カンボジア・シェムリアップ

ホーチミンからシェムリアップ
 ベトナムのホーチミン市からカンボジアのシェムリアップへ移動する。目的はただ一つ、ここから「アンコール遺跡」へ行くためである。「前もってビザはとってある」と言えば余裕があるように思われるが、実は(ベトナムのホーチミンに向けて)日本を発つ前日の夕方にカンボジア入国のビザを取ったのである。それもこのブログに何度か登場するハノイに在住する“ご学友”の助力によってである。あぶない、あぶない。
 ホテルもアンコール遺跡に容易に行ける所と言うことで、「…の歩き方」に載っている“日本人バックパッカー御用達の宿”にあたりをつけておいた。空港でバイクタクシーに「日本人」と言うと、片目をつぶって御用達の宿に向かってくれた。有名なゲストハウスらしい。
 私は自分の年を考えて、若い人達への迷惑を考えて、相部屋を前提としたドミトリーは無理と考えていたが、シングルもあるそうで、そこを予約することにした。日本人の大学生らしき若者が7人ほど靴を脱いで居間?で雑談をしていた。そんなにきれいな格好をしていなかったのだが、「シングルですね?」と言われ、さらに今後のスケジュールを尋ねられた。集団で車をチャーターして、「アンコール遺跡」や「ベンメリア遺跡」を効率的かつ経済的に訪ねようと言う計画であった。恥ずかしいことに、「ベンメリア遺跡」など初めて聞く遺跡名であった。「私のような年寄りでも、…」と遠慮したが、気持ちよく仲間に入れてくれた。感謝、ビールを奢ったが、意外や、酒類を飲めない学生もいて、4人で楽しんだ。「意外や、飲めない学生もいて、…」と考えるのは、私が昭和世代の学生をイメージしているのだろうか?

シェムリアップ国際空港
航空機、2機見えますか? 1機の航空機を撮ったつもりだったのだが、偶然、もう一機 写っていた
到着エリアにあった象の像

アンコール国立博物館
 アンコール国立博物館は、シェムリアップに2007年にオープンしたアンコール遺跡群の国立博物館である。汗だくになりながら広大なアンコール遺跡を見学する前に予習、あるいは見学後の復習が涼しい館内でできるので、とても役に立つ博物館である。日本語のオーディオガイドが数ドルと安いのもうれしいサービスである。最近の情報で館内は写真撮影禁止と報告されている記事もあるが、2011年に私が訪れた時は、私も周りの人も写真を撮っており、私達が鈍感だったのか、いずれにしてもここでは内部の写真の掲載は割愛させてください。
 アンコール遺跡の彫刻や彫像をテーマや年代ごとに展示していて、2階から入って1階に向かうのだが、アンコール・ワットの大きな模型がある部屋や約1000の仏様に出会えるイクスクルーシヴギャラリーが人気でした。

アンコール国立博物館
アスラとインド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称を説明している

アンコール遺跡の見学
 「アンコール遺跡」と一口で言ってもその広大さはとてつもない。このクメール王朝時代の遺跡群は1992年ユネスコの世界危機遺産に登録され、さらに遺跡を中心とし修復に努めて、第二段階として2004年世界文化遺産に登録された。今日はゲストハウスに宿泊している日本人学生達の仲間に入れてもらって、アンコール遺跡の見学に出かける。
 経済的かつ充実した“知的好奇心に溢れた旅”を求める若者達が何年もかかって作り上げた“アンコールの歩き方”は、“二人一組”の行動であった。アンコール遺跡と呼ばれるエリアの中でゲストハウスから最も遠い「バンテアイ・スレイ」までトゥクトゥクで50分ほどで行き、そこから見所を見学しながらゲストハウスに最も近い「アンコール・ワット」まで少しずつ歩いて移動し、見学終了後トゥクトゥクでゲストハウスに戻る行程である。アンコール・ワットからゲストハウスまで約7キロメートルである。私の相棒は、大学4年生の好青年であった。よろしくお願いします。

バンテアイ・スレイ
 ここで、話が飛躍する。私はフランスの作家アンドレ・マルローのファンであったし、現在もファンである。サルトルやマルローを読みたいために大学では第2外国語としてフランス語を選択した。当時、工学志望者はドイツ語選択が多く、フランス語希望者は少数派であったが、私にしては真面目に勉強したと自分では思っている。フランス語担当教授は、ソルボンヌ大学留学から帰国したばかりの先生で、ユーモアやジョークの好きな方であった。エスプリのきいた講義の中で、「アンドレ・マルローが、○○遺跡にあったデバター(女神)に魅せられて、盗掘して国外に持ち出し、逮捕された」と述べられた。講義の中での話、つまり私の学生時代のことである。(こう言ったら叱られますが、)ましてやフランス語を選択した学生達である。皆で拍手して大笑いであった。(小さい声で)「教授も笑っていらっしゃった」。それがこの「東洋のモナリザ」だったのだ。半世紀以上前のこの話を今日の私の相棒達“大学4年生の好青年達”に話したところ、彼等も大笑いであった。「メルシー・ボク」。
 おかげで、「東洋のモナリザ」部分を写真に撮るのを忘れてしまって、偶然写っていた他の写真からトリミングをしてお見せする羽目になってしまった。もっともマルロー事件のおかげで、その後、「東洋のモナリザ」などのデバター周辺は立入禁止区域となって、柵の外からしか見ることできなくなったそうである。

南経蔵破風(はぶ)に施された渦巻文様の浮き彫り
偶然、この写真の右側の後ろに「東洋のモナリザ」が写っていた
上の写真の「東洋のモナリザ」部分を切り取った画像

バンテアイ・サムレ
 バンテアイ・サムレは、12世紀中頃にスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)の統治時代に造られたアンコール・ワット様式のヒンドゥー教寺院の遺跡で、高さ6メートルの外周壁に囲まれている。インドシナ半島の古代民族サムレ(Samré) に因んで名付けられ、「サムレ(入れ墨)族の砦」の意味をもつそうだ。
 アンコール・ワットに似た中央祠堂を持つため、「小アンコール・ワット」とも言われている。また、赤っぽい色をしているのは、「バンテアイ・スレイ」と同じ材料を用いているためである。

バンテアイ・サムレ

バンテアイ・クディ
 最初はヒンドゥー教寺院として建てられたが、後に仏教寺院として再建され、さらにヒンドゥー教寺院に改宗された寺院である。多くの建物が崩壊し、現在復興中であるが、壁面の彫刻や柱のアプサラス像やデンバーの浮彫りなどの細やかな装飾部分は残っている。

外周壁;バンテアイ・クディの仏面島(東撘門)
第3周壁;前柱殿のアプサラスの彫刻
前柱殿のアプサラスの彫刻
第2周壁;デヴァター(右)の浮彫

タ・プローム
 12世紀末にジャヤヴァルマン7世が仏教寺院として建立したが、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと言う。タ・プロームとは「梵天の古老」という意味があるが、その理由については分からない。
 アンコールの他の遺跡と違うところは、樹木が取り払われずに残されていることだ。遺跡に樹木が絡まっている風景に唖然とする。発見当時の様子を残すために樹木の除去などの修復をしていない方法で維持しているようだ。遺跡そのもののメンテナンスは行われているようだ。
 通りがかりの人に映画『トゥームレイダー』のロケ地だと教えられたが、映画を見ていないので確認できない。

危険地域の立て看板
巨大な榕樹・ガジュマルが遺跡に張り付いている
茶胶寺
茶胶寺の補修・修復工の立札

 バプーオンは、明日訪ねる予定の「アンコールトム」にある「バイヨン」の北西に位置する。1060年頃、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられた3層からなる山岳型(ピラミッド型)寺院である。王宮前広場の南端にある東塔門から内側の塔門に向かって延びる長さ200メートル、橋脚の高さ約1メートルの参道が美しい。この参道は、3列に並ぶ円柱の橋脚とともに崩壊していたが、EFEO(フランス極東学院の略称) によって修復されたものである。
 バプーオンとは「隠し子」という意味で、カンボジアとタイの争いの時に、王子をこの寺院にかくまったという「隠し子伝説」からついた名前だそうだ。

