます

 ピナワラの象の孤児院からキャンディ市内のホテルに戻ってきました。あの超便利ホテルです。近くに市場もあるのです。

ホテル近くにこのような美しいインド寺院がありました
美味しい果物
これは旅行者には使えない
食べる前から興奮します
ここに並んでいる店は、買い物をするとクジをくれる。こういうのって大好き
当選番号の発表
マヨネーズなどが当たる。私はハズレだった。二つ当たった地元の人から名前の知らないフルーツを貰った。ありがとう

スリランカ・ダンブッラ

ダンブッラ石窟寺院
 スリランカを代表する石窟寺院、1991年にユネスコの文化世界遺産に登録された『ダンブッラ石窟寺院』を訪ねる。岩山の頂に5つの石窟が並んで建てられており、第1窟から第5窟までに古い順番に並べられている。入場する前に、「金色の大仏Golden Buddha」の位置に注目しよう。最初はチケットである。金色の大仏の右側にチケットオフィスがあるので、料金を支払ってレシートを持っていないと入場禁止になるので、厳重注意である。石窟寺院への入場も金色の大仏の左脇から続く階段を上ることになる。20分ほど上れば、いよいよ入り口である。高さは約180メートルである。

金色の大仏 Golden templeの入口
巨大な金色の大仏
1991年にユネスコの文化世界遺産に登録された
第1窟 デーワ・ラージャ・ヴィハーラDava Raja Vihara。「神々の王の寺」の意味。壁と同じ自然石に約 14メートルのこの寺院最大の涅槃像が彫られている
スリランカでは足の裏を赤く染めるのが特徴。紀元前 5世紀にウィジャヤ王がインドから到着した時に手のひらが真っ赤であったことに由来する
第 1窟を出て振り返って全体をパチリ
回 廊
第2窟 マハー・ラージャ・ヴィハーラMaha Raja Vihara。「偉大な王(ワッタガーミニ・アバヤ王)の寺」の意味。ダンブッラ最大の洞窟で幅 52メートル、奥行き25メートル、高さは入り口付近で 6メートル。洞内には56体の仏像が安置されているが、案内書によると第2窟の見ものは壁画だと強調されている
特徴ある枕
第3窟 マハー・アルト・ヴィハーラMaha Aluth Viharaam。「偉大な新しい寺」の意味。18世紀後半の王キルティ・スリ・ラージャーハーが建造した。写真は坐像である
先に御紹介したように、第2窟では壁画に人気があるようだ。以下に続ける
第2窟の壁画に満足して、明るい所へ出ると、“水連”。いいですね
第3窟 マハー・アルト・ヴィハーラMaha Alut Vihara。繰り返しになるが、「偉大な新しい寺」の意味である
第4窟 パッツィーマ・ヴィハーラPachima Vihara。「西洋(西)の寺」の意味
キャンディ王朝末期の作。右側奥に真新しい黄色に塗られた仏像がある。これは以前に観光客がこの仏像の手のひらに座って写真撮影をしたため、法力が失われてしまった。そのためもとの塗りをはがして塗り直したものだそうだ
黄色い仏像
第5窟 ディワナ・アルト・ヴィハーナDevana Aluth Vihara。1915年に造られた最も新しい窟
第 2窟の仏像
天井から滴り落ちる聖なる水を囲んでいる。因みに、ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意味である
第2窟の天井画

 

ここまで第2窟の天井画
天井画にすっかり満足して、第2窟を出てから周りの風景を楽しむ

あーあ、疲れた
 ダンブッラ市街地に戻ってきた。見所、たっぷり、本当に心身ともに疲れた。ダンブッラを訪れる前に情報が少なかったせいか、びっくりするほど観光資源に恵まれたところであった。汗だくになっていたので下着を1枚買い、シャワーを浴びようとしたところ、露店の兄弟が海水浴に行けと勧めてくる。水門がある海水浴場だという。水門は土木的に興味があるので話にのって出かけたのだが、露店の兄弟は「海水浴場までバスが無いのでオートリクシャーで行け」と言う。奴らはつるんでいたようだ。
 さっと泳ぎ、水門を修理をしていた技術者に口を出したところ、すっかり感謝された。そして教えられた。「あと数分でバスが来るよ」。バスの運転手に私の降りる停留所を教えてくれて、「フレンドシップ」とか言って、バス料金を払わせなかった。いろんな奴がいるね。でも、まずいよ、公共料金なんだから。
 戻ってから、出かける前に下着を買い、オートリクシャーとつるんだ露店の兄弟から、タオル1枚を取り上げてやった。露店の兄弟は二人だったので、2枚、取り上げてやった。私は、「サンキュー」とは言わなかった、「スマィル」と言いながらほほ笑んでやった。ちょっと、本気を出し過ぎたかな?

ダンブッラ市街地の露店。何屋さんだろう?
水 門

スリランカ・ポロンナルワ

ポロンナルワとは
 ポロンナルワの歴史を大急ぎで見ていくと、1017年、南インド・タミル系のチョーラ王朝に首都アヌラーダプラを征服されたシンハラ王朝は首都をポロンナルワに移した。シンハラ王のウィジャヤバーフ1世 (Vijayabahu I) はその後、灌漑設備等の修復をし、また仏教の普及に努めた。12世紀、孫にあたるパラークラマ・バーフ1世(Parakrama Bahu I)は、農耕と国家防衛の目的で首都周辺にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。この辺りに遺跡の残る旧市街がある。この治世下において、ポロンナルワはインフラ整備でさらに農業が栄え、また周辺国との交易で黄金時代を迎える。仏教都市としても発展し、タイやビルマ(現ミャンマー)からの仏教僧が訪れるようになった。その後、王位についた南インドのカリンガ王朝出身のニッサンカ・マーラ1世(Nissanka Malla I)の時代もなんとか体制を維持していたが、悲しいかな、歴史は繰り返す。
 ポロンナルワの支配層は、国力の衰退とともに南インドの王侯貴族の支持を求めたため、スリランカ独自の王朝の力は衰えていく。南インドのカリンガ王朝のマーガによる1214年の侵攻、アーリャ・チャカラヴァルティー (Arya Chakrawarthi) の1284年の侵攻と続いて、南インドのパーンディヤ朝に権力を委譲、1232年にはダンバデニヤ(Dambadeniya)に遷都された。そして、ついに1255年、シンハラ王朝はポロンナルワを放棄した 。

博物館横の人工貯水池
シヴァ・デーワーラヤ No.1。入口突き当たりの左側にあるヒンドゥー寺院である。ポロンナルワ遺跡は広大な仏教遺跡群なのだが、ここは異なってヒンドゥー教の遺跡になる
リンガ。もう、見飽きましたよね

クワドラングル
 クワドラングルQuadrangleは、古都ポロンナルワの旧市街中心部(宮殿の北側)にある『クワドラングル(四辺形の意味)』の城壁に囲まれた庭で、11の建物が集まっている場所を言う。シンハラ王朝時代(1017年〜1255年)の仏教の中心地で『仏歯寺』があった所である。1982年に世界遺産に登録されている。

崩壊寸前の 7階建ての塔、サトウマハル・プラサーダ Satmahal Prasada。上の階になるにつれて小さくなっている。タイのワット・クークット寺院に似ている
”石の本”ガルポタGal-Potha。長さ9メートル、幅1.5メートル、厚さ44~46センチメートルの石は、約 100キロメートルも離れたミヒンターレからニッサンカ・マーラ王の命令で運ばれ、文字が彫られた。インドの侵略者のこと、ニッサンカ・マーラ王への称賛の言葉などが碑文として彫られている
ガルポタを横から写す
ワタダーゲ Vatadage。クワドラングルに囲まれた円形の仏塔。四方の入口には、ムーンストンとガードストンがある。ポロンナルワにシンハラ王朝の都が置かれる以前の創建とされる。当初は屋根があったが、現在は基部の壁面が残っている
前の写真のアップ画像。両脇にある石像は守護神として寺を守っているので「ガードストーン」と呼ばれる
仏両者のガードストンの中央に、牛の横のシルエットがたくさん彫られている半円形の石板がある。真理と宇宙を表すもので「ムーンストーン」と呼ばれている像のアップ

