マンダレーヒル
今日は朝からマンダレーヒルを散歩する。標高236メートルのマンダレーヒルは丘(Hill)全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地である。個人的にはビルマ(ミャンマー)に来たからには一度は訪れてみたい場所だったのである。
インターネットなど無い時代、某協会誌にエッセィを書き、その一部を改めて本ブログの中で、“方向音痴の旅日記『タイトル:ミャンマー・インレー湖 イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋)』”として数カ月前に上梓した。その中に登場する”第2次世界大戦で日本軍と戦ったビルマ軍(英国軍)“とは、実はこの地における戦いのことなのである。愉快なことではないが一度は訪れてみたい場所だったのである。
マンダレーヒルの表参道入口を守る2頭の真っ白いライオン「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung」までピックアップをチャーターして向かう。チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung は、第2次世界大戦中、日本軍占領下のビルマ北部に降下し、日本軍を苦しめた英国軍部隊チンディッツの名称はこのチンテーからとられたのである。「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung とは、「チンテー」がライオン、「ヂー」は大きい、「ナッカウン」はふたつのという意味である。
月: 2021年7月
ミャンマー・マンダレー
インレー湖からマンダレーへ
旅行好きの方は、熱狂的な「市場好き(マーケット好き)」がいらっしゃることを御存知でしょう。インレー湖でも、この市場好きに出会った。インレー湖の市場は、毎日主要市場を時間割のように公開するほど徹底している。私が出会ったフランス人の青年は世界中の市場を廻り歩くほど市場に凝っていて、希望の場所に行くには船をチャーターすると安くなるので、私を誘ってきた。私の今後の旅のスケジュールからして、今日中にインレー湖を出て2日以内にニャウンシュエNyaungshweに入り、その後「マンダレー」に入る必要があったので、お断りしたのだが、彼の知識は膨大かつ正確で、結局、明日、ニャウンシュエの市場に行こうと言うことになった。気持ちの良い奴だったので、それに私自身もニャウンシュエの市場に行く予定だったので、笑顔で握手をした。
ニャウンシュエの市場
マーケット好きのフレンチ・ボーイのお勧めだけあった。ニャウンシュエの市場は質量ともに盛況であった。
強行軍
実は、今夜は夜行バスでマンダレーへ移動する強行軍で、その後マンダレー周辺、具体的にはアマラプラAmarapura、ザガインSagain、インワInwaなどをブラブラする予定である。冷えた飲み水はバスの中に備蓄されており、途中数時間置きにトイレットタイムもとられている。夜遅くまではTV番組が放送されていたが、言葉が分からないのと眠気でほとんど眠っていた。
マンダレー周辺の都市であるが、権力基盤が弱いため18~19世紀に渡って幾度か遷都が繰り返された。現在ではタウン・ミョー(=南の町)と別称されるアマラプラAmarapuraもその一つで、何度か遷都を繰り返す対象となったことから、パーリ語で「不死の町」と呼ばれている。
アマラプラへ向かう途中で面白かったのは、朝の9時半頃であるが、バスの中でお坊さんが托鉢を始めたことである。私の旅行中の常食であるキビダンゴを差し上げたところ。とても喜んでいた。お寺へ戻ってから食べてもらえそうだ。この時間ともなると皆さん、動き始めて、バスの中のビデオサービスが始まったり、停車の度にバスの中へ物売り入ってきたりと忙しくなった。
こんな楽しい所とは思わなかった
そうこうしているうちに、アマラプラに到着した。バスを降りてびっくり。こんな楽しい所とは思わなかった
もっと楽しい所がありました