修復された円柱の橋脚と参道

アンコールワット
 アンコール・ワットは、1113~1145年頃にスーリヤヴァルマン2世によって建立された石造りのヒンドゥー教寺院である。16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在に続いているが、ご存知のように、ユネスコの世界文化遺産あるアンコール遺跡群を代表する寺院である。クメール語で、アンコールは王都、ワットは寺院を意味することから、アンコール・ワットは「国都寺院」という意味になる。大伽藍と美しい彫刻はクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。寺院を囲む東西1.1キロメートル、南北1.3キロメートルの濠、参道、3つの回廊、中心部の5基の塔から成る壮大な寺院は、結構、首回り、足、腰にくる見学であった。
 若者に首を揉んでもらって、首回りが軽くなってはたと気づいた。一般的にクメール建築は正面が東を向いていると言われ、二人もそれに気づいていたのだが、アンコールワットはなぜか西を向いている。理由は分からない。ゲストハウスに戻ってから、この話を持ち出したのだが、「ヒンズー教の寺院なのでカンボジアから見ると西にあるインドの方向を向いている」とか、「王の墓なので、西方浄土…」等々、分かったような、分からないような、…。

西の参道から見上げたアンコール・ワット中央
水面(みなも)に映るアンコール・ワット中央
アンコール・ワット第三回廊のデバター
急勾配である

アプサラダンス
 私の“夜の病気”は、場所、季節を問わずにやってくる。ゲストハウスから若き美女の運転するバイクに乗せてもらって、怖いので細いウェストにしっかりとつかまって、5分間。クメールの伝統舞踊「アプサラダンス」を観ることができるレストランでカンボジアの郷土料理を食している。
 アプサラは、古代ヒンドゥー神話に登場する水の精であるが、現在は伝統舞踊ショーの人気演目「アプサラダンス」として民衆の中に生きている。内戦で一度は失われてしまったアプサラダンスは復活していたのだ。きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の手の動きに特徴があり、妖艶な踊りは人々の視線を引き付ける。民衆劇も演じられ、笑いを誘っていた。
 贅沢な夜だった。

民衆劇
女性の手の動きに特徴がある踊り
きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の踊り
フィナーレは夜の10時半であった。ご苦労様。お休みなさい

ベンメリア遺跡
  ベン・メリア遺跡は、シェムリアップから約70キロメートル離れたクーレン山南麓にある遺跡である。まさにジャングルの奥深くにある遺跡で、距離も遠いし、定期観光バスも無いことから、一人旅は難しい。ここでも、ゲストハウスに感謝感激。タクシーなら1台60US$のところを十人以上乗車のマイクロバスで一人あたり7US$と特別料金である。明るい雰囲気の若い連中と片道1時間ほどの行程であった。
 ベン・メリアとは「花束の池」の意であり、アンコールワットと比べると規模には劣るが、類似点も多いため東のアンコールワットとも呼ばれる。但し、寺院に関係する碑文はほとんど残されておらず、現在でも謎の多い遺跡である。
 タ・プローム遺跡を凌ぐような草木に埋もれたジャングル遺跡であるが、遺跡の周りは管理者がしっかりと維持管理をしているのか、それとも多くの訪問者によって雑草が踏み固められているためか、歩きやすいように整地されていた。気になったのは、客の取り合いをする未就学か低学年の“小さきガイド”であった。正確には、“自称、小さきガイド”であった。わずかのお金をねだりながら、英語らしき言葉で説明をしたり、腕を取って見所に連れて行く(行かれる?)のである。「ありがとう。学校に行けると良いね」と日本語で言った。小金を入れてあるポケットを抑えながら、そう言ったのだが、これは子供達への教育であり、一人旅の作法・流儀でもある。

天と地をつなぐナーガ
崩れ落ちた石がそのままになっている
自称「遺跡案内人」。勉強するんだぞ
勢いのある木々と崩壊した建物
「CMACによって除去された地雷源」の立札がある。「CMAC」とは、Cambodian Mine Action Centre(カンボジア地雷対策センター)の略号である
CMAC
ベンメリアを象徴する崩壊した遺跡

ベトナム・ホーチミンとメコンデルタ

言い訳
 私のブログのカテゴリーで分類すると、『新旅行記・アジア-1』、『新旅行記・アジア-2』は中国を主体としている。『新旅行記・アジア-3』で、やっと中国以外のアジアを一部ご紹介できた。特別の理由は無いが、『ベトナム』から始め、『タイトル:ベトナム・ホーチミン』、『タイトル:ベトナム・フエ』、『タイトル:ベトナム・ハノイ』と名付けて、既にアップローディングした。
 実際の旅のルートから言うと、①ホーチミン、②フエ、③ハノイ、④ここでカンボジアの『シェムリアップ』に渡って、次に⑤『ベトナム南部』に戻ってくるルートなのであるが、(工科系的)思考では、ベトナムを取り上げた①~③の次には④カンボジアのシェムリアップではなく、ベトナムの『ベトナム南部』を④として入れて、ベトナムを終結したいのである。そして、その次に、カンボジアのシェムリアップである。
 と言うことで、文章の構成は、既に前回アップローディングした『タイトル:ベトナム・ハノイ』に続いて、今回は『タイトル:ベトナム・ホーチミンとメコンデルタ』である。ここまで書いて、思いました「 余計な時間を取らせるな!早く前に勧め」と。

ホーチミン市内観光
 昨日、カンボジアのシェムリアップからベトナムのここホーチミン市に飛び、今朝は朝食抜きで昼まで睡眠をむさぼる。ぐっすりと眠った後は、生命を維持する程度の少量のランチを胃に送り込み、美術館内を散歩する?のは、まさに贅沢の極みである。ましてや、ここホーチミン市の美術博物館は建物自体が魅力的で、ファサードの古典的美しさは入口で訪問客の足を止める。そしてその周りは、現世の俗社会とでも言おうか、歩道を埋め尽くすように出店が続く。

ホーチミン市にあるクラシカルな外観が美しい美術博物館。以前は中国人商人の建物だった
美術博物館
人の集まる所には、お店あり
この熟した果物が美味いのです。「Thomas」も売れていました

 どの場所にいても、必ず見えるホーチミン市で一番高いビル「ビテクスコ・フィナンシャル・タワー(通称、「ビテクスコ・タワー」)」を左に置き、右側にパンニングした写真である。タワーの49階にある展望台が「サイゴンスカイデッキ」で、地上 262メートルの高さから、ホーチミン市のパノラマの美しい景色を眺めることができる超高層タワーである。

「テクスコ・タワー」を左に置き、右にパンニングした写真
ホーチミンで一番高いビル「ビテクスコ・フィナンシャル・タワー」
フランスの植民地時代に建てられた、優雅で美しい市民劇場。フランス統治時代はオペラハウス、南ベトナム時代は国会議事堂と、時代により使われる用途が変わりながらここに建ち続けている
ホーチミン市でたまたま見つけて入った日本食堂。ラーメンの麺は米粉で作られたフォーの代用のような味であった。結構、美味しかった

メコンデルタ・ツァーの初日
 TNKトラベルという会社が主催するホーチミン市を出発点とする「メコンデルタ・1泊2日ツアー(英語)」に参加した。ベトナム南部に位置するメコンデルタは人気の観光地で、ツァーも満員御礼である。初日は土曜日の朝08時00分出発、初日の夜はカントーに宿泊、翌日は朝から観光して夕方の17時00分にTNKトラベルに戻るという日程であった。私的な支出は別として、基本料金は、24US$ + Single room追加料金であった。
 ツァーは、ホーチミン市から国道1号線で約2時間でメコンデルタの入口にあるティエンザン省の省都、ミトーに到着する。ここからは東に約1キロメートル進むと、最初の訪問場所である『永長寺(ヴィンチャン寺)』が見えてくる。

