マトゥラーへ
ネパールのカトマンドゥから首都ニューデリーに戻ってきた。帰国まで数日間予備としてとっておいた時間があるので、デリーの雑踏を避けて近場の町へ日帰り観光をしようと思う。旅行資料は持っていないが、日本を出る前に友人から勧められたマトゥラー(Mathura)とグワリオールの様子をホテルのマネージャーに聞いたところ、「祭りもやってないし、のんびりブラブラには丁度良い」と、ウィンクされた。「のんびりブラブラには丁度良い」と書いたが、どんな英語を使われたか覚えていない。
帰国してから調べたのだが、今後の旅行を計画している方々のために、ここにマトゥラーについて略記したい。マトゥラーは、インド北部のウッタル・プラデーシュ州にある都市で、首都ニューデリーから145キロメートルほど南に位置する。幹線が走っているので、列車は多数あり、マトゥラー・ジャンクション(Mathura junction駅)とマトゥラー・カントメント(Mathura Cantonment駅)、略してマトゥラー・カント(Mathura cantt駅)がある。バスも分かりやすく、Old bus standとNew bus stand行きがある。
外国人が切符の手配に多用するDelhi Station (外国人専用窓口)では当日券は買えなかったが、通常の窓口(カゥンター)の60~66 番窓口で入手できる。デリーからマトゥラーまで列車で2時間である。役に立ちましたか?
マトゥラーとは
マトゥラーは、ヒンドゥー教7大聖地のひとつとされる町で、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナKrishnaがここで誕生したことで知られる。ホテルのマネージャが言っていたが、クリシュナの誕生を祝う祭り(ジャンマシュタミー祭)が8月から9月頃に行われ、多くの信者や観光客が訪れる。宗教上の理由から当然のことだが、飲酒禁止であり、また、信徒の食事はほとんどがヴェジタリアンである。インドを長期間旅行していると慣れてしまうが、“ヴェジタリアン”とか、“ノンヴェジ・レストラン”などというレストランの看板が日常的に目に入る。ヒンドゥー教はインドに昔からある土着の宗教であることから、生活の基本である食事と密接に関係するのは、至極当然である。“ヴェジタリアン”も宗教と言うか、心の思いが日常生活に根差しているのである。
さて、このブログのスタートに、『わたしのこと』と題して、「方向音痴。国外徘徊老人。携帯電話所有歴無し」と書いた。ここマトゥラーにおける旅がその典型であり、証左である。モバィルも資料も持たないで、初めて訪ねた街である。知らない街を歩くコツは、人々の流れについて行くことである。「悪い奴に…?と心配しないのか」とよく聞かれるが、集団は得てして安全で、個人で近づいてくる方が要注意である。今日の「人の流れ」は、ヴィシュヌ神の巡礼の一大中心地と言われるクリシュナ・ジャンマブーミー(Krishna Janmabhumi)への流れである。クリシュナ生誕の地と言われる丘の上にクリシュナを祀る「バグワット・バワンBhagwat Bhavan(1982年建立)」が建つ場所で、この総本山に「人の流れ」が続いているのである。
ヴリンダーヴァン
マトゥラーから約15キロメートル北にあるヤムナー河畔の古い町、ヴリンダーヴァンVrindavanはお勧めです。農家のおばさんの馬車で一人Rs10でした。信じられないくらい安いので、多くの客はRS20を支払っていた。おばさんの英語?は単語?を並べる故に分かりやすく、ヴリンダーヴァンは小さい頃のクリシュナが育った所である。興味を引いたのは、ヴリンダーヴァンと呼ばれるにぎやかな参道を超えると見えてくる「ヴリンダーヴァン寺院」である。「寺院見学は今日の観光の本命」と手を叩く前に、馬車に乗っていたみんながびっくりし、私も歓声を上げてしまった。
くどくどと説明しません。たった3枚の写真ですが、お楽しみください。
そして驚くことをもう一つ
以下の写真の3枚目に出てくるヴリンダーヴァン寺院ゴープラムは、南インド風のドラビダ造りを彷彿とさせる。自分が北インドにいながら南インドにいる錯覚を覚えてしまったのだ。どう見たって南インド風の建物である
翌日、グワリオールへ