全く知らない橋であった。市場から人の流れに何となくついて行っただけで、ウー・ベイン橋U-Bein Bridgeに出会ってしまった。ミャンマーのマンダレー付近の都市、南の町と別称されるアマラプラについては既に説明した。アマラプラにあるタウンタマン湖をまたぐ橋が今回の旅の主人公である。名前は、「ウー・ベイン橋U-Bein Bridge」である。変わった形状に見とれてスケッチをしていると、若者から「橋が好きですか」と流暢な英語で話しかけられた。あいまいな返事を返すと、「日本人ですか?私達は大学で土木を学んでいます」と笑顔で返された。以下は、学生諸君から教わった講義ノート?からいただいたデータである。
1849年当時、行政官ウー・ベインが以前の王都であったインワの旧王宮からアマラプラに遷都する際にチーク材を運びウー・ベイン橋(U Bein bridge)を架設した。全長1200メートルにのぼる世界一長い木造歩道橋である。完成から160年以上も経た現在も現役の橋として利用されている。
私のカメラの写真を見ると、午前の10時30分頃であったが、学生達の話だとここは夕陽の名所として知られ、「夕方の観光スポットは是非、見て下さい」と勧められた。「ありがとう」。
ザガインからバイクタクシーでザガインヒルへ
ザガインでバイクタクシーを200円くらいでチャーターしてザガインヒルへ行く。ザガインヒルには150以上の仏塔と600を超す僧院が点在。バガン王朝が滅亡した1315年に王都になったが、50年後にインワに遷都される
ミャンマー・インレー湖
バガンを振り返って、そしてビルマを思い出す
バガンでは、あまりにも多くの文化を背負った歴史に接してきた。ミャンマー屈指の仏塔や寺院を誇るバガンを歩き廻って心身ともに充実し、そして疲れた。今まで見てきた11世紀から13世紀を中心とした仏教資産は、バガン王国の興隆からフビライハーンの侵攻による没落までの250年余りにわたって建設されてきたものだ。一部は考古学保護区に指定されている城壁に囲まれている部分は、「一種の保護区・オールド・バガン」と呼ばれている由緒ある所で、今(2021年)、改めて思い返している。
個人的なことであるが、私にはミャンマーには特別の思い入れがある。一つは「映画・ビルマの竪琴」であり、もう一つは1979年英国のTRRLにいた当時、家族と一緒にカーディフ城を訪ねた時の印象である。1980年6月、協会誌に掲載された若かりし頃の文章であるが、ここに再掲したい。
イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋) 『Fishguardからの帰りに,かつてのWalesの首都Cardiffで一夜をすごした.Cardiff城で毎年行なわれているSearch light Tattooには数日間早すぎたが,ヤギを先頭に行進する軍の雄姿を見る機会を得た.多くの地元の人々が涙を流して声援する光景は筆者には何とも説明しがたい複雑な気持ちになった.そして,巨城Cardiff城内にあるThe Welch Regimertに入った時に観たビルマBurmaにおける日本軍との交戦の記録,戦利品として展示されている“Wood Pecker” Machine Gun(九二式重機関銃)を観た時には,さらに複雑な気持になったことは言うまでもない.若い世代はともかくも,かつて戦った世代には不幸な戦争の傷あとがいまだ消えずといった印象を受けた.しかし,Cardiff城の地下にあるローマ時代の城壁を観た後,誤って非公開の場所に入った時に軍の関係者が「気にするな」と言って笑顔をふりまくほど英国人は寛容であることをぜひつけ加えたい.』(以上)
最近の(2021年の)ミャンマー(ビルマ)の国の状態が心配である。いかなる場合も、国軍が国民に銃を向けてはいけない。暗い文章になってゴメンなさい。
バガンからインレー湖へ
楽しかったバガンに敬意を表しつつ、今回のミャンマー旅行の楽しみに一つ、市場巡りに向かいたい。市場があって、物が売られていて、…、ということになってしまうが、市場巡りの楽しみは、確かに物とお金のやり取りなのだが、本質は、“丁々発止”、“心のやり取り”だと思う。私の表現力では、散文的な文字を並べ、近頃ではデジカメ画像をはめ込む、一種の表現の堕落になっていることを深く反省している。ある意味では、文章の裏に隠れた個人的な思い出を綴っているのかもしれない。すみません。
今日も、ミャンマー屈指のマーケット市場であるインレー湖へ行って思い出を集めてきたい。
記憶喪失