ハタダーゲ
 クワドラングル遺跡群の一つのハタダーゲHatadage。12世紀にシンハラ王朝のニッサンカ=マーラ王により、釈迦の歯を祀る「仏歯寺」として建立された。サンスクリット語で刻まれた王を称える碑文や3体の仏像が残っている

ハタダーゲ
ハタダーゲの門を入って右側の壁にサンスクリット文字で「王を称える碑文」が残っている
シヴァ・デーワーラヤ No.2。11世紀、インドのチョーラ王朝のタミル人がポロンナルワを征服した時代に建てた
パラークラマ・バーフ王妃によって12世紀に建てられたパバル・ヴィハーラPabalu Vihara(精舎、寺院、僧院)。この形は、日本流に「鏡餅」と呼びましょう。最初は、最上部に塔があったそうだ
パバル・ヴィハーラの横の風景を取り込んでみた
ニッサンカ・マーラ王によって12世紀に建てられた「ランコトウ・ヴィハーラ(金の尖塔 Golden Pinnacle)。かつては尖塔部分が金で覆われていた」。ポロンナルワで一番大きなダーガバ(仏塔)で、高さ、直径ともに55メートルと分かりやすい。アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔をモデルにしたそうだ
キリ・ヴィハーラKiri Vihara(乳白色の寺院)。キリとはシンハラ語でミルクを意味し、ミルク色の石灰の漆喰は、ジャングルで700年を経てもその塗りを保っている。パラークラマ・バーフ1世の妻のひとり、サバドラ女王が建てたものとされる

ランカティラカ
 乳白色の寺院、キリ・ヴィハーラの南隣に、頭の無い巨大な仏像を収めた仏殿「ランカティラカLankatilaka」がある。13世紀にパラークラマ・バーフ3世により建立され、後にウィジャヤバーフ5世により修復された。高さ17.5メートル、幅18メートル、奥行き52メートルの大きな建物であるが、建物自体は損傷が激しく、天井が落ち、上部もかなり壊れている。往時は屋根があったとも推測されている。最も奥には頭のなくなった仏像が立っている。勿体ない。

ランカティラカ寺院は、キャンディ郊外にあるレンガ造りの古寺の一つ
ランカティラカ寺院の奥には頭の取れた巨大な仏像が見える
仏像の後ろには「瞑想の道 Meditation Road」があり、僧侶達が 1日3回瞑想をする修行をしたそうだ
外側の壁にはシンハラ建築のGedigeという様式の典型である浮彫が見られる

ガル・ヴィハーラ
 ガル・ヴィハーラの3石像を見学に出かける。石像は1枚の石からなり、2つの座仏像、立像、涅槃像の4体の仏像から構成されている。現地で貰った英文の説明書によると、「仏陀の瞑想→悟り→涅槃」を表しているそうだ。一番左の高さ4.6メートルの坐仏像は瞑想の像。右側のもう一つの坐仏像は釈迦が天国で教えを説いている像。次の高さが約7メートルの立像は、悟りを開いて7日目のブッダが瞑想中に影を作ってくれた菩提樹に祈りを捧げている様子。蓮(ハス)の台座の上で腕を組み佇んでいる立像は、悟りを開いた仏陀の姿だとされる。それぞれのステージで、仏陀は何を考えたのだろうか。
 突然であるが、実を言うと、私が原稿を書いている時は必ずと言っていいほど周りで音が鳴っている。今は、バッハのシャコンヌである。昨年暮れに98才で亡くなった「20世紀最後の巨匠」と呼ばれたイブリー・ギトリスのヴァイオリンである。シャコンヌのせいだろうか、…、仏陀が悟りを開いた時、仏陀は「涙を流した」と私が勝手に考えたのですが?その時仏陀は悲しかったのではありません。私は、涙は全てを洗い流し浄化してくれると、いつも思っており、仏陀もまさにすべてが洗い流され(自動詞)無上の心になったのだと思います。
 申し訳ありません、突然の横道をお許し下さい。『ガル・ヴィハーラ』に戻ります。2つの「座仏像」、「立像」と来たので、最後の「涅槃像」に進みます。巨大である。横になっているせいか、流線型のなだらかな姿がふくよかな顔と共に一層目立ち、まさに涅槃に入ろうとしている。大きな像なので足の部分だけをアップして撮ったが、涅槃象特有の左右の足が前後にずれているのがお分かりかと思います。この足の裏と枕の模様は、スリランカの仏像に良く見られる模様だそうで、太陽のシンボルだそうです。
 最後になりますが、ガル・ヴィハーラに入る時は、靴を脱がなければならない。素足では火傷をすることがありますので、靴下をお持ちください。勿論、帽子も禁止です。もう一つ、仏像を背に写真を撮るのは禁止です。

1枚の石からなるガル・ヴィハーラの3石像。2つの座仏像、立像、涅槃像の4体の仏像から構成されている
瞑想にふける座仏像
洞窟に入った坐像
ハスの台座に建つ立像。悟りを開いた仏陀の姿とされている。高さ7メートル
穏やかな表情の涅槃仏
涅槃像特有の左右の足が前後にずれている
枕の模様に注目
デマラ・マハー・サーヤ。蓮の池

スリランカ・シーギリヤ・ロック

アヌラーダプラからダンブッラへ
 アヌラーダプラを楽しんだ後の予定は、「アヌラーダプラ」→「シーギリヤ・ロックSigiriya Rock(獅子山)観光」→「ポロンナルワPolonnaruwa」→「ダンブッラDambulla」と、いずれもダンブッラを起点としたバスによる移動が便利である。最初は、アヌラーダプラからダンブッラへインターシティバス(Intercity bus…決められたバス停のみ停車するA/C付き特急バス)で1時間半で移動し、ダンブッラに数日間、宿泊する。ダンブッラ・バスセンターからシーギリヤへは30~1時間に1本運行、片道45分、Rs.30と十二分に日帰り観光が可能である。

多くの売店を備えたダンブッラ・バスセンター
次から次と行き来するバス

シーギリヤへ向かう
 ということで、今日は「シーギリヤ・ロック(獅子山)日帰り観光」である。200メートルもの巨大な一枚岩、階段数はなんと1,200段にも達する岩の山である。
 英国の統治下にあった1875年、この赤褐色の岩山を望遠鏡で眺めていた英国人が鮮やかな色彩を見つけた。 後に“シーギリヤ・レディ” と名づけられる1400年の眠りから覚めた18人の美女達であった。父を殺し強引に王座に就いた若き王子(カーシャバ王)は、弟の復讐を恐れて築いた城に棲み、孤独と狂気の中で生き、ついには自ら命を絶った青年の生き様とは?殺害してしまった父の霊を鎮めるためにこの美女達の壁画を描かせたと言われているが、彼女らが誰であるかは定かではない。そして、今、我々は狂った王が残した最高傑作“シーギリヤ・レディ”にどう向き合えば良いのだろう。
 1982年に世界遺産に登録された。

シーギリヤ博物館
 日本のJICAの援助で建てられた博物館。シーギリヤおよびその周辺からの出土品、シーギリヤ・レディのフレスコ画のレプリカなどが展示されている。本物のシーギリヤ・レディはストロボを使用しての写真撮影が許されていないが、ここのレプリカは撮影可である。
 シーギリヤ・ロックに登るには、先ずここでチケットを購入しなくてはならない。

first former commissioner of archaeology(考古学博物館の初代長官)
先ず、シーギリヤ博物館で下調べとシーギリヤ・レディのレプリカの写真撮影。
レプリカと言われても、本物を見ていないので比較はできない。素直に見て、「美しい」の一言であった
ここまでシーギリヤ博物館の展示物を見学