幹線道路も整備されている

永長寺(ヴィンチャン寺)
 ガイドから説明を受けなければ、遠目には寺というよりは西洋の城のように見える建物がヤシの木に囲まれて建っている。中国とフランスの建築様式を取り入れて1849年に建てられた仏教寺院『永長寺(ヴィンチャン寺)』である。優美で華麗な曲線が目を引き、かつ豪華な外観を持つお寺である。繰り返しになるが、ヤシの木に囲まれたお寺は、初めて見る風景であり、何とも不思議な気持ちになる。敷地内には美しい花や木が植えられ、巨大な菩薩や寝釈迦像などが点在している。
 長永寺の中には坊さんが修行する学校があり、4年間の修業が義務付けられているそうだ。

緑の中に佇む永長寺
巨大な弥勒大仏
いかにもベトナム南部を代表する草花が咲き誇っている
心落ち着く草花がいっぱい
永長寺
顔が隠れてしまって
ツァーのランチ。寂しい
カラフルな数珠が並んでいる
角度を変えて永長寺を撮る

ミトー
 「リューガン、マンゴー、ランブータンばかりじゃない、こちらに来てから覚えた果物がいっぱい。ここは果物の産地で有名な『ミト―』である」と書いたら笑われるであろう。そう、米紛から作られる「フー・ティウ麺」の本場『ミト―』についても書かなければ、✖である。
 そして、『メコンクルーズ』である。「忙しい、忙しい」。「食べるのはクルーズを楽しんだ後に」ではなく、「食べながら、クルーズも楽しむ」のである。皆さんもそうしているみたいです。
 クルーズ担当の係員が全体説明をしている最中でも、「むしゃ、むしゃ」、行儀が悪いなぁ」と思っている私も「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」。モーター付きの木造船に乗り込んで中州の「トイソン島」や「フーン島」に向かっても、「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」。係員達も売り上げ順調で、「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」、おっと間違いました、「むしゃ、むしゃ」ではなく、「にこにこ」、「にこにこ」。

現地ガイドによるメコン・ツァーの概略説明
ツァーボート
2009年1月に 7年間をかけて開通したミトーとベンチェーを結ぶ8331メートルのラックミエウ橋
漁をしている漁師さん
ベトナム南部の名物「象耳魚(カー・タイ・トゥオン、英語に翻訳して、エレファントフィッシュ)」が出てくる。ここでは、丸ごとから揚げにして食べるのが一般的のようだ。カリカリとした皮とジューシーな身が美味しい
無邪気に遊んでいる子供達だと思ったら、お茶のサービスで稼いでいた
ジャングルに架かる木橋
見事なヤシの実
飴を作っている
棒状に成形された飴。これを適当な長さに切る
紙に包んで終了。私も含めてほとんどの観光客が買っていた
櫂を巧みに使って小舟を操り、狭い水路を進む
見事な手さばきである
船を下りると楽団のサービス
橋の上から水上家屋を写す
カントー橋の料金徴収所。ここを降りると2010年4月に開通したカントー大橋がある

カイライン水上マーケット
 昨日は、『メコンデルタ・ツァー』の初日で、長永寺そしてミトー近辺を巡った後、交通の要衝であり、したがって経済の中心地でもあるメコンデルタ最大の町カントーに宿泊した。
 今日は、カントー周辺の水上マーケットの見学から始まる。数か所ある中で、比較的容易に行ける「カイライン水上マーケット」のコースである。朝8時頃と薄暗い中、市内からソクチャン方面に船で7キロメートルほど南下した辺りにあり、1キロメートルほど続く。約30分くらいであったが、船酔いして気分を悪くした若い女性もいた。
 ここの水上マーケットは、観光客相手の商品の売り買いではなく、まさに水上で行われる本格的な産物の売り買いで、その様子を観光客が見学する水上マーケットなのである。カントー周辺の7つの支流を利用した『物流システム』が成り立っているのである。農家が自分で生産した農産物を小舟に積んで水上マーケットに運び、取り扱い産物を知らせる大型船の幟(のぼり)を頼りに船を寄せ、卸商と値段交渉をしている。卸商は農家から買い取ったキャベツ、トマト、バナナなどをミトーやホーチミン市に売りに行くのである。消費者は朝収穫された新鮮な野菜類をその日の朝に口にする、実に合理的な「地産地消」である。そして、我々観光客を呼び込む観光業が成り立っているのである。

カントーの朝 7時半、路上マーケットがもう開いている
ベトナム石油の給油所
7つの支流を利用した船による物流システムが成り立っている
小さい船は農家の人々で、幟(のぼり)を立てた大型船に船を寄せて値段の交渉をしている。卸商は買い取ったキャベツ、トマト、バナナなどをミトーやホーチミン市に運ぶ
パイナップルの幟を立てている果物卸売屋さん
色々な幟が立っている
小さい船同士で物々交換をする場合もある
観光客目当ての店もある。これはすぐに口に入れられて観光客に人気であったが、後ろの「口の中ではなく、目の中に入れても痛くない」赤ちゃんも大人気であった。もう一度ご覧になってください。この親子よく似ていらっしゃいますよね。
食堂も繁盛している。ここで働く人々やたまには観光客もお客さんである
会計部長さんも忙しい
陸に下りて周辺を歩く。生春巻きに使われるライスペーパーだろうか?
豚を飼っている
構造力学的に合理性のある橋
バナナ
時計塔
カメラを左から右にパンニングして撮ったカントー博物館。ホーチミンの生涯をパネルで説明していた
私なら日本酒を選びますが、あなたはどうなされますか

ベトナム・ハノイ

フエからハノイへ
 ホーチミン市からフエへの移動で待望の夜行寝台列車を経験したので、フエからハノイへはフライトを選んだ。“ご学友”とは、夜に会うことになっているので、ハノイのホテルへチェックインを済ませた後、たっぷりと時間がある。今回は約束の時間もあるので、観光は郊外から始めないでハノイ市街の中心にあるホアンキエム湖辺りからブラブラを始める。

エフーバイ国際空港

 ホアンキエム湖の東岸から湖を眺めると、玉山島に建つ神社「玉山祠」が目に入る。玉山島は古くは象耳島、11世紀初めに玉象山、13~14世紀には玉山と名前の変遷を重ねている。これだけの名前の変わり様は、背後に多くの歴史的ストーリィ、多くの伝説が存在したことを意味する。ガイドブックによると、黎朝末期(1746年)には中国三国時代の英雄である関羽を祀る武廟が建立されたこともあるそうだ。
 玉山祠に向かうと、最初に「福」と「禄」の大きな赤い字が書かれた門が建っている。著名な儒学者、グエン・ヴァン・ズーの筆によるもので、福は幸せを、禄は豊かさを意味している。この字を挟むように黒字で縦書きにされている詩文は、人材育成の重要性などが書かれているそうである。この門をくぐると、「筆塔」、「徳月樓」と記された門などが続く。

街の雑踏、オートバイ、…、ホーチミンと比べると静かではあるが、やはり首都である
シクロも走っていて、短距離の移動に便利である
最初の門は「福」と「禄」の文字が大きく書かれている
次に、右に龍、左に虎の絵を配した門。昔、科挙合格者たちの名前をここに貼り出していたそうだ。虎も龍も、これから世の中に出て活躍するという、儒教の考えを表している
「徳月樓」と記された門。中国の四つの神獣である四霊(龍、鳳凰、麒麟、亀)の麒麟と亀が描かれている。それぞれ、皇帝、繁栄、吉兆、長寿の象徴を表す
一対に置かれたオウムの像。女性のそばで女性が言ったことを繰り返し、真実を話すことの大切さを教えたというオウムの伝説がある