ブラブラしているうちに、小さな町をいくつか過ぎて、今の時間は約17時半。側にボート乗り場があり「ジプシーイン」と書かれたゲストハウスで宿泊することになった。実はバガンで宿泊したゲストハウスと親戚にあたる宿屋であった。恥ずかしながら、このあたりの記憶が無く、バガンからご一緒した誰かが書いてくれた私のメモ帳に「ゲストハウス名」、そして「ニャゥンシュエで最も古いヤダナマンアウン・パヤー」と英語で書かれたメモだけが情報であった。そして、私のカメラには「ボート乗り場」、「ヤダナマンアウン・パヤー」、「夕焼け」、「ディナー」等の写真が残っていた。私が確かに訪ねたという証拠である。
心機一転インレー湖巡り
何とか記憶を繋いで、今日は、心機一転インレー湖巡りに出かける。インレー湖は、南北に22メートル、東西に12メートル、平均深さ2メートル。雨季でも6メートルである。インレー湖で漁業を営むインダー族は、細長いボートのへりに片足で立ち、別の片足を使ってオールを見事に操る。今回は、そのシャッターチャンスを逃して残念。
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マーケットから移動
マーケットから移動して、職人街みたいな所へ移動する。目的の一つは、金属製のリングをはめて首を長く見せるパダウン族の女性を見たいことと、その機織り(はたおり)技術を見たいことである。
ミャンマー・バガン
ヤンゴンからバガンへ
今日は好きな夜行寝台でヤンゴン中央駅からバガンへ移動である。チケットは既に取ってあるし、体調を整えるだけだ。亀に入れた水が無料で提供されるが、日本語でだれが書いたのか、「飲むのは控えた方が良い」そうだ。そのせいか、皆さん、前もって水を買い求めている。それよりも何よりも、安い椅子席の車両の前のホームは席を争う乗客でいっぱいである
バガンへ移動してゆっくりと
熟睡したのか、車掌に起こされるまで眠ってしまった。ところで、写真はヤンゴン駅で知り合いになったオランダ人親子である。ヤンゴン中央駅のホーム近くでバガン行きの列車を待っていたところ、屋根の上にいた鳩がフンをして、お嬢さんの髪が汚れてしまった。駅員が御親切に、『申し訳ない』と言ってお嬢さんの頭を手ぬぐいで洗い始め、我々にも新しい手ぬぐいをくれた。それが縁で、バガンに着いた後、この乗合タクシーでパチリ。この後の宿も彼らが予約していたゲストハウス「ゴールデン・ミャンマー」に誘われ、ご一緒させていただいた。
バガンとポッパ山
バガンに来た観光客が必ず訪れるポッパ山は、バガンの南東約50キロメートルと遠い。タクシーを雇うと約4万Kと高い。私の泊ったゲストハウスは旅行会社も兼ねていてこの辺りでは顔ききらしく、他のゲストハウスに泊まっていた若いドイツ人女性と半額をシェアできるようにセットしてくれた。相当な教養人で、ドイツ語が全くできない私に気を使ってくれて、例のストロングアクセントの英語でホッパ山のことを色々と教えてくれた。私も「…の歩き方」の受け売りで英語に訳してもっともらしく応対した。
ホッパ山は、25万年前に活動を停止した標高1518メートルの死火山。タウン・カラッTaung Kalatと呼ばれる岩峰の標高は737メートル。ミャンマーの土着信仰であるナッ神信仰の聖地とされてきた。花が大好きなドイツ人女性は、「ポッパ」とはサンスクリット語に由来し、「花の溢れた」という意味だと教えてくれた。
バガンに戻って
ホッパ山に登った心地よい疲れとある種の神秘的な雰囲気を身にまとって、バガンに戻ってきた。それ故か、街中は市場に足が向いてしまう。やはり、心と体が浮き立つ。
自転車を借りてバガンの遺跡巡り
翌日、ゲストハウスのおじさんに勧められて、自転車を借りてバガンの遺跡巡りをすることにした。自転車は右側通行、あるいは左側通行のどちらかを聴いたが、不思議な顔をして「知らない」と答え、「それよりも、下着の取り換えと冷蔵庫に入っている大きなボトルの水を1本持っていけ」と教えられた。動き出してすぐに理解できた。汗びっしょりだった。下着を替え、教えられたとおりに自転車に括りつけた。気温と風のおかげで乾きが速かった。「よし、仕切り直しだ」。
ティーローミィンロー寺院
次に目に入ったのが、「ティーローミィンロー寺院」であった。バガン王ナラパティスィードゥーが5人の王子の中から後継者を選ぶ時に、傘が倒れた方向に座っていた王子を選んだという。選ばれたのはパガン王朝第8代国王「ナンダウンミャー王」であった。ナンダウンミャー王は傘によって選ばれたので、王が建造した寺院は、「ティーローミィンローHtilominlo Temple(傘の寺)」と呼ばれているそうだ。1215年の建造物で、高さ46メートルの3層のうち2層の各層にはそれぞれ4体の仏像が収められている。
