イタリア人

イタリアの国民性を語るのは易しい or 難しい
 「国民性を語るのに易しい国の一つはイタリアである」。「国民性を語るのに難しい国の一つはイタリアである」。??この種の問題、「こっちが正しい」とか「あっちが正しい」と決めつける性質のものではない。「どちらももっともだ」なのである。これほど個性的な人々はいまい。そして、よく南と北では人々の性格に違いがあると言われるが、この国の人々ほどその顕著な例はあるまい。南は一般的なイタリア人のイメージに近い陽気なイメージで享楽的な人が多く、北は質実剛健なドイツ人のイメージに近いと言われる。そうは言ってもイタリア人である。前回、ご紹介したドイツ人と比較すると、よく食べよくしゃべる人々である。
 ローマの玄関口である中央駅(ローマ・テルミニ駅)近辺には、当然のことながら旅行者向けのレストランが多い。私もローマに出かけた時には、家族と相当回数通った。そしていつも同じことを聞かれる。イタリア語で「ジャッポネーゼgiapponese?(日本人か)」と聞かれるのである。私は「Si(シー)」と答えるわけだが、ぼうっとしていて日本語で「そー」と言ってしまうことがあるが、「日本語のそー(そうです)」が通じることも多い。ここで、問題である。レストランのスタッフは、なぜ「ジャッポネーゼ」と聞くのか?日本人は100%スパゲッティを頼むのでその確認?「それは正しい」。そこで、一度親しくなったレストランのオーナーに、「なぜ、日本人にジャッポネーゼと聞くのか」と質問したところ、詳しくその理由を教えてもらった。「日本人は小食なので、品数を減らすか、量を減らすことを勧めるためだ」そうだ。合理的であり、食を大切にするイタリア人に感謝し、もっと色々な料理を食せることにも大感謝である。なお、パルメザンチーズのなどの特産物は、「食べ残しをするとお持ち帰りをしてくれる」とある本で読んだことがあるが、私には経験が無い。
 先に、「ドイツ人と比較すると、よく食べよくしゃべる人々である」と書いた。今度は、よくしゃべるイタリア人を御紹介しよう。とにかくしゃべる。英語で話す時でも、イタリア語を混ぜたり、それにイタリア語自体が歌のように聞こえるので、こちらは相手の言葉(メロディ&リズム)に合せて首を縦横に振ってしまう。ここで圧倒されたら負けである。日本人のように、言わなくても相手に伝わるだろうと思い込んでいては、通用しないことが多いのである。
 私は南北を問わずにイタリアが大好きだが、ここでは先ず南側のナポリでの経験を御紹介したい。ナポリには特徴あるメルカート(市場)が色々とあるが、活気があることで有名なピーニャセッカ市場(Mercato della Pignasecca)に出かけた。目指すは魚屋さん(Pescheria)である。魚屋さんのお兄さんは、日本人に劣らない?見事な手さばき(包丁使い)で、海辺ならではの魚介類をこなしている。あまりにも真剣に見とれていたせいか、このお兄さん、(名前は分からなかった)魚の一切れを私にくれて、「食え」と合図する。旨いのなんのって、旨い。日本を出てからあきらめていた刺身を国外で食べられるとは「幸せ、そのもの」。「旨い、美味い」と日本語で言ったところ、もう一切れくれた。あまりにも気分が良いので、「気持ちだ!」とお札を渡そうとしたところ「何をするんだ」といった表情で怒ってしまった。そう、ナポリっ子は、かくも、粋で、気前が良く、…、まだまだ、褒めたりない。そして、数々のイタリアンハーブ、パスタ、新鮮な野菜、ワィン、…、これじゃ、彼等・彼女等に「痩せろ」と言う方が無理だ。

夜はいつも忙しい
 この美しい港(ナポリ湾)と東側にそびえるヴェスビオ火山の組み合わせは、まさに“ナポリ”である。もう4度ほど訪ねたので、「ナポリを見たから死んでも良いか」。でも、これだけの街、やはり、稿を改めてナポリについて再度ご紹介させていただくことにして、今日は「ナポリの夜~食事とオペラ~」について学問をしたいと思います。