蓮の水路
 なかなか見所のある博物館で、多くの観光客が写真を撮っていた。シーギリヤ博物館を出てすぐの所でシーギリヤ・ロックの遺跡入場券US$30(Rs.3960)を買い求め、チェックを受けた後に城壁の中へ入場できる。城壁の周りに「蓮の水路」と呼ばれる水路が続くのであるが、早速、面白い話を聞かされた。冗談だと思うが、かつて蓮の花で埋まった蓮の水路Lotus channelにはワニが住んでいて、水路に落ちた人は戻ってこなかったという。水路はシーギリヤ・ロックとその庭を取り囲む城壁の周りにあることを考えると、結構怖いものがある。

蓮の水路 Lotus channel
蓮の水路
賑やかな出店。寺が近いことがわかる
なんともユーモラスである
シーギリヤ寺院

シーギリヤ・ロック
 「蓮の水路」から城壁を通って「水の広場」へと向かう。入口から整備された庭園を通って岩山の入口までまっすぐな小道が通っている。いよいよシーギリヤ・ロックだ。私も含めて皆さん興奮している。

「シーギリヤ博物館」を示す石碑。もう通り過ぎて来たのだが
水の広場。水面に映る木々の姿は美しい。次のまっすぐな小道が見える写真はこの位置ではなく、後でシーギリヤ・ロックに登った時に王宮跡から写した写真である。水の広場の様子がよく分かる
後で登った王宮跡から見た水の広場の写真。入口から岩山の入口までまっすぐな小道が見える
シーギリヤ・ロックの見事な雄姿
巨石の門(巨石アーチ)

 以下に、美女のフレスコ画(シーギリヤ・レディ)の掲載を続ける。嬉しいことに、ストロボ撮影は作品の保護のために禁止されているが、ノー・フラッシュであれば、撮影は許されていた。

美女のフレスコ画(シーギリヤ・レディ)。フレスコ画にも色々あって、私はシーギリヤ・レディの絵画技法についてつまびらかではないが、美しい色、抜群耐久性、…を保っている目の前のフレスコ画には、ただただ、感謝の気持ちでいっぱいである。この空間に立てることの幸せは、この絵の出自がいかなるものであれ、全てを圧倒する。
ここまで美女のフレスコ画(シーギリヤ・レディ)を掲載した
まだまだ登る
ジャングルに佇む巨大な岩の王宮跡
王宮跡
エレファント・ロック。象の背中を上から見たような形をした岩
王宮跡のレンガの壁

鏡の回廊
 フレスコ画を見ながら登って行くと、鏡の回廊Mirror wallと呼ばれる回廊が見えてくる。高さ約3メートル、鏡のような光沢を持つ壁である。説明書によると、構造材料としてレンガを組み合わせて漆喰を塗り、その上に多量の卵の白身と蜂蜜と石灰の混合物を上塗りして、その表面を丁寧に磨き上げて作り上げたものである。当初は反対側の岩壁には美女たちのフレスコ画があって、ちょうどミラーウォールに映る仕掛けになっていたと言う。ご自分の姿を写して美女になっていらっしゃるご婦人が多く、交通渋滞になっていた。

鏡の回廊 Mirror wall。ピカピカ
鏡の回廊
鏡の回廊
このような落書きをする不埒者もいる。悲しいです

ライオンの入り口
 一人で鏡の回廊に映った美男子?に見とれていて相当時間が経った。猛々しい気分になって、階段をさらに昇って岩山の北側の広場に向かう。ここには『ライオンの入り口』と呼ばれるライオンの爪の形をした宮殿の入り口がある。現在は足や頭が無くなっているが、階段を上っていくと、ライオンののどに吸い込まれる感じになるそうだ。お坊さんのお話だと、シンハラ語で、ライオンは「シンハShinha」、のどは「ギリヤGiriya」、ライオンののどは「シンハギリヤShinhagiriya」となり、これが「シーギリヤ」に変化したのだと教えられた。「ありがとうございます」。

ライオンの前足の一部しか残っていないが、階段を登って行くと、確かにライオンの喉(のど)に飲み込まれる感じになっていく
ライオンの入口 Lion terrace。めまいで立ち止まる観光客が
続出する 

 

シンハラ語で、ライオンはシンハ、のどはギリヤとなり、したがってシンハギリヤとなり、これがシーギリヤに変化したのだとお坊さんから教わった

 思い出していただけたでしょうか?シーギリヤ・ロックの最初の部分で御紹介した「上から見た水の広場」は、この王宮跡の近くから写したものである。

ジャングルに佇む巨大な岩の王宮跡
throne玉座
王宮跡のレンガの壁
めまいがして、階段の途中で座り込んでいた日本人のご老人がおりました。行きも戻りも大変だ
(私が)めまいをしてしまったシーギリヤ美女。撮影禁止ではなく、当局?の許可をいただいております?
巨石アーチ
会議堂からさらに下りると、紀元前 2世紀のものとされるコブラの岩。コブラが頭を突き出した形で古代壁画の跡とされている
バス乗り場近くで人気を集めているエレファントライド 
バス乗場からシーギリア・ロックを今一度見る

スリランカ・アヌラーダプラ

長距離移動
 途中、道草をしながら、日本→中国・上海浦東国際空港→中国・昆明長水国際空港と飛び、今日はスリランカのバンダーラナーヤカ国際空港である。この空港は、スリランカ最大の都市コロンボから北に約35キロメートルの距離にあり、コロンボ国際空港やカトゥナーヤカ国際空港とも呼ばれている。この名称は、元首相のソロモン・バンダラナイケに由来する。
 明日以降の旅程としては、いわゆる「文化三角地帯(Cultural triangle)」と呼ばれるヘリテージ、特に古代遺跡が集中するエリアを中心に廻り、最後にコロンボ経由でインドへ渡る予定である。都市としては、スリランカのほぼ中央部に位置する、『アヌラーダプラ』、『シーギリヤ』、『ダンブッラ』、『ポロンナルワ』、『キャンディ』そして『コロンボ』などを訪問する予定である。
 今晩は寝るだけなので、ホテルの質にはこだわらない。いわゆるトランジット宿で十分だ。①空港から近いこと、②明日の『アヌラーダプラ』への移動が容易であること、③長距離バスの停車場に近いこと、…??と迷っていたところ、お坊さんが教えてくれました。今日のお助けマンである。今日だけではない、この国ではお坊さんが尊敬され、知識も豊富であることから、私も何度か助けてもらった。
 空港から一番近い都市はニゴンボで、南側にあるバスセンターまでタクシーかスリーウィラーThree Wheeler(自動三輪車。タイではトゥクトゥクと 呼ばれている)で約30分、Rs25前後、その近くにある「M. ホームスティ」という格安の宿を勧められた。宿からバスセンターまでなんと徒歩5分、『クルネガラ』経由で明日の訪問予定地である『アヌラーダプラ』までのバスが発着する所でもあることを確認した。助かった、爆睡。

コロンボ・バンダーラナーヤカ国際空港(Colombo Bandaranayike Intnl Airport)に到着。仏像を見ると、思わず手を合わせた

文化三角地帯(Cultural triangle)とは
 スリランカの中央部にあるアヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディの3つの都市を結んでできる三角形の内側は、世界有数の遺跡群が残る「文化三角地帯(Cultural triangle)」と呼ばれるエリアである。世界遺産であるシーギリヤ・ロックのほか、ダンブッラの石窟寺院など、多くの見所がある。注目すべきは、現在でも旅行者を含めて多くの訪問者の祈りの場となっていることである。これはインドの歴史とも深く関係するが、北からのインドの侵攻によってスリランカの歴代の仏教王朝が南側へと遷都を重ねた結果、その遺跡とともに伝説などが語り続けられてきたせいであろう。私達は“旅の醍醐味”を求め、世界各地を訪れているが、モーチヴェイションとなっているのは、何であろう?私の場合は、ここで言うと、まさに“文化三角地帯”に伝わる“伝説”への好奇心である。