注)2016年の地震で建物中央の塔が崩れたそうだが、その後の修復工事の様子は確認していない。
タラバー門
自転車なのでフットワークはいつもより軽い。いつもは、目に入った場所へ「なんだろう?」と好奇心を持って行くのだが、今度は門のある場所を探してそこから入ることになった。「タラバー門」である。この門は9世紀にピンビャー王がバガンの防御を固めるために構築した城壁の東の城門である。ニャウンウー方面からオールド・バガン方面に向かう時に通る門である。門の両側にはバガンの守護神である兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られている。
アーナンダ寺院
アーナンダ寺院Ananda Templeは、バガン朝三代目の国王チャンスィッターKyanzitthaによって1090年に建てられた寺院である。アーナンダの名は、釈迦の一番弟子の名前から取ったと言われている。本堂は一辺63メートルの正方形で、4つの入口、中央にそびえる高さ50メートルの塔のバランスは、見事なバランスを保っている。
私が最も美しさを感じるのは、本堂の中央に高さ9.5メートルの4体の仏像がそれぞれ四方を向いて収められている姿である。書籍によると、南と北の二体が創建当時のままで、残りの二体が火事で焼けてしまい、造りなおされたものだそうだ。
タビィニュ寺院
ティーローミィンロー寺院からタビィニュ寺院Thatbyinnyu Templeへ移動する。パガン王朝のアラウンシードゥー王(1113~1163年)の統治下で建立された。高さ約61メートルの荘厳な姿は、オールド・バガンの城壁内に位置する寺院の中でも圧倒的な存在感を見せる。建物内には大きな黄金の仏様があるが、こちらの寺院を見学する際には、裸足になることが求められるので注意してください。タビィニュ寺院のタビィニュとは、全知者、すなわち仏陀を意味するそうだ。
なお、タビィニュ寺院の隣にあるタビィニュ僧院には、日本人戦没者の慰霊碑が建てられていることを付記したい。
ミャンマー・ヤンゴン
クアラルンプールからヤンゴンへ
現在、2021年7月である。9年前(2012年2月)に訪ねたミャンマーについて、記憶を掘り起こし、メモを開きながら記録する作業をしている。現実の社会、政治状況は、「コロナ下で東京オリンピックを開催する是非」、「クーデター後のミャンマーの社会情勢」等々の情報が入り乱れ、社会そのものが複雑な状況にある。記憶が定かでない部分も多いが、その辺りはお許しください。
9年前の旅(本ブログ)のスタート位置は、マレーシアのクアラルンプールから飛び立ち、ミャンマーのヤンゴン国際空港へ着いたところである。空港からバスでヤンゴン鉄道駅に向かい、近くにあるホテルにチェックインを済ませた。次は、明日夜に発つバガンへの寝台列車のチケットを求めるだけである。私にしては、不思議なくらいスムーズにことが運び、ステップを踏みながら街に出かけられた。
ヤンゴンのブラブラ
いつも通り足の向くまま、気の向くまま、街歩きの開始だ。ブラブラしながら“ヤンゴン”に慣れることだ。探求心ではなく、好奇心、“何かを見る”のではなく、“見えるものを受け入れる”のである。街を歩いて美女を捜し歩くのではなく、目に入る美女を…、どうしよう、うまくいかない、まだまだ、未熟な私です。
スーレー・パヤー
高さ46メートルの黄金の仏塔(パヤー)「スーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)」は、ヤンゴンのダウンタウンの中心にある、まさにヤンゴンのランドマークである。整然と区画整理されていて、仏塔の周りはラウンド・アバウトになっている。ここを中心に東西にマハバンドゥーラ通りMahabandoola Rd.、南北にスーレーパゴダ通りSule Pagoda Rd.が延びている。仏塔の南東には広い敷地を持つマハバンドゥーラ公園があり、この周辺には英国のビクトリア様式の古めかしい建物が配置されている。
なお、スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が収められていると言われている。