卵城から写したヴェスビオ火山とサンタ・ルーチア

 1998年6月にナポリの王宮(Royal Palace)で5日間にわたって行われたある学術会議に参加した。最新の研究課題に関する情報交換や技術的討論会もさることながら、1日だけ行われるカンファレンス・ディナー(Conference Dinner)も楽しみの一つである。今回は、民謡「サンタルチア(Santa Lucia)」で知られるサンタルチア地区の海に浮かぶ要塞「卵城(Castel dell’Ovo)」で行われた。参加者は、世界各国から集まっているので色々な言語が飛び交っているが、強気のフランス語も次第に多勢の英語に負けてしまう。

王 宮
卵城(12世紀の古城)

 さて、先に「ナポリの夜~食事とオペラ~」について学問したいと書いた。まず、食事である。私の悩みを聞いてください。「食事中は日本語で話したい」。「英語で考え、英語で話せ」と言われても、「食べる」という行為(楽しみ)は原始的行為であるし、翻訳しながらでは「食べた気がしない」のである。「中国料理を食べる時は中国語で話しながら」、「ロシア料理を食べる時はロシア語で話しながら」なんて言う奴もいるが、詭弁だ。
 そうは言っても、ここの料理は美味かった(日本語)。お一人でも楽しむことができます。卵城の横にある魚介レストラン街・漁師村「ボルゴ・マリナーリ(Borgo Marinari)」は是非、お訪ね下さい。
 私の夜の楽しみのもう一つです。オペラです。南米は訪れたことはありませんが、他は多くの著名なオペラハウスは観て聴いています。「観て聴いて」という意味の中には、「建物の外観を見る」は入っていません。文字通り「観て聴いて」います。好きなオペラハウスは、出し物、出演者、指揮者、建物、…等の要素が入ってきますが、実はイタリアの「スカラ座」、…、も大好きですが、実は、実は…、ナポリの「サン・カルロ劇場」です。
 2002年5月だったと思いますが、舞台に向かって右側の3階のボックス席でした。椅子が3つ並んでいて、開演近くなってからイタリア美男子、少し遅れてイタリア美女が私の両脇に座りました。私を挟んで右に可愛い美女、左にさっそうとした美青年。出し物は?忘れてしまいました。「席を譲ってくれませんか?」が圧倒的に多い中、この(多分)アヴェック、きれいな瞳で舞台をじっと眺めていました。待ちに待った幕間が来ました。中肉中背のご老人、すくっと立ち上がって、手招きをして、若者達が隣同士になるように席を譲りました。ここで終わると文章としては格好が良いのですが、少し時間がかかりました。若者達は老人が舞台に近い方に座るように手招きして、「ティ リングラツィオ(Ti ringrazioどうもありがとうございます)」。老人は舞台から遠い方に座って「ありがとう(Grazie!)」。よく言われるように、不正確でルーズな面を持つイタリア人ですが、困った時にはお互いに助け合う精神はなかなかのもの。それにやることが洗練されている。さすが、一流ブランド発祥の地である。
 ところで、ここまでどちらかと言うと、南のナポリが話題になっているが、オペラに詳しい方はご存知かと思いますが、実は、オペラはヴェネツィアで栄えていたのですよ。17世紀後半から18世紀初めにかけて、オペラの活動の中心はヴェネツィアからナポリへ移ったと言うわけです。このあたり、しゃべる始めると、「プロヴェンツァーレ」だ、「スカルラッティだ」、「…」と止まらなくなるので、次の機会に譲りたい。

