クアラルンプールからヤンゴンへ
現在、2021年7月である。9年前(2012年2月)に訪ねたミャンマーについて、記憶を掘り起こし、メモを開きながら記録する作業をしている。現実の社会、政治状況は、「コロナ下で東京オリンピックを開催する是非」、「クーデター後のミャンマーの社会情勢」等々の情報が入り乱れ、社会そのものが複雑な状況にある。記憶が定かでない部分も多いが、その辺りはお許しください。
9年前の旅(本ブログ)のスタート位置は、マレーシアのクアラルンプールから飛び立ち、ミャンマーのヤンゴン国際空港へ着いたところである。空港からバスでヤンゴン鉄道駅に向かい、近くにあるホテルにチェックインを済ませた。次は、明日夜に発つバガンへの寝台列車のチケットを求めるだけである。私にしては、不思議なくらいスムーズにことが運び、ステップを踏みながら街に出かけられた。
ヤンゴンのブラブラ
いつも通り足の向くまま、気の向くまま、街歩きの開始だ。ブラブラしながら“ヤンゴン”に慣れることだ。探求心ではなく、好奇心、“何かを見る”のではなく、“見えるものを受け入れる”のである。街を歩いて美女を捜し歩くのではなく、目に入る美女を…、どうしよう、うまくいかない、まだまだ、未熟な私です。
スーレー・パヤー
高さ46メートルの黄金の仏塔(パヤー)「スーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)」は、ヤンゴンのダウンタウンの中心にある、まさにヤンゴンのランドマークである。整然と区画整理されていて、仏塔の周りはラウンド・アバウトになっている。ここを中心に東西にマハバンドゥーラ通りMahabandoola Rd.、南北にスーレーパゴダ通りSule Pagoda Rd.が延びている。仏塔の南東には広い敷地を持つマハバンドゥーラ公園があり、この周辺には英国のビクトリア様式の古めかしい建物が配置されている。
なお、スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が収められていると言われている。
ヤンゴン川沿岸
間違ってヤンゴン市庁舎に入ったところ、案内所みたい所にいた担当者が非常に親日的で、彼から簡単な市内地図を貰ってしまった。それによると、ヤンゴン川(エーヤワディー川の支流)沿いの通りは「ストランド通り」と名づけられていた。英国ロンドンの「ストランド」界隈はロンドンっ子に負けないほど詳しい私である(言い過ぎである)。能書きを垂れたところ、すっかり尊敬されてしまって、英国植民地時代に建てられた税関、港湾事務所、ストランド・ホテルなどに連れて行ってくれました。ロンドンのストランドは、昔、住んでいた頃に家内や子供達とオペラだ、バレエだ、近年では孫とミュージカルだと通っただけなのに、随分と役に立った。ありがとう、皆さん。
ボータタウン・パヤー
ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤーはお勧めです。解説書から役立つ情報をピックアップさせて下さい。2500年以上前に8人の僧がインドから釈迦の遺品を運ぶ時に、1000人の兵士が護衛にあたった。この寺院の名前は、この1000人の護衛兵に由来する。「ボー」は「1000」、「タタウン」は「兵士」という意味から、ボータタウン・パヤーと呼ばれる。
第二次世界大戦中に爆撃を受けたが、パゴダの改修の最中に瓦礫の中から数多くの遺品が出てきて、その中から釈迦の遺髪や聖歯と思われるものが発見されたという。
シュエダゴォン・パヤー
ヤンゴンのボータタウン・パヤーを巡った後は、ヤンゴンの華「シュエダゴォン・パヤー」をブラブラする。シュエダゴォン・パヤーは2600年以上の歴史を持つと言われる。タポゥタとパッリカという兄弟の商人がインドで仏陀と出会い、8本の聖髪をもらい受けた。紀元前585年にここに奉納したのがシュエダゴォン・パヤーの起源だと言われている。その後、拡張工事を重ね、また度重なる地震などの災害とその修復を経て、15世紀にパゴーの女王シンソープによって現在の仏塔の原型が完成されたと言われる。東西通商の町として栄えたが、1755年にアラウンパヤー王によって破壊された。後にヤンゴンとして復活した。
東西南北4つの参道が上に向かってあり、エレベーターあるいは104段の階段を使って上れるようになっている。