ヤンゴン川沿岸
間違ってヤンゴン市庁舎に入ったところ、案内所みたい所にいた担当者が非常に親日的で、彼から簡単な市内地図を貰ってしまった。それによると、ヤンゴン川(エーヤワディー川の支流)沿いの通りは「ストランド通り」と名づけられていた。英国ロンドンの「ストランド」界隈はロンドンっ子に負けないほど詳しい私である(言い過ぎである)。能書きを垂れたところ、すっかり尊敬されてしまって、英国植民地時代に建てられた税関、港湾事務所、ストランド・ホテルなどに連れて行ってくれました。ロンドンのストランドは、昔、住んでいた頃に家内や子供達とオペラだ、バレエだ、近年では孫とミュージカルだと通っただけなのに、随分と役に立った。ありがとう、皆さん。
ボータタウン・パヤー
ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤーはお勧めです。解説書から役立つ情報をピックアップさせて下さい。2500年以上前に8人の僧がインドから釈迦の遺品を運ぶ時に、1000人の兵士が護衛にあたった。この寺院の名前は、この1000人の護衛兵に由来する。「ボー」は「1000」、「タタウン」は「兵士」という意味から、ボータタウン・パヤーと呼ばれる。
第二次世界大戦中に爆撃を受けたが、パゴダの改修の最中に瓦礫の中から数多くの遺品が出てきて、その中から釈迦の遺髪や聖歯と思われるものが発見されたという。
シュエダゴォン・パヤー
ヤンゴンのボータタウン・パヤーを巡った後は、ヤンゴンの華「シュエダゴォン・パヤー」をブラブラする。シュエダゴォン・パヤーは2600年以上の歴史を持つと言われる。タポゥタとパッリカという兄弟の商人がインドで仏陀と出会い、8本の聖髪をもらい受けた。紀元前585年にここに奉納したのがシュエダゴォン・パヤーの起源だと言われている。その後、拡張工事を重ね、また度重なる地震などの災害とその修復を経て、15世紀にパゴーの女王シンソープによって現在の仏塔の原型が完成されたと言われる。東西通商の町として栄えたが、1755年にアラウンパヤー王によって破壊された。後にヤンゴンとして復活した。
東西南北4つの参道が上に向かってあり、エレベーターあるいは104段の階段を使って上れるようになっている。
ラオス・ルアンパバーン(2)
ルアンパバーンの街を歩いて見よう
前回登場させたタイトル:ラオス・ルアンパバーン(1)では、ルアンパバーンの市内や托鉢、郊外のバーン・サーンハイ(酒造りの村)やパークウー洞窟などを見学した。このエキサイティングな街は、まだまだ多くの魅力に溢れた文化、民族、人等々に溢れている。訪ねてみるのが一番です、ご一緒しませんか?お寺から行きましょうか。
ルアンパバーン国立博物館
フランス統治時代の1909年、当時のシーサワンウォン王とその一族のために建造された宮殿である。1975年にパテート・ラーオの政権掌握後(王制崩壊後)、博物館として利用されるようになった。館内には、かつて王室で使用されていた調度品や家具、日用品などが展示されている。
タート・クアンシーの滝
ルアンパバーン市内から約32キロメートル離れた所に美しい水しぶきや涼を求めて多くの市民が訪れる「クアンシーの滝」と呼ばれる滝つぼがある。入場券売場のあるゲートまで車で行くことができ、そこから約15分で滝に到着できるため、多くの人々が訪れる。ルアンパバーン市内からトゥクトゥクで約20分、1台80,00~100,000 kip(往復)である。
地元の人々は水を口に含み、家族で泳ぎを楽しんでいる。私はスィミングパンツを持っていなかったが、それなりに見せて?仲間に入れてもらった。
モン族の村
ラオス北部の古都ルアンパバーンやその周辺を楽しみ、皆様にも下手なご案内で申し訳ありませんが、「アジア最後の桃源郷」と呼ばれる世界遺産の町のほんの一部をご案内してきました。ルアンパバーンの最後は、のんびりと散策が楽しい山岳民族である「モン族の村」を訪れ、自給自足の暮らしを続けているモン族の生活や文化に触れてみたいと思います。
ビエンチャン付録
ラオスのルアンパバーン→バンビエン→ビエンチャンへと移動してきた。明日はビエンチャンからマレーシアのクアラルンプールへ移動する旅程で、エァチケットもとってある。今日はビエンチャンの最終日なので、いつも通りの目的なしのブラブラである。