ドイツ人

ドイツ人
 最初に登場する外国人は、特別の理由が無く、何の根拠も無く、ドイツ人にご登場願おう。一般に、ドイツ人は合理的思考をし、真面目でルールに厳しく、計画性があると言われる。私の少ない経験であるが、時間にも厳しい。それ故に慣れていないと相手の国民性によっては難しいことがあるかもしれない。倹約家であるこということ以外は日本人と似ていると言われるが、個人的にはそう思わない私はケチなんだろうか?私のお友達諸君、いかがですか?
 私の最初のヨーロッパ旅行は、イギリスに住み始めてから2カ月くらい経った頃である。海外生活に未だ慣れていなかったことから、家族だけで外国を旅行するのは次の機会にして、みんなでロンドンの旅行会社トーマス・クックのヨーロッパ・バス・ツァーに参加することにした。この会社は幾多の変遷を経て現在も存在しているが、「Thomas Cook Continental Time Table(トーマスクック・ヨーロッパ鉄道時刻表)」で著名な、あのトーマス・クック社である。
 ところが、旅行の出発日近くになって下の娘がマンプス(おたふく風邪mumps)に罹ってしまい、私が一人でツァーに参加することになってしまった。余計なことであるが、英国(イギリス)では住民登録をしていると、医療費は無料であることを初めて経験した。
 さて、ドイツ人の話である。外国人の中にはツァーに一人で参加する方も多く、参加者が、なんとなくグループあるいはペアになって乗物の席に座ったりする。今回の私のヨーロッパ旅行ではカナダのトロントから一人で参加した銀行マンと密着することが多かった。インターナショナルな彼には多くのことを教わった。おやつに買ったお菓子の支払いで、私が「ダッチ・カゥントで」と言ったところ、口に指をあてがって「しーっつ」と言われた。差別語だったんですね。勉強になりました。
 ロンドンを出発して最初に宿泊したベルギーのアントワープから始まって3つ目の都市であるドイツのケント、そして4つ目の都市ドイツのB市を訪ねた時の話である。昼食時にバスを降りてレストランに入ろうとした時のことである。レストランには前室みたいのがあって、気の良いN人がそこにあった自動販売機でジュースを買ってレストラン内に持ち込んだ。少し時間が経って、メニューを持ったお姉さん(おばさん)が客の注文を取りにやってきた。気持ち良くジュースを飲んでいたN人を目ざとく見つけて、「ジュースを袋に入れてください」と注意した。一度の注意で言うことを聞かなかったので怒ってしまい、「That’s rule」と声を荒げた。外野席から、「ユーモア(英: Humor)」のひそひそ声が聞こえてくる。ドイツ語も同じスペルで Humor, フモーア)である。この場合、外野席は「ドイツ人はHumorlessだ」と言いたいのだろうが、悪いのはサービス料を払わずに飲み物を持ち込んだ旅行者なんだがなぁ?
 次の話題である。1979年の夏。家族でヨーロッパ旅行をしていてミュンヘンに寄った。市庁舎を訪ねて分かったのだが、私の住む日本の某市はミュンヘンと姉妹都市であった。わざわざ通訳の女性が出てこられてマリエン広場にあるネオゴシック調の美しい新市庁舎や新市庁舎の塔の仕掛け時計、子供達に人気のある市庁舎などをご案内いただいた。さらに庁舎見学の入場券や3人の子供達にハードカヴァーの立派な絵本をいただいた。この街はドイツの中でも生活水準が高い都市としてトップクラスであるが、感謝感激である。一般に国の南側の人々は、郷土愛が強くおおらかで親切と言われるが、すっかり好きになってしまった。もう一つ。ここのバイエルン国立歌劇場は、超お勧めです。