ホアンキエム湖の伝説
 別名「グオム(剣湖)」と呼ばれる湖、ホアンキエム湖に伝わる伝説をご紹介したい。1428年、黎朝(れちょう)の始祖、黎利(レ・ロイ)は、湖に棲む亀がもたらした神剣を使ってベトナム(大越国)から明軍を駆逐した。後に、湖の中の小島でそれを返したが、現在、亀の塔が建っている場所がその場所だと言い伝えられている。因みに、ホアンキエムとは「還剣」という意味である。
 1968年、ホアンキエム湖で体重250キログラムの大亀が捕獲された。説明によると、剥製の体長は180センチメートル、胴回り120センチメートルもあるそうだ。「レ・ロイが宝剣を返した伝説の亀ではないか」と話題になり、剥製にして玉山祠に祀られている。

玉山祠に展示されている亀の剥製
玉山祠での撮影シーン

もう少しだけハノイ市内をブラブラ
 “ご学友”と会うまでもう少し時間があるので、ブラブラを続けたい。

フランス統治時代の1911年、パリの「オペラ・ガルニエ宮」を模して作られた市劇場。この写真に似たパリのそれを探したが、見当たらない。パリにもう一つのオペラの殿堂「バスティーユ」がオープンするまで、「オペラ座」では少なくとも20回は観て(聴いて)いるはずなのに
日本人も活躍している
市劇場の正面階段
シクロ
ベトナム国立図書館
図書館内部の検索室
館内の売店
ホアンキエム湖から2ブロックほど離れたニャーチュン通りとリー・クオックスー通りが交差する広場に建つハノイ大教会(セント・ヨセフ大聖堂)。1886年仏教寺院の跡地に建立された塔の高さ31.5メートルのハノイで最も大きなカソリック大聖堂。主要な建築材料は煉瓦とタイルだそうだ
広場の中央には “REGINA PACIS(平和の聖母)”と書かれた台座に立つ、幼いイエスを抱いた「聖母マリアの像」がある
教会内部の美しいステンドグラスはイタリア・ベネチアから運ばれてきた
李南(リーナム)帝(544~548年)の時代に「開国時」の名称で建立された.ベトナム最古の寺である。17世紀に現在のタイ湖畔の小島に移され、「鎮国寺」と改称された。細身の塔が際立つ
旅の友達 。実はこの貼薬は365日間、お世話になっている

古都ホアルー
 昨夜は、“ご学友”と痛飲した。彼はいわゆるハイソな方々とお会いできる立場にあるのだが、「今後のベトナムの政治的、経済的諸問題」などと言う話は一切出ない。学生時代に土木工学を学んだせいか、せいぜい、「こんなに豊かな水資源を持ちながら、どうして為政者と言うのは、原子力発電所の建設などに興味を持つのだろう?」といった話をしたぐらいで、若かりし頃のやんちゃな時代をふりかえる“年相応の”話を楽しんだ。「どんな内容?」。「二人のヒミツ!」。
 今日は、郊外に出て、「古都ホアルー」や「景勝地タムコック」を訪ねる現地の英語版ツァーに参加している。「ホアルー・タムコック・ツァー」と称するそれで、 日帰りで26US$であった。
 ホアルーは、建都した986年からタンロン(現在のハノイ)に遷都される1010年まで丁(ティエン)朝の都が置かれた場所である。詳細は割愛するが、解説書によると10世紀半ばに地方豪族のディン・ボ・リン(在位968~980年)が北部ベトナムを統一して独立王朝ダイコヴェットを建国した。その都ホアルーの中心地は、現在のディン・ティエン・ホアン祠と2代皇帝レ・ダイ・ハン(在位980~1005年)祠が建っているあたりと考えられている。因みに、ディンティエンホアンは、丁朝の初代皇帝である。

ディン・ティエン・ホアン祠の入口付近につながれていた牛。可愛い、友達になりたい
ディン・ティエン・ホアン祠入口
ディン・ティエン・ホアン祠
本堂の屋根部分のアップ
ホアルーの神社に祀られているディン・ティエン・ホアン(在位968~979年)
古都ホアルーの入口にある楼閣

タムコック
 「タムコック」とはベトナム語で「3つの洞窟」という意味で、それらの奇形な石灰鍾乳洞が連なる洞窟を巧みにくぐり抜けながら小舟が進む。竹で編んだ小舟に乗ってお姉さん、おばさん達が手と足を使って器用に櫂を操る姿は、周りの景色以上に観光客のカメラが向けられている。お姉さん、おばさん達と表現したのはジョークではなく、ボートの漕ぎ手は女性が多いのである。

雨模様の中、出発
洞窟の中
動画でないのが残念。この水上マーケットのおばさんは見事な足(脚)さばきで商売繁盛
船着場
舟から降りて、ここは陸上マーケットである。今日の「ホアルー・タムコック・ツァー」は、これで終了、明日のハロン湾観光」に備えよう

ハロン湾観光
 昨日の「ホアルー・タムコック・ツァー」に続いて、今日も現地発のツァーに参加した。08 :00~19:30の「ハロン湾日帰りツアー(英語)」である。バイチャイのクルーズ船乗り場まで自分で行かなければならないが、いわゆる混在ツァー(英語ツァー)なので一人49US$と意外に安い。
 ハロンという地名は、ハ;降りる、ロン;龍を意味している。ガイドブックによると、かつて周辺国の侵略に悩まされていたこの地に龍の親子が降り立ち、敵を打ち破って宝玉を海に吹き出した。これが奇岩となり、その後、外敵の侵入を防いだそうだ。伝説ではあるが、実際に神秘的な景色を観ると、1994年にユネスコの世界遺産に登録されたことに納得がいくであろう。そして自分なりの、貴方なりの想像が、キャンバスに筆を走らせ、文字になり、音符になるのだと思います。伝説はあなたが創るのです。

ここでチケットを買って乗船する
中型船乗り場
小舟に乗った観光客相手に果物を売る小舟果物屋さん
幻想的風景が続く
カヤックを楽しむ人も
こちらは小型船の船頭さん。眠りながら櫂を漕ぐプロの技である
夕方4時半頃のハロン湾の風景である
これも同じ時間帯の風景である。「子連れ、孫連れ水上マーケット」と勝手に名付けたが、なかなかの人気である

日にち変わって、チュア・フォーン(パヒューム・パゴダ)ツァー
 一昨日の「ホアルー・タムコック・ツァー(英語)」、昨日の「ハロン湾日帰りツアー(英語)」に続いて、今日は「チュア・フォーン(香寺)」観光である。似た様な観光内容であるが、乗客が違うと空間の風景も異なり、要は楽しみ方次第である。
 チュア・フォーンは、フォーン・ソン(香山)に散在する13の寺をまとめて呼ぶ名称である。私が参加した現地ツァーは、ガイドが英語を使って説明するツァーのせいか、欧米人が多かったのだが、皆さん、「パフュームパゴダ」とも言っていた。確かにその名の通り、“香り漂う洞窟寺院”である。ハノイからツァーバスで1時間30分ほどでベトナム国立公園のソンタイの町にあるクルーズ船乗場に到着する。個別に25,000ドンのチケットを買って乗船し、検閲官が来てチェックしてから出港許可となる。
 いわゆる水墨画のような景色が続き、30分ほどで下船を促され、名前の分からないお寺を全員でさっと見学、舟に戻って移動開始。何か急がされる感じであるが、一部で洞窟の中をくぐるので潮の干満に合せているのかも知れない。それから1時間は似たような景色が続き、皆さん、シャッターを押すのに飽きた頃、香山のふもとへ着く。舟を下り、昼食をとってから「30分後にゴンドラ乗場に集合」の説明を受ける。方向音痴の私目は、パーティからはぐれることを恐れて、参道の店を冷やかしながら早めに移動する。
 ゴンドラ乗場は大変な込み様であるが、上空から見下ろす風景は、その価値が十分にある。そして下界は、店、店、人、人である。時間を忘れるほど楽しかった。その時間の問題がこの後、生じてしまった。詳しくは、写真の後のセクションで。