明日はいよいよ帰国である。インドの観光最終日と言うことで、時間はかかるがデリーからマディヤ・プラデーシュ州、グワーリヤル県にあるグワリオールGwaliorへの日帰り観光に出かける。
私自身、グワリオールの歴史については皆無に等しいので、超高速かつ超簡単にまとめた数行をここに記したい。グワリオールは元々はヒンドゥの王国であったが、1232年にスルタン・イレトゥミシュに征服されてイスラム化を余儀なくされた。1486年、「ラージプート」のマーン・シングが奪回して現在の城郭を築く。1516年、デリーの「ローディー朝」に奪われるが、その後「ムガール帝国」に支配され、1754年、マラータ王国に奪われる。1804年、東インド会社に支配されて英領時代にもグヮーリオル藩王国として存続した。このように、目まぐるしい変遷が続くのであるが、その中でグワリオールは1,000年の歴史を生き抜いてきたのである。
ニューデリー06時00分発の超特急12002 New Delhi Bhopal Shaltad Exp.(金曜日は運休) でグワリオールに09時28 分に到着(運行時間;3時間28分)する予定の乗車券だ。今回の一連の旅行で、約1か月前にインドに入国した折に、最初に入ったニューデリーで予約しておいたので問題無く取得できた。
この約1か月間のインド~ネパールの一人旅行で、熱さと人いきれで相当に疲れがたまっているので、さすがにグワリオールで降車後すぐに駅から坂道を登る気力も体力もない。帰国前日などの特別な日は、特に気を配らなきゃいけない。と、言うことで、駅前に(インドでは珍しく)整列しているリキシャーの1台に乗って、高台に向かって石畳の坂道を登ることにする。
その坂道であるが、高さ100メートルほどにそびえ立つインド特有のプラトー(Plateau)と呼ばれるテーブルマウンテン(固い地盤だけが台形状に残った山)が約3キロメートルも続く。その一角に、1486年にこの地域を支配下していたラージプート、トマール族のマーン・シングが築いた中世の古城「マーン・マンディル」(グワリオール城塞)がある。城郭は南門を経由してから120メートルほど続く。高さ100メートルのテーブルマウンテンの壁面にはジャイナ教の石像がたくさん彫られている。石像の名称等は定かではないので、説明の無い写真の列挙が続くが、ご勘弁下さい。
その前にちょっと。「インドと言えば象さん」と打ち込まれているせいか、皆さんがジャイ・ヴィラース宮殿の案内人(像)の象さんを見つけて写真を撮り始めたので、私もちょっと寄り道をしてパチリ。
ジャイ・ヴィラース宮殿
ジャイ・ヴィラース宮殿は、1874年にグワリオール藩王ジャヤージー・ラーオ・シンディアが建設し、以降、藩王の宮殿として使用された。現在、宮殿は旧藩王の一族の住居として使用されており、また一部は博物館として一般公開されている。
寄り道を終わって城塞へ
大変失礼しました。象さんへの寄り道を終わって城塞へ向かいます。次第に近づく平地から切り立った台地状の城塞はとても力強く、見上げて写した写真も迫力がある。(勉強不足で)グワリオールの城塞に関する情報を持っていなかったので、素晴らしいものを見せてもらって凄く得をした感じである。お勧めです。
サス・バフー寺院
私は、「そもそも論」を語るほどヒンドゥー教について詳しくはないが、大まかに言うと、ヒンドゥー教は、世界を創造する「ブラフマー」、それを維持・運営する「ヴィシュヌ」、破壊・再生する「シヴァ」の3つに位置づけられる。それぞれは神格を拡大することによって、いわゆる派閥を拡大するわけだが、中でもヴィシュヌ神は、他の神を己の化身として位置付けてその拡大を図り、シヴァ派を大きく上回っている。
さて、話をグワリオールに戻して、崖の切り立った所に2つのヒンドゥー寺院が建っている。1093年に建てられたサス・バフー寺院(Sas Bahu Temple)である。サスは「義理の母親」、バフーは「義理の娘」の意味で、二人は仲が良かったが、義母はヴィシュヌ神を、義理の娘はシヴァ神を信仰していたため、二つの寺院が隣接して建つことになる。
入口の門の上部には、先に述べたヒンドゥー三主神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)とそのご婦人方(順番にサラスワティ、ラクシュミー、パールヴァティ)の彫刻が残っている。