ミュンヘンのマリエン広場にあるネオゴシック調の美しい新市庁舎、新市庁舎の塔の仕掛け時計
超豪華

 次の次の話題は、19年後に飛んで1998年6月初旬のことである。ドイツ人のことを書いているのだが、場所はイタリアのナポリから始まる。ナポリ港からカプリ島行きの高速船で約45分間。そう言えばもう分かりますね。カプリ島マリーナ・グランデ(Maria Grande)港に到着後にモーターボートに乗り換えて、そう、目的地の世界的観光地「青の洞窟「(Grotta Azzurra)」へと向かう。ここからが今日のテーマである。青の洞窟に入るためにモーターボートから降りて、乗客一人、あるいは二人を乗せる舟に乗り換えるのだが、入り口で船頭に料金を払うシステムであった。突然、私の後ろで何か大きな声がした。かいつまんで話すと、青の洞窟を目前に混雑している中でお客さんが船頭に領収書を要求したのである。イタリア人の船頭と言っても、毎日観光客に接している職業人であり、それなりの言語は理解できるはずである。「??めっ」。そのお客さんがどこの国の人かは定かではないが、多分、その通りなんでしょう。お金のことをきちんとしておきたいのでしょうね?

カプリ島の青の洞窟

 最後に、このような話題はいかがですか?ドイツでは、各商品のグラムあたりの単価が表示されており、地元の人々は勿論のこと、旅行者にとっても値段が分かりやすくなっている。この合理性は人気があり、大賛成です。もう一つ、絶対書かなくては。とにかく、掃除大好き、整理整頓も大好き。学ばなくちゃ。

日本人

日本人
 海外を旅行している時、旅行先の人々のことを国名を前に付けて呼ぶことが多い、というか、一般的である。例えば、「イギリス」+「人」=「イギリス人」、「ドイツ」+「人」=「ドイツ人」、「アメリカ」+「人」=「アメリカ人」という具合である。
 ところで、例えば「イギリス人って?」と自問すると、あるいは質問されると、意外と難しく、答えに詰まることも多い。私は、旅行中であれば用心深くステレオタイプ(Stereotype)な表現をすることにしている。多数の人に行き渡っているレッテル、先入観、思い込みなどの類型化されたあれ(・・)である。上の例で言うと、「イギリス人」とか「英国人」という呼び方である。
 ここ数回のブログは、旅行中に出会ったこの大まかな「…人」について筆を進めたい。知識ではなく、経験したことを書き留めたい。当然のことながら、名前を挙げた国や国民を、ましてやその歴史を揶揄したり、非難したりするものではないことを最初にお断りしておきたい。
 さて、最初に登場する「…人」は、意表をつく様で申し訳ありませんが、「我々日本人」である。「多くの外国の人々は、自分の意見を述べる際に主語として”I(アイ)”を使うことが多いが、それに比較して日本人は「私」と使うことは少ない。「私は、こう思う」と主張するのではなく、「我々日本人(We, Japanese)は、…」と言うのである。これだけでは不十分かもしれない。もっと正確に表現すると、ある年齢層を除いて、「我々日本人は、…」と言うことが多い。何故だろう。「我々日本人は、…」と「私は、…」の違いは、前者に比較して後者がより自己を強調する、あるいはより自己主張をする意味合いを持つと思うが、話している外国語の語学力とか表現力に自信がない場合にそうするのだろうか。一語の名詞で表現しようとする「我々日本人」は、多くの外国人が違う国の外国語を話す時のように、分かりやすい単語を使って言葉を尽くして状況説明をすれば良いと思うのだが…。大丈夫、頑張れ!日本人。日本語と言う特殊な?言語をつれる「我々日本人」は、コツさえ掴めばすぐに身につけられる手法である。それほど日本人は優秀なのである。
 「我々日本人はそれほど優秀なのである」と、気分の良い所で終わりたかったが、文中に、一つ忘れ物をしました。『「ある年齢層を除いて、我々日本人は、…と言うことが多い。」』と書き残しましたね。つまり、「我々日本人は」と表現しない年齢層がいるとの趣旨である。どの年齢層だと思いますか。「昔、漢字は表意文字である」と教わった人達か?言語学を操るには私は浅学すぎます。自己主張をする年齢層とは?私が最も弱い就学前の「らんちゃん」層である。「じじ、らんちゃん、あれほしい」、「らん、ピアノうまくなったよ」、「らん、らん、ラ・ラ・ラ、らんらん…」。でしょう、少ない単語で自己主張をしてしまう。