手漕ぎ舟への乗船開始
船頭さん
最初に見学した名前の分からないお寺
幻想的風景が続く
舟が込み合ってきて、競争が始まる。同乗の青年3人が紙幣を出して賭けをしている。札の絵柄は確認していないが、こんな時でもベッティングをするのは絶対に英国人だ。10ポンドかけても良い。
香寺のある岩山に到着
凄い込み様
舟を降りてからは、まずは腹ごしらえ。…。賭けをしていたのは、ウエストエンドに棲む連中だった。勝ったヤツに「おめでとう」とスラングで話しかけたらソーセージを一本くれた。まさに、英国人だ
私の船はどれだろう
ゴンドラ乗り場へ向かう。凄い人出だ
ゴンドラ乗り場
絶え間なく動いているゴンドラ
ゴンドラからの景色
ゴンドラを降りると参道に店が続く。「南無阿弥陀仏」の石碑
現在、19時24分、そろそろハノイへ戻るバスの発車時間である。さようなら

ハノイの水上人形劇に間に合った
 ハノイのディンティンホアン通りにある水上人形劇場は、1956年、英雄ホーチミン主席が子供達のために建てた劇場である。この種の観劇、オペラ、音楽などは、旅の目的そのものになるほど凝ってしまう私目は、息を切らせてここに辿り着き、隣の席の人に「大丈夫か」と言われて、「ソ・ソーリィ」である。実は、朝から出かけていた「パヒューム・パゴダ・ツアー」の運行に遅れが生じて、水上人形劇の開演時間に間に合わなかったのだ。ツァーの終了場所までバスが行くと、完全にギブアップだったのだが、ガイドに「実は水上人形劇を予約してあって、…」と伝えたところ、運転手と相談してバスを迂回して水上人形劇場の前で止めてくれたのだ。申し訳ないので、ツァーメイトの皆さんにお礼を言ったところ、拍手を受けてしまった。「皆さん、ありがとう」。

ベトナムの水上人形劇
 いきなりですが、“ご学友”によると、「ここの水上人形劇はお前が昔から凝っている“現在の日本の文楽”とは趣を異にする。もともとはベトナムの農民たちが農閑期に行っていた土着性の強い娯楽だ」。ますます興味を持った。「玉男」「蓑助」、「志寿太夫」の洗練された芸もさることながら、「土着性」と言う言葉には、いつも引き付けられる。「土着性」や「ローカリティ」とは、ある意味、“多様性の重要な構成要素”であり、…、そうであるならば、水上人形劇は ベトナムの地方ごと、村ごとに異なるはずだ。しかし、複数回の水上人形劇を見たわけだが、まだまだ、入口に入ったばかりで論を続けるには無理がある。基礎知識をもっと身につけなければ、理屈もさることながら舞台の空間に漂う空気をもっと吸わなければ、…、そのためにもっと通わなければ。
 ところで、“ご学友”から教わった知識を忘れないようにメモしておかなければ、忘れてしまう。このようなことだったと思う。
 使われている人形はイチジク(無花果)を材料として作られたものだ。ベトナム北部では、イチジクは、若葉は豚のエサ、果実は魚のエサ、塩漬けされて農民の食料になる。「イチジク万歳」。いやっ、ここで感心しては駄目だった。いちじくの幹は5~6年で直径20~25センチになり、人形を彫るのに使用されるそうだ。一座の職工が手作りするため、劇団ごとに姿形や衣装が異なっているそうだ。
 納得。早速、誰かに教えてあげよう。

水上人形劇場入口
水上人形劇
まさにエキゾチックな鳴り物

ハノイの皆さん、ご学友Gちゃん、Mr.ベッティング、船頭さん、ありがとう
 ハノイでは、街そのもの、そして近郊の観光資源の豊富さに驚きました。そして、ベトナムが世界第2のコーヒー生産国の名に恥じない、良質のコーヒーを提供する国であることを改めて認識させていただきました。やはり、人である。私ごときがコメントするのもなんであるが、時として町ですれ違う中年・老年のご婦人の凛とした美しさ、エレガンスと言っても良いような気品ある美しさ、普段着からあの気品を醸し出すとは、…、やはり、心か。
 最後は、わが“ご学友”にあらためて感謝。JALホテル近くのコーヒー店で求めたあのコーヒー。一時は、我が家の誇る英国仕込みのミルクティを凌いでいたのだが、こっちではあのコーヒー豆の入手が難しい。送ってくれ。

ベトナム・フエ

列車に乗ってみたくて
 ベトナムの列車に乗ってみたくて、そして「列車の究極は夜行寝台列車」ということで、ホーチミンからフエへの移動は夜行寝台列車を利用することにした。ベッド、給湯・洗面所などの施設、係員の応対など、まあまあである。

ホーチミンからフエへ向かう夜行寝台列車のベッド
寝台車両の内部通路
冷水、熱湯も用意されている
駅名は分からないが、列車が停車したので寝られないままにホームに下りて外の空気を吸う

 フエ駅に到着。ホテルは予約してあるので近くに行くバスに乗ろうと出口に向かうと、マイクロバス、小さな三輪トラック、オートバイなどが待ちかまえていて、客を勧誘するおじさん、おばさんが争うように寄ってくる。私のホテルは迎え付きの予約ではなかったのだが、「…ホテル、日本人」と声が聞こえる。彼は新しい別の客を探しに来ていたのだが、私はラッキーだったのだ。新しいゲストになったフランス人のアヴェックと一緒に無料バスでホテルに直行してもらった。そして驚いた、日本人の若者が5人ほど泊まっていたのだ。ここのオーナーの奥さんが日本人であることが理由で、日本人が良く泊まるミニホテルだったのだ。さらに、ラッキーが続いた。彼らは昨日利用したらしいが、このミニホテルでは「フォンニャ洞窟巡り」を主宰していたのだった。

フォンニャ洞窟とは
 フエから北西へ約210キロメートル行くと、フォンニャ・ドン(Phong Nha Dong)がある。約2億5000万年前に形成されたと考えられているカルスト地帯を擁する鍾乳洞で、「風の牙の洞窟」と呼ばれている。ベトナム最大の洞窟で、2003年にユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。ここには大小約300の鍾乳洞があるが、フォンニャ・ドンとティエンソン・ドン(Tien Son Dong)の二つが一般公開されている。
 昨日、宿泊したホテルのスタッフにフォンニャ洞窟への行き方を聞いたところ、「あなたは非常にラッキーだ」と言われた。既にホテル側でセットした明日の「ホテル~洞窟間のミニバス・サービス」に一人分の空きがあると言う。「朝、ミニバスでホテルを出発して、フォンニャ観光センター 前に到着する。洞窟の観光後に観光センター 前からホテルに戻る」サービスである。観光センターは、フォンニャ洞窟への船乗り場の近くにあるそうだ。方向音痴の私にとっては、分かりやすいプランである。