シンハラ王朝最初の首都・アヌラーダプラ
 アヌラーダプラは今から2,500年以上前、紀元前500年頃、シンハラ族の先祖とも言われるウィジャヤ王によって建設されたアヌラーダプラ王国の首都である。首都として1,400年もの間栄え、現在でもたくさんの遺跡が残されている。この歴史を深堀(ふかぼり)していくと、シンハラ人とタミル人の抗争の歴史の叙述になってしまい、ここのブログの話題としては重すぎ、暗くなってしまうので、ここでは旅の話へと移動して軽く行きたい。
 スリランカは全国民の74%を占めるシンハラ人(主に仏教徒)、全国民の18%を占めるタミル人(主にヒンドゥー教徒)、スリランカ・ムーア人などの約2,000万人が住む多民族国家である。シンハラ人は、紀元前483年に北インドから上陸したアーリア系(インド・ヨーロッパ語族)の民族とされ、タミル人は主に南インドに住むドラヴィダ系(ドラヴィダ語族)の民族とされている。公用語はシンハラ語とタミル語だが、両民族間をつなぐ一種の連結語として英語が使われている。因みに、「スリランカ」とは、シンハラ語で「光輝く島」という意味だそうだ。

ニゴンボから経由地のクルネガラへ向かう時に乗ったA/Cバス。クルネガラで乗り換えてアヌラーダプラへ行く

ニゴンボからアヌラーダプラへ
 ニゴンボでお世話になった宿のお兄さんにスリランカのバスについて教わった。エアコンバス(A/C bus)が運行している場合は、必ずそれに乗ること。バス前面のプレートの右側にA/Cと書いてあるのがエアコンバスで、他のバスよりも早く目的地に着くそうだ。面白かったのは、運転手の後ろの席はお坊さんの最優先席だそうだ。しっかりとわきまえます。
 そう言うことで、今日は、文化三角地帯の一角、アヌラーダプラへ向かうのにクルネガラ経由のA/Cバスに乗る。

バスチケット
チケットを求めた時に車掌から渡されたのだが、乗客がお釣りをもらっていない証拠だそうだ。私がこのメモを持っているということは、お釣りを未だ貰っていないと言うことか、よく分からない
バスの中の売り子(おじさん?)。オレンジジュースRs120、蜜柑5個でRs100。ここで、Rs.1=0.8484円
バスの係員が書いてくれたバスルートのメモ

アヌラーダプラの市内観光
 ダーガバ(仏塔)、イスルムニヤ精舎 (精舎の高台から遺跡地区が見渡せる)、ミリサワティ・ダーガバ、スリー・マハー菩提樹、ルワンウェリ・サーヤ大塔、等々。バスルートをメモしてくれたバスの係員が私に勧めてくれた”アヌラーダプラの見所”である。さすがに多くの旅行客を案内してきたヴェテランで、これ等の見所を回った後に、的を得た場所を勧めていると感心させられた。

ジェータワナ・ラーマヤ
 ジェータワナ・ラーマヤ   Jetavanaramaya。スリランカの古事記とも言われるマハーワンサ最終章に登場するマハーセーナ王(334~361)の命により3世紀に建立されたものである。原型は、高さ122メートと言われるが、現在の高さは約70メートルと言われる。

ジェータワナ・ラーマヤ
細かく彫刻が施されている
拡大した画像

イスルムニヤ精舎
 イスルムニヤ精舎Isurumuniya Viharaは、通称「ロック・テンプル(石の寺)」と呼ばれるもので、大きな岩盤をくりぬいて造られた寺院である。本堂には肌が黄色に塗られ、赤い袈裟衣をつけた涅槃像が横たわっている。

イスルムニヤ精舎の本堂内に横たわる涅槃像

 

古(いにしえ)の僧達の沐浴場クッタム・ポクナ(ツイン・ポンズ)

サマーディ仏像
 解説書によると、「サマーディ仏像Samadhi Buddha」のサマーディとは、サンスクリット語が語源で、深い瞑想のもとに精神集中を極めた時に到達し得る境地、いわゆる悟りの状態を意味するそうである。その対極にいるような私目は、せっせとお寺通いをしているのであるが、…。今日は、助けを求めるべく「サマーディ仏像」におすがりしたい。
 サマーディ仏像は、前掲のクッタム・ポクナ(ツイン・ポンズ)から歩いてすぐの所にいらっしゃる気品のある美しい仏像である。お堂はなく、一体の仏像が鎮座して瞑想しているだけある。「正面・左・右、見る角度によって仏像の違った表情が見られる」と解説されているが、そう言われてみるとそう思えてくる、まさに仏像様である。「4世紀の完成当時は背後に菩提樹があったそうだ」などと言われると、ますます神秘的に見えてきます。いゃ、ますますお優しく…、そしてその表情はとても穏やかです。

サマーディ仏像、4世紀の完成当時は背後に菩提樹があったそうだ
瞑想するサマーディ仏像。正面・左・右、見る角度によって仏像の違った表情が見られる
「仏像に背を向けて写真を撮ってはいけません」の掲示 
仏像の土産物屋

アバヤギリ大塔
 紀元前1世紀頃にワッタガーミニ王の命を受けて建設された巨大な仏塔(ダーガミ)が見える。大乗仏教の総本山として信者の信仰を集めたアバヤギリ大塔である。ガイドブックによると、王はタミル軍にこの地を追われて14年間、屈辱的な扱いを受けた報復としてジャイナ教寺院を破壊し、その跡にこの寺院を建てたと言われている。建設当時は高さ110メートルであったが、現在は75メートルと記されていた。

紀元前1世紀頃に大乗仏教の総本山として信者の信仰を集めたアバヤギリ大塔
アバヤギリ大塔では履物を預けてから入場する

トゥーパーラーマヤ・ダーガバ
 トゥーパーラーマヤ・ダーガバThuparamaya Dagobaは、紀元前3世紀、デワナンピヤ=ティッサ王の時代に建立され、釈迦の右鎖骨が祀られていると言われている。その後、19世紀半ばに再建され、現在の釣鐘型の白亜の仏塔になった。周りに多数の石柱が建っているが、ダーカバに屋根を付けるために建てられたと言われている。ベル・シェイプ(釣鐘型)の高さ19メートルの白いダーガバで、アヌラーダプラデハスリー・マハーと並ぶ聖地である。

ダーガバの周りに屋根を付けるために設置した石柱が残っている
トゥーパーラーマヤ・ダーガバ。19世紀半ばに再建され、現在の釣鐘型の白亜の仏塔になった

ルワンウェリ・サーヤ大塔
 不謹慎な言い方かもしれないが、『ルワンウェリ・サーヤ大塔Ruwanwelisaya』は、役者の姿?を彷彿とさせる。『アヌラーダプラ』の遺跡地区という由緒ある舞台への登場の仕方からして、バチっと決まっている。白い像の胸元を赤と金の帯で締めて、そのシンメトリーな大柄の形状を天にそびえたたせるように、石畳をゆっくりと登場するのである。右側にローハ・プラサーダLoha Prasadaと名づけられた40列、各40本の石柱群が建つ花道を静かに渡ってくるのである。
 いたずらが過ぎました。ちょっと気障すぎると言うか、ダサい表現でした。ここは紀元前2世紀にドゥッタガーマニー王によって建てられた僧院の跡である。アヌラーダプラの三大ダーカバと呼ばれる『アバヤギリ』、『ジェータワナ・ラーマヤ』と並んで人気を博する『ルワンウェリ・サーヤ大塔』である。白く見えるのは、レンガの上にしっくいを塗ったせいであり、中には仏舎利が納められている。

アヌラーダプラのシンボルとなっているルワンウェリ・サーヤ大塔 Ruwanwelisaya。残念ながら逆光で灰色に見えてしまう
お祈り
大塔への入り口の左右に象や獅子の装飾がある壁面のレリーフ
王の家族 King’s family
Stone seat
ドゥッタガーマニー王の息子のサーリヤ王子と恋人のマーラと言われる「恋人の像」。この愛はカーストの違いのため周囲から反対されたという
6世紀から8世紀に彫られたアプサラ像