ビエンチャンには、先に紹介した「タラート・サオ」と呼ばれるラオス随一のマーケットがあるが、今日のブラブラは、このマーケットを御紹介することではない。このタラート・サオの近くに路上マーケットを開く、“精力剤売りのばあちゃん”の店を覗くのである。もっと正確に言うと、“怪しげな精力剤売りのばあちゃん”をご紹介したい。体をくねくねさせ、怪しげな手つきで数々の精力剤の効能らしきことを私には理解できない言葉で説明する。数人の客が話を聞いていたが、どうもばあちゃんは私をターゲットにして仕掛けているようだ。と言うことは、私が最も怪しげに見えたのだろうか?本人は枯れたつもりだったが、ばあちゃん、なかなかの目利きじゃのう。
ラオス・ルアンパバーン(1)
ビエンチャンからルアンパバーンへ移動
ビエンチャンの北方面バスターミナルから約10時間、150,000kip(10,000kp=約130円)でルアンパバーンの南バスターミナルに到着する。ルアンパバーンには、二つのバスターミナルがあって、北部へ向かう時はもう一つの北バスターミナルから出発する。10時間はさすがに長い。未舗装の道路も多く、振動で本を読むには無理な所も多い。居眠りか、外の景色を楽しむと決め込んで、アルコールに助けてもらう。
ルアンパバーンの托鉢
昨日は、ビエンチャンからルアンパバーンへの長時間の移動で疲れてしまい、早めに寝たせいか、今日は早くに目が覚めてしまった。ルアンパバーンの名物、早朝の托鉢を見学に行く日だった。天気の具合を見ようと暗い中、外に出たところ、隣りのゲストハウスから人の話し声が聞こえる。そのうちの一人が目ざとく私を見つけて、「together」と聞こえる発音で話しかけてくる。寝ぼけ眼で、一瞬何のことかわからなかったが、「一緒に行こう」と言われている気がして、「with me?」で決着。「彼らがチャーターしてあるトラックで一緒に托鉢(の見学)に行こう」と言うことだった。私が日本人だと分かったのか、リーダー格の男に「百円」とジョークを言われたので、本当に持っていた百円を手渡したところ、大喜びで仲間に見せて自慢していた。私は、「托鉢」の英語を知らないし、サンスクリット語でpindapataと言うこともこの時は知らなかったので、「百円」を繰り返していたところ、皆さんに伝搬して、しばらくの間、皆さん、托鉢のことを「Hyakuen」を言っていたようだ。フランス人が発音すると、「akuen」と聞こえ、「托鉢」が「悪縁」とは妙な感じがした。
バーン・サーンハイとパークウー洞窟へ向かう
托鉢を満喫した後は、「パークウー洞窟」へ向かうのが一般的なブラブラルートのようだ。托鉢に誘ってくれた隣のゲストハウスの連中もそうするらしい。朝食は未だだが、“百円”もこのまま船着場から船に乗ってメコン川の上流約25キロメートルにあるパークウー洞窟へ向かうことにした。船着場で飲み物を買おうとしたところ、「我慢、我慢」と待ったがかかった。パークウー洞窟行きのボートに乗って1時間半くらいの長い待ったで、「バーン・サーンハイ」という酒造りの村で途中下船した。川べりにある大きなドラム缶で有名なラオスの焼酎「ラオ・ラーオ」を蒸留している過程を見学できるのだ。すきっ腹に、効いたね、「ラオ・ハイ」、「ラオ・サート」、「ラオ・カオカム」、それぞれ特徴があって、…、能書きは言わない、一言、「美味い」。
パークウー洞窟
酒造りの村、バーン・サーンハイでラオスの焼酎を何種類か楽しんだが、さすがにサソリの入った焼酎は恐くて挑戦できなかった。ボートに戻るよう集合合図があって皆さん集まったが、ほとんどの方が赤い顔をしていた。寄り道から約30分で、メコン川がナムウー川と合流する地点にあるパークウー洞窟に到着する。川に面した崖にくり抜かれたタム・ティン・ルム洞窟と、そこを過ぎて坂と階段を7分ほど上った所にある横穴のタム・ティン・トゥン洞窟の2か所がある。
ラオス・ビエンチャン
タイからラオスへ国境超え
今回は、“沸騰するアジア”の一つ、ラオス、もっと正確に言うならば、“静かに沸騰しつつあるラオス”を訪ねた。普通の入国の仕方は面白くないので、下の娘の留学時代の友人、タイのMaiちゃんにお願いして列車のチケットを予約してもらった。タイのバンコックに数日間滞在して世間話をして、その後にバンコックから列車でラオスのビエンチャンに入る計画である。タイは何度も訪れているのでそのうちまとめることにして、今回はブログから外すことにしたい。他意はありません。