「つれづれなるままに」の始まり

今日(2022/01.19)からブログ「つれづれなるままに」の記事が始まります。第1号です。「読書歴」とでも名付けましょう。よろしくお願いします。

 私のかつての職場で、若者達に「これ1冊」を推薦する欄(BOOK REVIEW)がありました。約12年前の2007年冬号に、私の書いた記事が載っていたのを見つけました。その文章と写真をスキャンして掲載したのが以下の記事「人らしく生きたい」です。

人らしく生きたい
 人生で1冊の本を選ぶという行為は私には残酷すぎます。そこで…。
中1でフョードル・ドストエフスキーの作品7編を読みました。人々の織りなす悲喜劇とロシアメシアニズムは13歳の少年の頭を混乱させ、砂利道で自転車を転倒させました。中3でノーマン・メイラー「裸者と死者」、高1でアルベルト・モラヴイア「ローマの女(ひと)」を読み、男の切なさ、女の哀しさを垣間見ました。院1でウラジーミル・ナボコフ「四重奏」から望郷の鼓動、美的至福を感じました。

 私のゼミではゼミ生に輪読の修行を課します。ここ数年は、「蒼穹の昴」、「天切り松闇がたり」、「天国までの百マイル」、「壬生義士伝」、「中原の虹」等々。教養という言葉を飲み込む博識、粋なセリフ廻し、独特の空間設定で言葉を操る“平成の泣かせ屋”浅田次郎。もしもあなたが、登場人物の心根や言葉の一節(ひとふし)に涙を流し、胸の高まりを覚えたなら、あなたは…、あなたは人の優しさ、人の愛を知ったのです。

2007年に撮った写真をスキャンしました。

 それにしても、14歳とか17歳でこのような本を読んでいた少年、青年は、どのような老人になったのでしょうね。お会いしてみたいですね。終戦の年(1945年、昭和20年)に生まれたとして、2022年現在76歳か77歳。この方々は、今どんな本を読んでいるのでしょうか?どんな人生を送っているのでしょうか?

(もう一度)それにしても、ここで掲げた浅田次郎以外の古い時代の本を読まれた方々は、この写真を見て懐かしいでしょうね。私は、今、涙を流さないまでも、ぐっと来ています。深く考えることはありません。単に年を取ったと言うことです。

中国・マカオ特別行政区

マカオ
 マカオは、マカオ半島、タイパ島、コロアン島からなり、3本の橋でつながれている特別行政区である。1999年12月20日に120余年のポルトガルの統治から中国への主権返還がなされた。広州からバスで行くことも出来るので、身近な旅行先として人気が高い。

広州からマカオに向かうバスの乗車券
香港へ向かう途中の給油ステーションのガソリンの価格(2017.4.28現在)。日本のガソリン価格と比べて安いですか、高いですか?

マカオの食事
 日本人にとっては、マカオと言えば、「中国政府によるカジノが唯一認可されている行政区」であろうか?私が宿泊したホテル、珍しく立派なホテルだったのだが、カジノがあったが、宿泊のみの客と動線が厳然と分けられていたので、カジノの様子は分からない。
 カジノに興味が無くても、地元の料理も楽しめるせいか、レストランや居酒屋風の食堂に日本人が屯している。そしてポルトガルは、かつては日本に大きな影響を与えたこともあってか、ポルトガルの統治下であったマカオは日本人に人気が高い。
 私は、これまでにポルトガルに何度か足を運んだが、親日的な人々に惹かれ、また、食の嗜好が口にあって、特に塩味を中心とした魚介類が大好きである。勝手に“漁師味”と名付けて、日本から出かける方々に推薦している。ラッキーなことに、マカオの味付けがポルトガルのそれに似ているのである。そもそもよく考えてみると、中国の広東地方の一漁村であるマカオが“漁師味”を残していることは、当然と言えば当然であると言えよう。