ネパール・カトマンドゥ(4)

カトマンドゥ峡谷の日の出
 昨日、夕陽を見たナガルコットのゲストハウスのおやじさんの勧めで、昨日とはちょっと離れていたが、徒歩で10分ほどで行ける“朝日の美しいみんなが知っている秘密の場所?”に連れて行ってもらった。5時半頃に到着できるように向かったが、カトマンドゥ峡谷の朝日を楽しもうと、多くの人達が暗闇でカメラのセットに忙しい。昨日の夕日の美しさについてもコメントしませんでしたが、今朝の朝日のそれについてもコメントしません(できません)。カメラが(レンズが)が目に刻んだものを画質としてとらえきれないのである。便利な時代で、シャッターを押した時間が記録されるので写真に併記したい。但し、向きについてはさぼりました。

カトマンドゥ峡谷の日の出 5時02分
5時28
5時31
5時54
5時54
6時01
6時02
6時13
6時29

ティを御馳走になった
 ゲストハウスから歩いて10分ほどの高台から朝日を鑑賞したのであるが、朝日の方向(東西南北)や色などについて、とても詳しい男性がいた。アメリカのシアトルに棲む現地?出身の紳士であった。「ほら、下に見えるあれが私の実家だよ。毎年故郷に帰っているので、50年以上も朝日と夕日を見ているよ」。まさに現地ネパール出身の紳士は、勝手に集まった観光客の耳を引き付けた。私もシアトルには友人がいたせいか都市情報に少しは詳しくて、シアトルから望める富士山「タコマ富士」とか、意外にレアニュースですが「鮭の遡上」システムなどについて話させてもらった。
 明るくなって見学者が適当に散らばった頃、「ティをどうだ」と誘われたので、飲みたいところだったが、彼の実家で御馳走してくれるものだとばかり思っていたので丁重にお断りしたのだが、笑いながら肩を叩かれた。すぐ近くに簡素な喫茶小屋があったのだ。さすが地元出身者だ。陽光を見ながらのダージリン・ティは、さすがに美味い。本当に美味い。
 ゲストハウスに戻った後、今味わってきたばかりの“美味しい景色とティの秘密” を先に戻っていた連中に自慢したところ、みんなで「ワンス・モァ」と言って出かけて行った。私目は次の訪問先である「チャング・ナラヤン」へのバスの出発時間までに余裕があるので、散歩をすることにした。いつもの旅のパターンで、地元のおじさん、おばさんと話を楽しみたいためだ。バス停も近い。

6時半 私達が朝日の見学をしたのは、軍用地(進入禁止)の近くであった、ご利用下さい
水道の蛇口がエリアに1か所しか無いので、食堂の従業員や近所の人達の朝の洗濯で混んでいる 
食堂のおじさん、おばさん。お世話になりました、どうも。素晴らしい笑顔です
7時40分頃の風景。雪山をバックにした景色は雄大だった

 

7時46分 もう1枚、どうぞ。ナガルコットからのヒマラヤの見納めです

チャング・ナラヤンへ
 ナガルコットで朝日の風景を満喫した後は、バスでチャング・ナラヤンに移動し、カトマンドゥ盆地の東端の丘にあるチャング・ナラヤン寺院に向かう。寺院の本尊はヴィシュヌ神の化身ナラヤン神を祀るヒンドゥ教の寺院である。この由緒ある「チャング・ナラヤン寺院」の開基は、リッチャヴィ王朝期の323年で、カトマンズ盆地で最も古く、現在の建物は1702年に再建され、その後、境内に祠や石像が加えられて、現在ある複合的な寺院となったそうだ。「ボグナート」や「スワヤンブナート」とともに主要遺跡として世界遺産に登録されている。

チャング・ナラヤンまで乗ったバス。ネパールで乗ったバスの中ではそこそこ立派だった
チャング・ナラヤンのバス停留所
バス停でこの動物と目が合って一瞬ひるんだ。何かわかりますか?
チャング・ナラヤンの参道では、商店、ゲストハウスやレストランが並んでいる
欲しかった
もっと欲しくなった
丘の上に建つチャング・ナラヤン寺院の入口
チャング・ナラヤン寺院の本殿。屋根を斜めに支える方杖(ほうづえ)は、ネパール建築の一つの特徴
室内撮影禁止
旧 10ルピー札のモデルとなったヴィシュヌ像
その旧 10ルピー札である
先に掲載した「ガルーダに乗るヴィシュヌ神の石像」のアップ。9世紀頃の石像だとされている
ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダ像

パシュパティナート
 先に御紹介した「古都パタン」の中で、パシュパティナートPashupatinathはガンガーの支流であり、橋のたもとに火葬場「アルエガート」が許されていることをお話しした。残念ながら火葬場は写真を撮ることはできないので割愛させていただいたが、パシュバテイナートは、シヴァ神 を祭るネパール最大の ヒンドゥ教寺院であることを記録し、差支えの無い写真を載せておきたい。

パシュパティナートのムルガスタリの森に位置するゴラクナート寺院。気候のせいもあって木造のお寺が多いネパールで、インド風の石の寺院は珍しい。シヴァ神を祀っている
気が付いたらある動物が被写体になっていた。御本尊ではない。びっくり
気が付いたらもう一匹、被写体になっていた
美しい風景である
亡くなった方を弔っているのだろうか。私の場合は、“合掌“
河へ供物を流す
いきなりですが、カトマンドゥのトリブヴァン国際空港からデリーへ向かう。「さようなら、ネパール」。「ありがとう、ネパール」

ネパール・カトマンドゥ(3)

バクタプル
 カトマンドゥ盆地の古都バクタプルBhaktapurへの移動はバスの利用が簡単で、かつ安いので勧められる。カトマンドゥのバグ・バザールにあるバス乗場から9番のミニバスで1時間、Rs25で バクタプルのバスパークに到着する。多くの旅行者が向かうダルバール広場Durbar Squaqreへは徒歩10分と近い。私も含めて旧王宮をカメラに収め、南にトウマディ広場Taumadhi Squaqre、東側にタチュパル広場Tachupal Squaqreまで迷路のように広がる路地を走り回るのに忙しい。まるで広大なバザールである。これだけでは驚かない。ここは、単純な言い方であるが、美しいのである。理由付けが要らないと言うか、できないほど美しいのである。でも何か言わなくては読者諸氏に伝わらない。槻並な表現であるが、「ネワール族が築いた中世の街並みがそのまま残されている」のである。
 突然であるが、製作年は1987年、伊・英・中で制作されたベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストエンペラー」を御存知でしょう。出演者、スタッフも含めて超一流の方々であることも含めて、不巧の名作として映画史に残る傑作であろう。北京を旅する多くの旅行者と雑談をする時に話題になる作品である。そして、「リトル・ブッダ」では、出家前のシッダールタ王子が過ごした町として、多くのシーンがここバクタプルで撮影された。バクタプルは、カトマンドゥ盆地ではカトマンドゥ、パタンと並ぶ古都であるが、それはベルナルド・ベルトルッチ監督の作品で表現されるように、ある意味でイタリア的ペーソスを感じさせる深い美しさを感じさせるものである。
 一度は盆地全体の首都でもあったバクタプルは、マッラ王朝時代(15世紀から18世紀)に3王国の首都の一つとして、華やいだネワール文化とともに発展を遂げた。私の年のせいもあろうが、もう一度「イタリア的ペーソスを感じさせる深い美しさを色濃く感じさせる古都である」。

バクタプルヘようこそ
ダルバール広場の東側にあるタチュバル広場の中心に建つダッタトラヤ寺院。1本の木から掘り出したと言われる1427年建立の木造寺院である。ヒンズー教の寺院であるが、仏教徒も参拝に訪れる
レンガと木の町の美しい建物が続く
カトマンドゥの木彫美術館
Wood Craft
建物の左下部分に表示してある「この向こう30メートルに『孔雀の窓』あり」の白い掲示が見えますか?
ネワール彫刻の傑作、「孔雀の窓」。美しさ故に「ネパールのモナ・リザ」とも呼ばれる
窓の隅の部分を拡大した写真
木彫美術館の斜め向かいにある真鍮・青銅美術館
真鍮・青銅美術館
寺院の入口。土足厳禁。室内の写真撮影禁止
先に述べたネワール族が築いた中世の美しさを彷彿とされる建物の一つは、1702年に建立された高さ30メートルのニャタポラ寺院。「ニャタポラ」は「五重の屋根」という意味で、寺院は5段の基壇と五層の塔からなる
ニャタポラ寺院の本尊は女神シッディ・ラクシュミと言われているが、扉は釘付けされているために、一度も開けられたことがないそうだ
塔までの階段はひな壇上になっているので迫力がある
修復中で写真にするのがかわいそうであるが、五重塔の目の前にある三層のヒンドゥー教の寺院、バイラブナート寺院。今は美しい姿を見せているのだろうな?