Maiちゃんが予約してくれたバンコック発ビエンチャン行きのチケットを自分で受け取る。駅の窓口で予約票をパスポートとともに見せるだけでOK、簡単である。ホアランポーン中央駅20 :00発のNo.69 Expressの寝台である。チケットも「Class : ?、 Car :?、Seat No :?、Coach Type :?、Berth Type :?」と、インターナショナルな表記であった。翌朝、タイのノーンカーイNong Khaiに08 :25到着→友好橋(国境)タナレン駅→ラオス出入国税:9,000Kip/人。2012年当時で、100Kip(キープ)=1.03¥だったので約93円だった。
タート・ルアン
タート・ルアンThat Luangを最も有名にしているのは、仏舎利(仏陀の骨)が納められていることである。黄金に輝く高さ45メートルの塔は美しくかつ豪華な姿で人々の目をひきつける。一辺約85メートルの外壁は正方形で、その中の庭部分に一辺約60メートルの正方形の土台があり、その土台の上に塔が建っている。
16世紀半ばに、ルアンパバーンからビエンチャンに遷都したセーターティラート王(1534年~1572年)の命によって建設が始まり、その後、幾多の破壊や修復を経ており、現在の姿になったのは、1930年代からの本格的な修復による。セーターティラート王はラオスにかつて存在したラーンサーン王国、そしてタイ北部にあったラーンナータイ王国の16代目の王である。
ブッダ・パーク
「ブッダ・パーク(正式名称はワット・シェンクワン)」と言われると、仏教に関する像が立ち並んでいるように想像してしまうが、ヒンドゥー教の神像も祀られていて、なんのことはない、宗教のテーマパークと言った感じである。これらの石像は全て一人の宗教家によって集められた寄付やお布施によって造られ、驚くことに全て手彫りだそうだ。私は、宗教色むんむんの施設だと思っていたが、最初に書いたように、どうも宗教のテーマパークだ。そう思って見ると事の良し悪しは別として、楽しくなってしまう。楽しいことは良いこと。楽しもう。
ビエンチャン3日目のブラブラ
朝の散歩は、やはりメコン川。遅めの食事を済ませて、今日も気の向くままにビエンチャンをブラブラ。
スリランカ・コロンボ
キャンディからコロンボ
キャンディからコロンボへの移動は、列車、バスともに充実しているので、旅行者の好み、スケジュール、予算等々、選択肢が広い。私は、こういう場合にはすべてに優先して、列車を選ぶ。理由は勝手に決め込んでいる“旅情”である。あの孤独感は、そして相反するが人との出会いは、私の“旅をする重大要素”なのである。でも、圧倒的にバスを利用する人が多いみたいなので、参考までにバスの運行データの一部もご紹介します。私設バスターミナルからエアコン付き特急バスで約3時間半、Rs.105です。簡単すぎると言うことは、人気があるとお考え下さい。
さて、朝6時前なのに、キャンディ駅はコロンボ行きのチケットを求める旅行客で賑やかである。未だうす暗いせいか、列車に乗り始めるとすぐに居眠りを始めるお客さんが多い。3時間弱の睡眠時間は、その後のコロンボのブラブラには貴重な時間なのかもしれない。
何事か?
突然、何かが爆発したような炸裂音が聞こえた。雷の音どころではない大音響である。一瞬、TV等の画像で見るテロか何かかと思った。でも、武装した軍や火器を持った人達がいなかったので、そうではないらしい。歩道橋の上でしゃがみこんでいた青年が、英語で「エレクション」と教えてくれた。「エルとアール」の発音は難しいが、この状況で卑猥なジョークを言う青年には見えない。一瞬、ピンとこなかったが、「選挙?」と返したところ、青年が頷きながら再度「エリクション(election)」と言ったので、やっと理解できた。それにしても経験したことのない爆音だ。時間の経過でやっと様子が分かってきた。選挙の応援に支援者が爆竹を鳴らしたのだ。私は、駅近くの歩道橋の上にいたのだが、爆竹の音と共に地面を伝わる振動が橋を揺るがしていたのである。私もその一人であるが、驚いた歩行者が橋の欄干にしがみついていたわけだ。朝一番に気合を入れられた。
フォートとペター