三平汁
 私は、日本国の北に棲む人間であるが、最近では昔ほど見られないが、「三平汁」と言う郷土料理がある。塩で寝かした(塩漬けにした)サケやニシンなどの魚と野菜を一緒に煮込んだ料理であるが、底の浅い大き目の皿、「三平皿」で食べるのが一般的である。松前藩の藩主が狩りに出た際に、斉藤三平という漁師の家であり合わせのものを煮こんだ食事を供されたのが、その起源であると言われている。
 勝手な理屈になってしまいそうだが、皆さん、マカオにお出かけになった際には「三平汁」をお試し下さい。うんちくを傾ければ、地元民に受けること間違いありません。本当においしいのですから。
 海が出てきたので最初の写真は、海の女神、媽祖を掲げたい。

台湾や中国南方で信仰されている海の女神、媽祖を祀っている媽祖閣(まそかく)の山門。阿媽とも呼ばれる
西湾湖(せいわんこ)の埋め立て地にある高さ338メートルのマカオタワー。橋の向こうの遠景は中国である。若い人が多い理由が分かった。ギネス世界記録に認定されたバンジージャンプ、減速降下するスカイジャンプ、スカイウォーク等があるのだ。私は、この種のものは、勘弁してもらっている
西望洋山の高台に建つペンニャ教会。オランダ艦隊の攻撃から逃げ延びた船員と乗客によって1622年に創建された
ペンニャ教会前に建つ聖母子像。聖母子はここからの素晴らしい眺めを楽しんでいるのだろうなぁ
ペンニャ教会の内部は明るくシンプル
16世紀中頃にイエズス会によって建てられた聖ロ-レンス教会。現在の外観と規模は1846年に再建されたものである。ポルトガル人船乗りの家族は、教会の階段に集まって彼らの帰還を祈ったことから、「風順堂」と名づけられたそうである
教会のミントグリーンの天井から下げられたシャンデリアやステンドグラスが美しい
1860年ポルトガル国王ドン・ペドロ5世を記念し、マカオ在住ポルトガル人の共同出資で建てられたドン・ペドロ5世劇場

1728年に聖ポール大学とともに創設された聖ヨセフ修道院

セナド広場
 ツアーなどによるマカオ観光の出発点となっているセナド広場Largo do Senadoは人気の広場である。実は、道路を学ぶ者にとって、ポルトガルは石畳やモザイクタイルで著名な国であって、そのせいもあって、ここマカオの石畳は職人が勉強をする場でもあるのだ。別の道路関連の協会誌に頼まれて上梓したフォト・エッセイ(本ブログの『旧写真旅行記No.14 世界の道-ポルトガル中部から北部へ~ポルト・アヴェイロ・コインブラ・バルセロスそしてブラガ~、2003年04月』)に御紹介したように、繰り返しになるが、ポルトガルのタイル装飾アズレージョが施された壁は世界的に著名なのである。
 話をマカオに戻して、ポルトガル風の石畳とパステルカラーの建築物が映える小さな広場、セナド広場を是非訪ねて欲しい。仁慈堂大楼が建つ腕っききの職人達により作られた波状の地面の鮮やかさは、見逃せない。

セナド広場の一角に建つ、白が美しい新古典主義様式の建物、仁慈堂大楼。現在は公証役場として使われているが、コロニアル様式の仁慈堂博物館の展示室にはイエズス会の紋章が描かれた陶器の壺、宗教関係の祭具、美術品が展示されている。広場には噴水があるので「噴水池」とも呼ばれている
聖ドミニコ教会。バロック様式が美しい。メキシコのアカプルコからやってきたドミニコ修道会のスペイン人修道士3人によって1587年に創建された。かつて鐘楼だった建物は博物館として約300点に上る宗教的な装飾品を展示している。教会の中は観光客でにぎわう広場の喧噪とは異なり、別世界のような静かな空間を保っている