陶器広場
 バクタプルの美しい広場を構成するマテリアルの一つ、レンガや陶器は地場で造られている。それも自らその名前を付けた「陶器広場」を持つ。トウマディー広場から少し先にある広場で、バクタプルの陶器職人街では多くの職人が作業に勤しんでいる。
 この広場には、土などの素材を丁寧に分類、乾燥し、乾燥中の陶器を並べているレンガ造りの工房も見学が可能になっている。工房によっては作業工程の体験をさせてくれるところもある。
 人気のバクタプル名物である「ズズダヒ」というヨーグルトが入っている陶器を始め、陶器に関する色々なお土産屋さんも多数ある人気の広場である。

砂の乾燥
成型担当の職人さん
陶器の乾燥
出荷前の陶器
お店屋さん

55窓の宮殿に戻る
 陶器屋のおばさんを冷やかしていたらご婦人に声をかけられた。私のような方向音痴でも、観光客に方向を聞かれることがある。今回は「55窓の宮殿」である。さっき行ったばかりでも怪しいのが私のような方向音痴。偶然、今回はうまく目的地に行けた。ついでに、もう一回じっくり観た。

ゴールデンゲート、「55窓の宮殿55 window palace」をバックに、ブパティンドラ・マッラ王(在位1696〜1722年)がお祈りをしている像が上に乗った石柱。ネパールの石像の中では最もすばらしいと言われる石像

前の写真をトリミングして拡大した写真
旧王宮の左に隣接する建物は、国立美術館として公開されており、仏画や神像が展示されている
1745年にランジット・マッラ王によって建てられた旧王宮への入口の門
門にはガルーダにまたがるカーリー女神、ヴィシュヌなどのヒンドゥの神々の装飾細工が施され、芸術品として評価されている
ゴールデンゲートの右隣にある1427年にヤクシャ・マッラ王の統治期間に建てられ、17世紀にブパティンドラ・マッラ王によって再建された「55窓の宮殿」。その名のとおり、入り口を含めると窓が55あり、それぞれには緻密な彫刻が施されている
ダッタトラヤ寺院と向かいに立つガルーダ像
水汲み作業
タルチョ

ヒマラヤの夕焼け
 「ヒマラヤの夕焼け」と「ヒマラヤの朝日」は、どこで見るか?「どこでも良い」が結論だそうです。「どこからでも美しいのだ」そうです。と言うことで?遠くカトマンドゥ盆地の東端(峡谷)「ナガルコット」に向かうことにした(最も美しい夕焼け、朝焼けを見られると言われている所です)。こういうひねくれ者は結構多くて、「今晩のゲストハウスは空きがあるかな?」とみんな心配している。大丈夫。とても世話好きで、宿から歩いて10分くらいの所に「美しい夕日が無料で見られるゲストハウス」が予約できた。私のカメラが最も貧弱であったが、何とかなった。

ヒマラヤの夕焼けです 撮影時刻17時06分
17時06
17時06
ヒマラヤの夕焼けです 17時06
17時07

ネパール・カトマンドゥ(2)

パタン
 先に、拙稿「北インド・ワラーナシーとサールナート」において、聖なる河ガンガーが流れるワラーナシーの「マニカルニカー・ガートとハリシュチャンドラ・ガートには火葬場がある」ことを御紹介した。そして、これから御紹介する予定であるが、ガンガーの支流であるバグマティ川に面するネパールのパシュパディナートには、隣接した複数の火葬台を備える火葬場「アルエガート」がある。この聖河・バグマティ河の対岸に位置するのが、今日最初に訪ねるパタンである。
 カトマンドゥ盆地にマッラ3王国があった時代に首都として君臨した古都である。旧王宮を始めとした建築物もそうだが、それ以上に街ですれ違う人々の動きに、日本人の多くは何かしらの共鳴する所作を感じるであろう。パタンという語は「美の都」という意味だと教えられたが、ハードウェアと同時に、繰り返しになるが、人々の持つ雰囲気が、…、何人かの人達に親切にされて少し理解できるようになった。間違っているかも知れないことを恥じずにズバッと言ってしまえば、その底流に流れている源流は「仏教」だと思うようになった。とてつもなく大きなテーマなので、今はここで中断するが、長い仏教の歴史を持ち、パタンの住民の8割が仏教徒だそうだ。納得、勝手だが。

ダルバール広場
 ダルバール広場は、前述したようにマッラ王朝の最盛期(16世紀~18世紀)に首都として君臨した古都であるだけに、造られた古い建物が今も美しさを競っている。東側に旧王宮、西側に寺院と分かりやすい。まさにネパール建築の展示会場のようである。

広場とは離れているが、たまたま仏教学校だったので掲載した。スガタ仏教学校
ダルバール広場
ダルバール広場の一角にあるクマリの館(クマリのやかた)。カトマンドゥで女神クマリの化身として崇拝される少女が住む館
クマリの館は、窓枠の木彫りが壮麗な3階建ての建物。1575年、ジャヤプラカーシャ・マッラ王による建造と伝えられる
旧王宮や寺院が並ぶパタンのダルバール広場
旧王宮前 ダルバール広場の説明
ナラヤン寺院の修復
CHAR NARAYAN TEMPLEの再建
ダルバール広場の東側に建つ旧王宮。パタン博物館は広場の北の端にある旧王宮の3つあるチョークの一つで、旧王宮の一部を見学できる博物館である
パタン博物館
パタン博物館
博物館の展示物
釈迦牟尼仏陀
黄金寺院
博物館横の喫茶店(ダージリン・ティ)
Konti Ganesh Temple

ボダナート
 ボダナートBoudhanathは、カトマンドゥにある、高さ約36メートルのネパール最大の巨大仏塔(ストゥーパ)である。「カトマンドゥの渓谷」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。世界のチベット仏教の中心地であり、中心には仏舎利(ブッダの骨)が埋められている。解説書によると、ボダナートの「ボダ(ボゥッダ)」は「仏陀の」「仏教の」「知恵の」を意味し、「ナート」は「主人」「神」などを意味するそうである。三重の構造からなる基壇と直径27メートルの石造りドームから構成されて、その上には四方を見渡す「ブッダの知恵の目」が描かれている。

ネパール最大のストゥーパの塔頂部から5色のタルチョ(祈祷旗)が風になびいている。ストゥーパの周りは右回り(時計回り。原始仏教以来の作法)で人々が回っている
ブッダの知恵の目(ブッダ・アイ)が四方を見渡している。思わず引き込まれて、売店でブッダ・アイの帽子(キャップ)を買っていた
いいことありますように
「プラスチック・バッグを使用しないで下さい」。修道院エリアではこの告示が多い

一歩下界では、金、車、そして商売、商売

相変わらずの渋滞
参考までに、本日の為替レート(2018年10月29日)
美しい。売っているのだが、まるで展示場みたい
選ぶのに時間がかかってしまう

ネパール・カトマンドゥ(1)