腹もふくれた
 フォンニャ洞窟への期待感からか、朝、早めに目が覚めたのでホテルの周りをブラブラしていたところ、路上食堂が開いていた。これ幸いと、ホーチミンで味を覚えたフォーをお願いした。「美味い、本当に美味い」。後で知ったことだが、ホテルの近くにある「フォー」で有名な食堂が朝食のみを路上の屋台でサービスをしている路上食堂だったのだ。確かに観光ガイドブックにも載っていた有名な食堂であった。「腹もふくれた、ごちそうさま」。
 ミニバスの出発時間までもう少し時間がある。ミニバスによる長距離の移動なので、足の運動を兼ねて近くを散歩していたところ、びっくりした。「京都大学の出先の研究所」がフエにあったのだ。お話をお聞きしたいが、この時間である。「頑張れ、京大」。今日は、何か良いことがありそうだ。何も根拠がないが。

朝食中
京都大学地球環境学大学院
入口の壁にはめられていた京大大学院のプレート

フォンニャ洞窟観光
 ホテルでアレンジした「フォンニャ洞窟日帰りツァー」は、フエから北西へ約210キロメートルと結構大変だ。幸か不幸か、ホーチミン市からフエまで夜行列車で移動したので、ちょっと睡眠不足だ。仮眠を取るのに丁度良い。バスの中では、現地語、英語、フランス語が行きかっていた。
 フエからフォンニャ観光センターにミニバスで約4時間で到着した。手足を伸ばして柔軟体操をしてから、近くにある船乗り場からエンジン付きボートで約30分で洞窟の入り口に着く。ここからはエンジンを止めて若者の手漕ぎとなり、ボートを操って絶景を楽しむという算段である。説明員のフランス語っぽい、鼻にかかった英語は、皆さん、大丈夫なようだ。職業に偏見は全くないつもりだが、手漕ぎボートの若者が名詞の羅列ではあったが、それなりの英語を話すのには驚いた。日本人は私一人だったが、たまに「わっかりますか?」とアドリブが入ってくるのには、さらにびっくりした。要するに、日本人観光客も多いということで慣れているのだ。「わっかりますか?」を何度か聞いてすっかり慣れてしまった乗客の皆さんは、私に向かって「わっかりますか?」を連発していた。
 船を降りた後、徒歩で洞窟内を散策する。フォンニャとは「風の牙」という意味のようで、牙のような鍾乳洞(風の牙の洞窟)が無数にある。約2億5千万年前に形成されたと考えられている。洞窟の中は静かで、涼しく、当然のことながら人工的とはいえ、ライトアップされた鍾乳洞は神秘的な感じがする。観光客のカメラのフラッシュの光が続く。この地底湖を探検するような雰囲気を持つフォンニャ洞窟は、2003年にユネスコの世界遺産に登録された。
 帰りの4時間、さすがに皆さんはぐっすり。同乗者は、ほとんどが同じホテルの宿泊客だったのだが、「一杯、飲ろう」と言う人はいなかった。

途中の田園風景。良い風景だね。

 

フォンニャ洞窟からフエへの帰路で見た風景
こんなのもいた
フエにやっと戻ってきた

古都フエの市内観光
 今更であるが、フエについてご紹介したい。ここはベトナム最後の王朝、阮朝(グエンちょう、1802 年~1945年)が約150年間都をおいた古都である。それ故に、フォーン川のほとりに、王宮、寺院、皇帝廟などの歴史を感じさせる風格ある建物が観光客の目を引く。1993年、ベトナムで最初の世界遺産に登録された。
 フエは、いわゆる “旧市街”と“新市街”に分かれていて、したがって地域の特徴がはっきりしていることから、とても観光しやすい街である。旧市街は、平屋の建物しかなく部分的ではあるが苔に覆われた石造りの城壁に囲まれた、いわゆる“由緒”を感じさせるエリアである。したがって、王宮周辺を中心とした歴史的遺産を求める観光客が多く出かける場所である。
 他方、新市街はドンバ市場などで生活雑貨を求める人々でごった返し、フエ駅、郵便局、飲食店、等々の生活の場である。これはこれで、観光的にも楽しさを感じる方々も多いことでしょう。私の場合は、先ずは旧市街から出かけます。

阮朝王宮
 王宮門(入宮門)をくぐって王宮内に入ると、4つの川が堀のように周りを取り囲んでいる。その内側にさらに人工的な内堀が構築されている。
 その王宮門であるが、阮朝の第2代皇帝ミンマン帝(1791年~1841年)期の創建、カイディン帝期に再建されている。高さが約17メートル、二層式の中国風の建物で、王宮に入れるのはこの門からのみでチケット売り場がある。3つの門口のうち中央の門は皇帝が外出する時しか使用されず、普段は閉じていたそうである。
 王宮門(Ngo Mon、漢字で書くと午門)の「午」は南の意味でもあり、「聖人君子が南から天下に耳を傾ければ世の中は平和になる」とか、「正午に太陽が建物の真上に来るため」だと言われている。

王宮正門
「午門」部分のアップ
阮朝王宮
阮朝王宮
皇帝との謁見所であった大和殿。中国の紫禁城を真似て造られた
長安門。1886年頃から皇太后の住居であった長生宮の正門

フエ郊外
 1601年に創建されたティエンムー寺は、「幸福と天の恵み」を意味するトウニャン塔(慈悲撘)と呼ばれる塔を持つ。高さ21.24メートル、七層八角形の堂々とした姿である。

フエのシンボル的な塔であるティエンムー寺(天女の寺)のトゥニャン撘(慈悲の塔)
石畳を敷かれた正門内側の広場
第1番目の建物である。ミンマン帝の功績を讃える石碑がある
ミンマン帝の功績を讃える石碑
石碑のある建物の背後から見える第2番目の建物、顕徳門
顕徳門をくぐり抜けると第3番目の建物、崇恩殿が見える
崇恩殿には皇帝と皇后の位牌が安置されている
さらに進むと3本の橋が架かっていて、第4番目の建物につながる
第4番目の建物、明楼
中にはテーブル一つ以外に何も無い
明楼から墳墓が見える
3連門を通って、三日月型の池を渡ると墳墓に辿り着く

 

門の柱は豪華に彫刻されている
最終の墳墓

ベトナム・ホーチミン

今回は音楽から
 “沸騰するアジア”の一角を担う「ベトナム」を旅することにした。「した」と言うからには自分の意思である。但し、その根拠は希薄で、世界地図を目の前にして公私にかかわらずに出かけた所を塗りつぶしていくと、アジアに空白が目立ったのだ。「ベトナムは?」。「何となく」だった。これぐらいで良いですか?
 私の、というか、私達の世代で「ベトナム」と言えば、最初に頭に浮かんでくるのは、「ベトナム戦争」である。長期にわたるベトナム戦争そのものは、「サイゴン」が陥落した1975年(昭和50年)に正式に終結したわけですが、その頃は大学の至る所に“看板”が立っていたことを思い出します。
 次に「ベトナム」で思い出すのは、一気に飛んで、「ミス・サイゴン」である。「ベトナム戦争」を題材としたミュージカル「ミス・サイゴン(MISS SAIGON)」である。ヨーロッパへ出かけると、時間の許す限り夜はクラシックとオペラ with wine 、そして向こうの友人達と一緒の時は芝居なのだが、1993年10月に出かけた時は、同行した娘二人の希望もあって、「ミュージカル」をその中に入れた。ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでフィルハーモニア・オーケストラを聞いた翌日、ウエストエンドで「ミス・サイゴン(MISS SAIGON)」に魅せられた。以来、ニューヨークで、ウィーンで、…と、ミュージカルをさまようようになった。
 ただし、この時の旅では、「ミス・サイゴン」を観た(聴いた)後は、仕事でパリに渡り、「国際会議」の主宰で贅沢にも「PRIVATE ORGAN CONCERT IN NOTRE-DAMノートルダム寺院におけるオルガンコンサート」、そしてサルプレイエル(Salle Pleyel)でパリ管弦楽団等々、クラシックが続いた。サルプレイエルは、凱旋門から歩いて10分位。1829年のオープン以来、ショパンやラベルなどに愛された由緒あるコンサートホールで、“パリ管”の根城である。
 “最近の傾向?”を見ても、「ミュージカル」と言っても、ニューヨークよりウィーンが多い。やはり、“本籍クラシック”なのだろうか?どうでも良いことだが、妙に引きずる。