コロンボは、街の特徴を大まかにザクッと言うと「フォートFort」と「ペターPettah」に分けられる。前者は、先程着いたばかりであるが、コロンボ・フォート駅、つまりコロンボの玄関口であり、また、コロニアルな雰囲気が最も強く残る官庁街でもある。後者は、先程歩いてきた歩道橋を渡った辺りで、「HOTEL」があり、セントラル・バスターミナルや民営バスターミナルがあるエリアである。ここで、「HOTEL」とは、この国の呼び名で、「大衆食堂」を指すことが多いので、要注意。そして、ペターで忘れてはならないのが、“雑踏”、そう「The Shitamachi」である。市場巡りに取りつかれている方には嬉しい、スリランカ随一のバザールがある庶民の町である。但し、食べ過ぎないように。
オランダ時代博物館
オランダ時代博物館Dutch period museumは当時の植民地政府の建物を博物館にしたもの。当時のこのペター地区は白人とスリランカ人の混血児である「バーガー」とイスラム商人の豪華な邸宅が並ぶ高級住宅地であった。ヨーロッパ風の建物らしく、手入れの行き届いた芝生の中庭がある2階建ての建物で、1階にはヨーロッパ人が訪れて香辛料貿易を始めた経緯についての資料を展示し、2階には使用されていた家具や古地図などが展示されている。
朝は市場から
今日はコロンボの一番人気とでも言おうか、多くの旅行者が訪ねる「キャラニア寺院」に出かける予定である。未だ朝早いし、時間があるので近くで声が飛び交う市場を覗くことにした。大きな入口に、「Fose Marketフォース市場」と書かれ、その下に「Federation of self-employees」とあった。正しい英語かどうかは横に置いといて、「自営業者連盟」とでも言うのであろうか、広い場所に個々人が店を出すやり方らしい。
おもちゃ、宝飾品、衣類、果物、野菜等々、大繁盛の市場である。私は朝の果物を買ったが、随分とおまけしてくれた。
キャラニアの仏教寺院
『キャラニア』と聞いても、仏教に興味のない方々にはピンと来ないかも知れない。しかし、仏教に関心のある方、歴史に興味を持つ方々に、ここにある『ラジャ・マハー・ヴィハーラRajamaha Viharayaとは』と聞けば、…。釈迦がこの地を訪れ、沐浴と説教を行ったとされるスリランカの3つの聖地のひとつなのである。紀元前3世紀頃には現在の白いダーガバ(仏塔)の原型となるものが建てられたと言われている。その後、幾多の度重なる争いの歴史の中で破壊と修復が繰り返され、何度か再建されてきた。
コロンボのペター地区にある中央バスターミナルから224番、228番、235番のバスで約50分、Rs20で、コロンボの北東11キロメートルにあるキャラニアに着く。バスの運転手は気の良い奴で、バスターミナルのすぐ側にある仏教寺院『ラジャ・マハー・ヴィハーラ』(あるいは『キャラニア寺院』)に向かう門を教えてくれる。礼を言って、参拝者の流れについて行くと、キャラニ河に突き当たり、沐浴場が目の前にある。境内に入るのに沐浴は求められないが、遊歩道を通って階段を上がり門まで来たら裸足になる。偉そうに見えた人に「ルールか?」と尋ねたところ、「マナーです」と答えがあった。「ルール」と「マナー」を峻別し、それも上品な英語で話されては、…。久々に聞く「マナー」に深々と頭を下げた。
ガンガーラーマ寺院
ベイラ湖近くに建つガンガーラーマ寺院 Gangaramaya Templeは、18世紀に建てられたもので、コロンボで最大級の寺院のひとつである。スリランカをはじめ中国、タイ、ビルマなど各国、各地域の多数の仏像が祀られている。ある意味で、一種の仏像博物館といった感じであった。
ジェフリー・バワ
スリランカ・コロンボ出身の建築家で、スリランカを代表する建築家。外と内の障壁を取り除き、光と影を上手くグラデーションさせたデザインに特徴がある。
明日はスリランカの実質最終日
明日はコロンボからインドのマドゥライへ飛ぶ予定なので、今日は、スリランカの実質最終日だ。こちらでしか手に入らない紅茶などを日本に送ったり、ブラブラする貴重な日だ。
いきなり、赤色の建物である。赤い色と言えば郵便ポストであるが、ここでは赤い建物が郵便局であった。ここに来た理由は、買い込んだスリランカ紅茶を船便で日本に送ることである。船便(Surface mail)の送りは、通常、郵便局などで行うため、梱包から最後の切手まで、厄介なことが起きることがある。失礼ながら、国民性とか、民度を測る尺度にもなる。最近は航空便類が安くなったので、トラブルが少なくなったのですが。今回は、美男好きの美人スタッフが助けてくれてスムーズにいきました。