大都会のカトマンドゥ 
 人口45万人のネパールの首都カトマンドゥ。ホテルのスタッフは「人よりも神々の方が多く住む町」と教えてくれたので、ましてやネパールという工業化されていない国なので、穏やかな空気の澄んだ町だと勝手に思い込んでいたのだが、ポカラから来てみて、そのイメージが吹き飛んだ。車やオートバイの増加による交通渋滞、大気汚染が著しい大都会である。
 市内の移動には、リキシャーと呼ばれる一種の人力車があるが、外国人に対しては料金を吹っ掛けてくるので、気分を害する人達も多い。タクシーもメーターを倒すドライバーは少なく、結局、乗車前の値段交渉が必要になる。どうする?ある程度の慣れが必要になるが、私は10人乗りの「テンプー、tempo」と呼ばれる小型オート三輪を多用した。バスのようにルートを持つが、始点と終点以外は決まった停留所が無く、降りたい場所で「ストップ」とか言って自由に降りることができるのである。これだけの説明だと難しく感じるかもしれないが、乗る時も降りる時もその場所が載っている「…歩き方」の写真を運転手か乗客に見せるのである。要するに「甘えの必殺技」である。誰かが助けてくれます。

旧市街をブラブラ
 カトマンドゥの旧市街と呼ばれるタメル地区の中心(Thamel Chowk)近くにホテルをとった。ポカラからここへバスで移動した際、同乗した日本人の青年が教えてくれたのだが、カトマンドゥでホテルを選ぶ基準は、「汚れていないきれいな水が出ること」だそうだ。「中級クラスのホテルでも茶色の水が出ることがあるので、むしろゲストハウスで水を出してみてから決めた方が良い」とのアドヴァィスだった。人の話は聞く方なので、通電(停電)の状態と水の色を確認して、ゲストハウスを選択した。予定の宿泊費の半額で済んだ。
 私のような方向音痴でも、というよりもゲストハウスのおばさんからの受け売りであるが、あまり迷わずにカトマンドゥの街歩きをするコツは、いくつかの有名な「チョーク」の位置を頭に入れておいて、それらを目的地にして移動することである。チョークChowkの定義は、ガイドブックなどには中庭Backyard、ラウンドアバウトRoundaboutなどと書かれていてるが、私的には勝手に、“建物に囲まれた中庭や広場”とか“バザール”のイメージを抱いている。これから出かけるカトマンドゥの街歩きの要領で言うと、スタートは①タメル・チョークThamel Chowk→②タヒティ・チョークThahiti Chowk→③アサン・チョークAsan Chowk→④アカシュ・バイラヴ寺院Akash abhairav Mandirのあるインドラ・チョークIndraChowk→⑤セト・マチェンドラナートSeto Machhendranath寺院→⑥マカン・トールMakan Toleを抜け→⑦寺院、旧王宮「ハヌマン・ドガ」となる。その予定だったが、例によって途中で狂ってしまった。まぁ、いいさ。

それではご案内します

私はこれでもホテルへの道に迷う。ここから徒歩3分なのに10分かかることもある
信者なのだろうか、道行く人々は道端に建っている祠堂(しどう:この場合は神仏 を祭った小さな 社)を見つけると、手を合わせ、頭を下げる。まるで神様や仏塔にお参りしながら歩いている感じである
ゲストハウス近くの市場にあった野菜売り場。このような屋根の無い色々な店が並んでいる
売り物の名前は忘れてしまいました
これも名前は分かりません
ここでも手を合わせる人達がいます。その信心深さに台湾を思い出しました
金属食器類などの店

ここも金属類。他にもたくさん続く

商店街が続く。商品ごとにまとまっているようだ
「ジャナ・バハルではいかなる宗教の信者でも歓迎いたします」。そのせいか、混雑している
ジャナ・バハルJana Bahaのカルナマヤ寺院Temple of Karunamaya

 

ジャナ・バハルJana Bahaのカルナマヤ寺院Temple of Karunamaya
ジャナ・バハルの入口
マニ車
二層の屋根を持つセト・マチェンドラナート寺院 Seto Machhendranath Temple (Jana Bahal)。ネパール土着の昔からの豊穣神とヒンドゥ教のシヴァ神が融合した神で、建立1408年、600年を越える歴史ある寺院である。接頭語のセトは白色を意味する
アカシュ・バイラヴ寺院。インドラ・チョークの日用品や衣類等が売られている賑やかな交差点にある。2階のバルコニーから4頭の金色の獅子が身を乗り出している姿が勇ましい。寺院の中の神像は9月のインドラ・ジャットラの時に広場に引き出されるそうである
アカシュ・バイラヴ寺院のすぐ左に小さいガネーシュを収めた祠堂がある。ヒンドゥ教の神の一柱で群衆(ガナ)の主(イーシャ)」を意味し、また 「富の神様」として商人から信仰を集めている
シヴァ・パールヴァティ寺院 Shiva Parvati Temple。18世紀後半にゴルカ王朝(シャハ王朝)のバハドゥル王によって建てられた。私が見学した当時は地震対策でつっかい棒が架けられていた。中央上層に見える白く小さい窓にご注目
その窓からシヴァ神とパールヴァティ妃のカップルが仲良く下界をご覧になっている
カスタマンダプ寺院。カトマンドゥの名前の由来となったネパール最古の建築物(12世紀頃の建造)。「カスタマンダプ」とは、「木の家」という意味で、大木 1本から造られたという伝説を持つ
JICAによるシヴァ寺院や関連構造物の再建。以下、関連の写真の一部
旧王宮の中庭。ムル・チョーク

トリブヴァン博物館
 ナサル・チョークの西側に位置し、この奥側が旧王朝である。ネパールが開国した1951年に王であった第8代トリブヴァン王(在位1911年~1955年)に関する品々が展示されている。

トリブヴァン博物館

ダルバール広場
 カトマンドゥを語る時には、「ダルバール広場」は最も露出度の高い場所そして言葉であるのでここにまとめておきたい。「ダルバール」とはネパール語で「宮廷」を意味する。マッラ王朝が君臨した3王国時代には、王宮前の広場として、カトマンドゥ王国の中心であった。パタンとバクタブルにも「ダルバール広場」があり、それぞれ国の中心となって栄えた。
 御存知のように、2015年4月に大地震が発生して大きな被害を被ったが、私がネパールを訪ねたのは2018年10月~11月であり、各国の援助による修復の最中であった。

人気のカール・バイラヴ
 ダルバール広場からインドラ・チョークの方向へ進むと、シヴァ神の化身の一つであるカーラ・バイラヴが多くの人々を集めている。刀を振り上げ、生首をぶら下げている恐怖の神であるが、カーラ・バイラヴの前でうそをつくと即座に死んでしまうと信じられており、17~18世紀には、この像の前に犯罪の容疑者を連れてきてその罪を白状させていたそうだ。写真の表情といい、この話といい、なにかユーモアがあり、旅行客もVサインと笑顔で写真を撮っている。