音楽が続く
 今回のベトナムの旅は、私の大学時代の同期(以後、“ご学友”)がハノイに住んでいるので、いつもの完全一人旅とはちょっと違って、何かと便利である。詳しくは語れないが、彼は、学生時代からドラムスを叩いていた男で、私がクラシックやオペラの傍ら?凝っていた「マックス・ローチ」、「チャーリー・パーカー」、「MJQ」などのLPを私のマランツ、アルテック、…のオーディオ・システムで聴いて語り合った頃が懐かしい。お笑いください、半世紀前である。
 その“ご学友”のアドバィスである。「ホーチミンシティ(サイゴン)のベンタイン市場はどこに行くにも便利な場所で、近くに日本人がオーナーの経済的ホテルがある。そこを予約しておく」。「空港からもバス1本で行ける」。久々の学生気分で、今で言うバックパッカーと称せられる若者達が好んで使う「市場」、「経済的」、「バス」と強調する辺りがおかしかった。助言通りに、タンソンニャット国際空港のターミナルを出て最初の車道を渡ると右端にバスが並んでいる。ベンタイン市場行きの152番のバスは、乗車後直ぐに発車した。
 大まかな旅行日程としては、「ホーチミンシティ」、「メコンデルタ」、「フエ」、そして「ハノイ」に行って“ご学友”と“会い” & “語り”、その後カンボジアの「シェムリアップ」に飛んで、お分りですね、世界遺産(文化遺産)の『アンコール・ワット(英語: Angkor Wat)』の遺跡見学である。

クチトンネル(ベンディントンネル)
 今日は、実質的にハノイ初日。昨日、ホテルを通して予約しておいた「クチトンネル・ツァー」への参加である。“ご学友”の助言は、「ベトナムでは交通インフラが発展途上なので、郊外へ出かける場合は旅行会社が主催するツァーに参加するのが合理的かつ経済的である」と言うことだった。とくに私のようなブラブラが好きな旅行者には、色々な国から人々が訪れて合流する英語ツァーが勧められると言う。“ご学友”の助言に素直に従って、「クチトンネル・ツァー(英語版)」に参加した。“ツァー・メイト”には敗戦国のアメリカ人も多いので、クチトンネルへの彼ら彼女らの反応も興味がある。アメリカに敵意を持っているわけではない。念のため、自分で言うのもおかしいかも知れないが、私は性格は良いほうだと、自分では思っている。それよりも何よりも、とくに若い人達にとっては、「ベトナム戦争」は今では歴史なのである。
 その「クチトンネル」である。南ベトナム 政府軍、アメリカ軍、韓国軍 などと戦ったベトナム戦争で勝利した「南ベトナム解放民族戦線」(俗称、ベトコンVietcong)が人力で建設したトンネルである。ホーチミン市の中心から北西に約70キロメートルのクチからさらに約30キロメートル離れた場所にクチの地下トンネルがある。このエリアは鉄の三角地帯と呼ばれ、難攻不落と言われた解放戦線の拠点があって、アメリカ軍はついに枯葉剤を投下するに至った。これに対して解放民族戦線は、総距離25キロメートルものアリの巣のようなトンネルを手掘りで掘り、ゲリラ戦を展開した。結果として、報道、映画、ミュージカル、TVドラマ、多種多様な出版物等々でご存知のように、南ベトナム解放民族戦線は勝者となったのである。
 この地下トンネルは現存していて、「ベンユオックエリア」と「ベンディンエリア」があるが、ツァーで訪れるのは主に後者である。

地下トンネルの見学の前に
 英語版トンネル見学のツァー・メイトは、当然のことだが外国人が多かった。迎えのバスの中では、欧米人の英語が飛び交い、中国語やハングルも聞こえてくるが、日本人は私一人のようだ。参加者は目的が同じせいか、すぐ仲良しになり、共通語の英語で会話が弾む。
 バスが出発して1時間も経ったろうか、 “HH(HANDICAPPED HANDICRAFTS)”と書かれた大きな看板が目立つ建物の前でバスが止まった。住所は分からない。この種の言葉は用心して使わなければならなく、handicapped とdisabled の違いなど、とても難しい。ここでは、読者の語学力に頼って、冠詞が付いていないが、“HANDICAPPEDな人々の HANDICRAFT”とでもしておきましょう。絵画や工芸品などの制作者が一心不乱に作業をしていた。個人的には螺鈿が好きなので、職工の技に見とれながら楽しい時間を過ごしていたが、ツァー・メイトがウィンクしながら「ショッピングタイムズ・オゥヴァー」と教えてくれたので、制作者に「ありがとう」とお礼を言ったところ、「こんにちは」と言われた。日本人が多く訪ねてくるのであろう。この種の“工芸センター”、“土産物屋” のことを「ツァー会社やガイドの収入源」などと言う人が多いが、ツァー主催会社、土産物屋さんが潤うことも確かであろうが、「買う、買わない」は本人次第であって、観光客は自分流に楽しめば良いのである。私の旅のスタイルからして日本発のツァーに参加することは無いが、現地発のツァーに参加した場合は、そう割り切っている。
 日本の伝統の和服がベトナムで作られていることはよく知られているが、もちろん品質は横に置いといてだが、総じて器用な人々である。

HH(HANDICAPPED HANDICRAFT)”の入口
見事な腕である
螺鈿材料の制作
螺鈿作品
ここはパリか、それともマドリッド?

ベンディン地下トンネルエリアの見学
 “HH”からツァーバスで約40分で「ベンディン地下トンネル」に着いた。最初に、パンフレットが配られ、次に約20分間のVTRが上映される。解放民族戦線の戦いの様子を記録したものである。その後は大まかな案内がある程度で、友達同士やバスでなんとなく一緒になったグループが、思い思いに歩いて見て回る。
 地上から3メートル、6メートル、8メートルの三層構造になっている所もあり、司令塔室、会議室。病院、学校、台所、寝室などがあって、軍事用の機能を持つトンネルであると同時に、住民達は地下トンネルトンネル内で生活できるようになっていたのである。
 空気の入れ替え用の空洞が付いているが、基本的には地下トンネルなのでムッとする臭気と湿気が漂っている。トンネルの通路部は狭く四つん這いにならないと先に進めない場所が多かったが、広くなっている所もあった。これは観光客用に広げられているそうだ。
 さて、方向音痴の私である。二叉、三叉に分かれた、まさに迷路を腰をかがめて歩くのは相当に厳しい。同じ所を何度も行き来して地上に出られない。見かねたメイトに助けられてやっと地上に出ることができた。「ホッと一安心」、…、「じゃ、なかった」。「落ちたっ」、「ワナだっ」。「わぁー、ブービートラップ(booby trap)だ」。
 説明します。「ブービートラップ」とは、(色々な意味があるが、)ゲリラ組織が一見無害に見えるものに仕掛けたワナ(トラップ:trap)のことである。油断した兵士(まぬけ:booby)が触れると爆発したり、スパイク状のもので殺傷する猟師のワナのようなものを「ブービートラップ」と言うのである。まぬけな私が地上に出られてホッとした時に、あらかじめ仕掛けられた布と枯れ葉で隠した落し穴に足を取られたわけである。本物のワナは穴の中にスパイクや毒が塗られた針などが仕掛けられているが、私のかかったそれは偽物だったので事無きを得たのだが…。ここには、当時使われていたと思われるワナが展示されており、その仕掛けの怖さに思わず身震いしたものである。参考までに、展示されていたワナは、window trap, fish trap, saw trap, clipping armpit trap, rolling trap等々と書かれていたが、個別のことはよく分からない。

射撃体験
 ベトナム戦争当時に使われていた本物の銃が展示されている(写真参照)。この銃を使って射撃体験ができることから人気の催しもの?である。但し、初めて銃に触る人が大半なだけに、写真の左側に写っている小型の銃、AR15とAK47自動小銃のみが体験できる。料金は「弾丸一発6万ドン」と掲示されていたと思う。多くの観光客が銃を撃ちまくっていたが、当然のことながら初心者が多くて近寄るのが怖かったので私は遠慮した。皆さんの打ち方じゃ、あれじゃぁね。まぁ、いいか。いずれにしても、撮影禁止だったので、残念ながらお見せできない。
 実は、私は猟銃を保有していた時期があった。「あった」と言うからには、ある理由で止めたのである。1979年( 昭和 54年)1月26日に、有名な「三菱銀行人質事件」が起きた。三菱銀行北畠支店に猟銃 を持った男が押し入って、客と行員30人?を 人質 にした 銀行強盗および 人質事件である。また、この頃、今で言う「非社会的勢力」の抗争が頻発する物騒な時代でもあった。銃の保有に対しても当然のことであるが、規制が厳しくなり、例えば、銃の保管に使っている鉄製のロッカーの周囲をさらに鍵付きの鉄棒で囲むなどの処置が要求された。さらに私はこの年から家族で渡英することになり、銃の保存は実質的には不可能になったわけである。

クチトンネルのチケット売場
トンネル見学前のビデオ鑑賞
クチトンネルの断面図
落とし穴だと分かりますか? カモフラージュされています
落とし穴のトラップはこの写真のようになっています。落ちたら体にスパイクが刺さるようになっている。怖い
トンネル坑内と外界との空気流通穴
トンネル内の抜け道
解放戦線の兵士のマネキン
1970年に地雷で爆破された米軍戦車

 

仕掛け(罠)について説明する係員
Window trap
Clipping armpit trap

Rolling trap
電気仕掛けで動くマネキンが爆弾を解体している様子。当時のベトコンは、敵が落とした爆弾などを回収して活用していた
実戦で使用された銃。左側のAK47自動小銃は射撃体験用として現在使われている
ゴムタイアの端材。スリッパの材料などに再利用される
スリッパが結構売れていた。サイズごとに価格が決まっていてMサイズで45,000ドンであった。自分たちの足跡をわからないようにするために、前後を逆にして履いていたと聞かされた
狭い通路。突き当たりには、さらに下の層への入り口がある
他意は無い、偶然です
米軍のB52 爆撃機の爆撃によって出来たクレィター跡

サイゴンリバー・ディナークルーズ
 ホーチミン市の幹線通りと言えば、ドンコイ通りである。市民劇場からサイゴン川に向かって東西に走る道で、都会っぽい雰囲気が受けるのか、日本人に人気のあるホーチミン観光の中心と言っても良いであろう。ドンコイ通りの一本南側にグエンフエ通りがある。この通りがサイゴン川に突き当たる辺りから、「サイゴンリバー・ディナークルーズ」のクルーズ船が出る。この辺りには我が国の総領事館やベンタイン・バスターミナルなどがある。
 クルーズの乗船料そのものは、1USドルと安いが、料理は前もって選んでおくシステムで1品3万~15万ドンとバラエティに富む。20時30分に出船して約1時間のクルーズを楽しむことになる。私が予約した部屋は個室だったので、ウエィトレスと言うか、古典的に言うと「酌婦が必要かどうか」と聞かれたが、「必要無い」と答えると、私をホテルからここまでオートバイで送ってきた旅行会社の女性社長が相手をしてくれた。

ディナークルーズ船
ディナー団体客
クルーズ船からの夜景
船から陸側を写す

ホーチミン市内観光

1428年に明の支配からベトナムを解放した黎利王の下で活躍した将軍チャン・グエンハイ像
1908年のフランス統治時代に建てられたホーチミン人民委員会庁舎。パリの市庁舎をベースに建てられている
ホーチミン氏の像
1880年に建てられたサイゴン大教会(聖母マリア教会)。赤レンガはマルセイユから、ステンドグラスはシャルトルから取り寄せられた
十字架がかかっている白っぽい部分は1895年に増築された
サイゴン大教会内部
教会内部の美しいステンドグラス
分かりますね。これ、日本でやったら、受けるでしょうね。お幸せにね

戦争証跡博物館
 読んで字のごとく、「戦争証跡」博物館である。ベトナム戦争の歴史を実戦で使用された戦車、大砲、爆弾などの遺物、写真、パネル、枯葉剤による被害状況の記録等々によって展示している。目を覆いたくなるような展示の相当数をカメラに収めたが、怒りと涙でここに載せ続けることができなかった。救いになるのは、子供達の描く絵であった。

戦争証跡博物館
博物館の屋外には戦闘機、戦車、砲弾の類が野ざらしで陳列されている。右側は巨大ヘリコプター CH-47 Chinook
軽量ジェット戦闘機 F-5A Jet Fighter
展示パネルの中には日本のものもあった
砲弾の展示
子供のための平和
少しはホッとします
少しはホッとします
ホーチミン市のチョロン(中華街)にある聖方済各華人 天主堂(別名、聖フランシスコ・ザビエル教会)。フランス植民地時代の1900年に建てられたネオ・ゴシック様式のカトリック教会である

ホーチミンの水上人形劇
 旅行記などによると、水上人形劇(Water Puppet)の起源については、定説が無いそうだ。難しい話をすると、9世紀の中国・宋代にまで遡る説などがあり、一旅行者の手におえる話ではない。ハノイのそれが有名だと旅行ガイドブックに書かれていたが、ホーチミンでもフエでも楽しもうっと」。凝り性と言うか、もはや病気である。
 ホーチミン市で、最も大きく代表的な水人形劇場はゴールデンドラゴン水上人形劇場Golden Dragon Water Puppet Theatre (別名:ロンヴァン水上人形劇場)である。ホテルをとったベンタイン市場近くから徒歩で15分ほど、主要観光地の「統一会堂」の直ぐ近くとアクセスが良かったので、前もってチケットを買っておいた。それが良かった。水上人形劇の開演は17時および18時30分からの50分公演であったが、両公演ともほぼ満席状態であった。入場料は一席15万ドンくらいだった気がする。日本円で1000円に満たないのだから本当に安い。
 ベトナムの民話、伝説、神話などを題材にした物語が伝統楽器の生演奏と歌をバックに進む。同時進行で、長さ30~100センチメートル、重さ1~5キログラムの人形を水上でテンポ良く、あるいはダイナミックに、そしてコミカルに動かし続ける。高い技術力を必要とするこの水上人形劇は、まさに永く受け継がれてきた伝統文化と言えよう。
 

Golden Dragon Water Puppet Theatre「金龍水上人形劇場」
水上人形劇

ホーチミン
 今日もホーチミン市の市内観光である。ホテル近くの界隈を稼ぎ所にしているバイクタクシーのおじさん達も声をかけてくる

何度かお世話になったバイクタクシーのおじさん
玉皇殿(福海寺)が見えてきた
玉皇殿(福海寺)は、20 世紀初頭に広東人移住者のために建てられた寺院で、現在も道教と仏教の両方の信者が訪れる。願掛けとして亀を放す習慣があるそうで、そのせいか、別名「亀の仏塔」とも呼ばれている
熱心な信者
亀がうじゃうじゃ。こんな言葉、あったかな?
サイゴン大教会の横にある中央郵便局
サイゴン中央郵便局は天井が高く、美しいアーチを描いている
舎利寺(サーロイ寺)
1744年に建てられたホーチミン市内最古の仏教寺院である覚林寺(ヤックラム寺)
覚林寺には七重の塔がそびえ立っている
お墓のあるエリアを更に奥に進むと大きな白い仏像が安置されている
布袋さん