人気のカール・バイラヴ
信者達は、シヴァの化身である恐怖の神カール・バイラヴに熱心に手を合わせている
ここにも人気者がいた

スワヤンブナート寺院
 スワヤンブナート寺院 Swayambhunath Templeは、カトマンドゥ盆地にある仏教寺院で、ネパールで最古とも言われ「カトマンドゥの渓谷」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。崇拝の対象が猿であるため、別名、「モンキーテンプルmonkey temple」と言われるくらい野生の猿が多い。後述する「タイトル:ネパール・カドマンドゥ(2)」でも書きますが、寺院とか修道院エリアでは「プラスチック・バッグを使用しないで下さい」の告示が多く見られますが、その理由の一つは、猿対策です。ビニール袋は猿たちの格好の餌食になります。お気を付けください。
 もう一つ。寺院のある上まで登るのに400段の階段が待っています。脚力に自信の無い方でお金のある方はタクシーを利用して下さい。但し、丘の上の駐車場まで行って、そこから緩い勾配を少し歩きます。「Rs500」です。脅かしです。ほとんどのタクシーがそう言ってきます。Rs200は絶対に譲らないように頑張りましょう。そして、お金が無い方は諦めるか、バスでリングロードのスワヤンブーバス停で降りましょう。ここで、私の「甘えの必殺技」を使いましょう。バスのカラシ(集金人)か、周りのネパール人に大声で「スワヤンブー」と叫びましょう。バス停の「スワヤンブー」に来たら誰かが教えてくれます。何とかなります。ごゆっくりと。
 しかし、ここでは未だ「ごゆっくりと」とはいきません。いずれにしても、最終局面では階段が終わりに近づくにつれて勾配が急になり、ようやくストゥーパが目の前に姿を現した辺りはまさに最急勾配です。…、「頑張った」と思ってはいけない。階段を登りきる手前の左側にチケットカウンターがあって行く手を遮るのである。そうです、入場料Rs.200です。でも、とても勉強になる所です、気持ちよく払いましょう。

丘の上に建つカトマンドゥで最古の寺院と伝えられているスワヤンブナート寺院
スワヤンブナート寺院
スワヤンブナート寺院

ドルジェの近くにある白いシカラ様式の寺院は、アナンタプラ・シカラ(Anantapura Shikhara)である。1646年に建てられたものである
 
丘の上のスワヤンブナート寺院から見た眼下に広がるカトマンドゥ盆地
黄金色の仏陀の座像もある
寺院の階段を登った正面にあるドルジェ(「金剛杵」の漢名どおり、非常に硬い金属でできた道具、武器)。ドルジェの台座にはチベット暦の十二支が描かれているが、酉が普通の鳥で、亥が豚というところが日本のものと違っている。リーフレットによると、近くの獅子像と共にプラタップ・マッラ王によって作られたものだそうだ

ネパール・ポカラ

ポカラ
 昨日、ルンビニのツーリスト・バスパークを朝8時半に出発、直通で約8時間でポカラに着いた。バス料金は、Rs800と安かった。熟睡して、今は翌日の朝9時であるが、これから、ポカラの市内そして周辺の観光を4日間ほどかけて楽しもうと言う計画である。ヒマラヤが見えるせいか、寒い気候を想定してしまうが、標高は800メートルと意外と低く、驚いたことに周りにバナナの樹が生えている亜熱帯のような雰囲気が漂う。よく考えてみれば、南側はインドと国境を接するタライ平原が広がっているのだからこの雰囲気は当然と言えば当然なのである。アンナプルナ連峰そしてフェワ湖の展望をじっくりと楽しみたい。
 そうそう、「ポカラ」という地名はネパール語の「ポカリ(湖)」が起源だそうです。街の中心もフェワ湖のレイクサイド(現地名はバイダムBaidam)辺りであり、バスで一緒に来た“連中”もこの近くにホテルをとったようだ。“連中”で思い出したが、その中の一人が毎年、ネパールに来るらしく、ネパールの旅の知恵をみんなに教えてくれた。①ホテルは安宿でなくても交渉で安くなるので予約不要。②メーター付タクシーは少ないので、必ず価格交渉を。③バザールや町中の移動はレンタサイクルが基本、1日Rs 800以下。④確約はできないが、市バスは手を挙げると止まってくれる。

静かなフェワ湖からヒマラヤを臨む
かの有名なマチャプチャレを望む
農民のお母さんだろうか

バラヒ寺院
 フェワ湖に浮かぶ小島にあるので、“湖に浮かぶヒンドゥ寺院”と呼ばれるバラヒ寺院Barahi Mandirは、2層の屋根を持つ小さな寺院である。市バスの終点近くから出ている渡し船で行くことができる。寺院には地母神の守護神であるアジマ神の化身とされるイノシシが祀られている。

バラヒ寺院への渡し船
こんなのもありました
バラヒ寺院
バラヒ寺院の上部をアップ
アジマ神の化身とされるイノシシと握手
蝋燭を供えて何を願っているのだろう
フェワ湖畔でボート遊び。のどかな風景である
幻想的な風景をたっぷりと
バラヒ寺院
これがすごい人気でした
「スチューパへ45分」の立て看板
鮮やかな色彩である
日本山妙法寺
そびえ立つ山々の麓に位置するフェワ湖畔の町

デヴィズ・フォール
 農家が散在する高台から坂道を一人で降りてきて、というか、道なき山道に迷ってしまって、やっとのことで一般道路に下りてきた。後で分かったのだが、散在する小屋のような建物は「タシリン・チベット村Tashiling Tibetan Refugee Camp」と呼ばれるチベット人居留地であった。後述するカトマンドゥの「チベット難民キャンプ」の項でもご紹介させていただくが、1959年の中国軍侵入によるチベット動乱の際、ネパールへ逃れてきた難民が造ったものである。
 話を「山道から一般道路に下りてきた」時点に戻して、「デヴィズ・フォール」という道路標識が見えたのでそこに向かった。それが方向音痴の役得になった。迷ったおかげで「デヴィズ・フォール」という観光客が集まる人気の場所に着いたのだった。フェワ湖から流れる川の水がいったん地中に吸い込まれ、岩壁の大穴から滝(フォール)になって流れ落ちる奇妙な流れを見せる場所である。土木工学的には一種の浸食現象であり、それ故に乾季にはこの現象は見られないと思うのであるが、ついつい科学してしまって1時間もいたせいか、担当者に間違われてしまって、観光客から難しい質問を受けてしまった。

大混雑のデヴィズ・フォール
デヴィズ・フォール
デヴィズ・フォール

グプテシュワール・マハーデヴ洞窟
 観光客の質問に丁寧にお答えしたせいか、中にはチップをくれる方もおり、Rs200ほど臨時収入を得てしまった。これに味を占めて、どこかの観光地で腕章をつけて白い棒を持って立ってみよう。お客さんもいなくなったので、観光客の流れについて行ったら、デヴィズ・フォールから道を挟んだ反対側に「グプテシュワール・マハーデヴ洞窟」が見えてくる。洞窟の入口から進むと真ん中に大きな穴があり、下へと続く螺旋階段がある。その昔、ヒンズー教のシヴァ神の像が見つかった鍾乳洞の跡であった。

デヴィズ・フォールから道を挟んで反対側にグプテシュワール・マハーデヴ洞窟の入口がある
洞窟の入り口をくぐると、たくさんの店が立ち並んでいる。洞窟の入口から螺旋階段を下りてみた
その昔、ヒンズー教の一人の修験者がこの洞窟にシヴァ神の像が眠っている夢を見て、内部を捜索したところ本当に像が見つかったと言われている。発見された像を祀った小さな寺院があり、さらに奥には川の水によって浸食された鍾乳洞があった

アンナプルナ自然史博物館
 アンナプルナ自然史博物館は、プリティビ・ナラヤン・キャンパスの敷地内にある博物館で、アンナプルナ地域に生息する動植物、昆虫などが展示されている。一部の模型や展示物などについてはイラストが多用されていた。旅行案内書にチョウ類の標本が豊富と書かれていたので、係員と思しき方におたずねしたところ、若い女性の研究者を呼んでくださって、多数の標本を見せていただいた。かなり本格的な研究者で、読者の中には、蝶についてはマニアックな取集家も多いと思いますので、是非、お訪ね下さい。
 帰りのバスの時間を気にしたところ、バス停まで送ってくださって、本当に楽しく、かつ方向音痴の私にはとても助かりました。お勧めです。但し、さっと見るだけではすぐ終わってしまうほど狭い建物です。引き出しに入っている無数のチョウをリクエストすると、丁寧に対応してくれます。「ありがとうございました」。

アンナプルナ自然史博物館
自然史博物館。アンナプルナ地域の動植物を展示
ヒョウの剥製
天然石の展示
アンナプルナの保全地域の蝶の展示
アンナプルナの蝶
マスク
アンナプルナ自然史博物館のヴィジター情報センター