聖ポール天主堂跡
 1582年に聖アントニオ教会付属の礼拝堂として建てられたが、1601年の火災で焼失。翌1602年から30数年をかけて再建するも1835年に焼失。現在はファサードと階段壁の一部のみが残っている。下の写真のアップ画像に見られるように、壁面の真ん中に配置された聖母マリア像、マリアを囲む天使、悪魔、竜、花々などの像から、これまた目が離されない。

聖アントニオ教会付属の礼拝堂として建てられ、後に大部分が焼失した際に残ったファサード部分
壁面中央の聖母マリア像、天使、悪魔、…等
モンテの砦の大砲台
カジノホテルのグランド・リスボアとリスボア。香港からのマカオ日帰り旅行を考えている若者達は、香港→マカオのフェリーターミナル→リスボアの無料バスでマカオ市内→市内観光後→リスボアの無料バスでマカオのフェリーターミナル→香港、と移動して交通費を節約していました。思いがけない出会いがあるかもしれない、頑張れ!若者
ギアの聖母礼拝堂(左)と灯台(右)。聖クレア修道院を建設する前にギアの丘に居住していたクラリスト修道女によって建立された
聖ラザロ教会。ハンセン廟の病院付属の礼拝堂としてここに聖マリアを祀った。この病院の守護聖人が聖ラザロだったため、教会は通称、ラザロ堂と呼ばれる
マカオを楽しんで、これから香港に向かう。香港行きフェリーのチケットも万全だ

マレーシア・イポー&ジョージタウン

イポー
 今日はクアラルンプールからイポー(IPO)への移動日である。イポーはマレーシア北西部にあるマレーシア第三の都市で、この国を代表する地下資源である錫の採掘で栄えた街だ。華人が多く住む東南アジアのチャイナタウンといった雰囲気の町である。
 目的地のイポーの観光と同時に、イポー~クアラルンプールを結ぶETS(高速電車)、KTMインターシティの列車の旅を楽しむことが目的でもある。私の求めた列車のチケットは、マレー鉄道(www.ktmb.com.my)のKL Sentral 発09 :00(EG04)→IPO 11 :20 着の2時間20分の行程である。
 いつもの癖であるが、車窓の景色に飽きると列車の中で文庫本を読む。もう数ページで終わりそうだ。乗った時から気になっていたのだが、40代のきりっとした日本人がなんとなく、…、彼もイポーで降りるようだ。これもいつもの癖だが、「終わりましたので、よければ、…」と、本を差し上げた。当然のことだが、びっくりなさって、「現地生活が長いので」と気持ちよく受け取ってもらった。「ここで、蝶や他の虫などを日本に送っています。ヘビ園も有名ですが、是非、蝶園にお出かけください。」「ホテルが決まってなければ、…」。そこは大人の別れ方で、気持ちよく、「さようなら」。良い旅になりそうだ」

コロニアル風の建築様式を巧みに取り入れたイポー鉄道駅
イポー鉄道駅

ペラ・トン/サン・ポ・トン
 イポー観光の目玉の一つは、洞窟寺院(中国寺院)の見学である。豊富な石灰岩の素材と生産量を生かして多くの洞窟寺院が建てられている。ペラトン(霹靂洞)は、12.8メートルもある金色の仏陀の座象や40体を超える座像が人気の的で、多くの観光客が訪れている。
 近郊バスステーションからNo.35のバスで約15分、RM1.50で行くことができ、嬉しいことに、寺院の入場料は無料である。

ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン内部にある黄金の仏像
リン・セン・トン(霊仙洞)。トコン・ナム・トン(南天洞)の隣にある
佛 縁
三蔵法師とお馴染みの一行である
トコン・ナム・トン(南天洞)。三寶洞の隣にある
サン・ポ・トン(三寶洞)。イポーで最も古い19世紀後半に造られ、1912年に発見された中国の仏教寺院(洞窟寺院)である。地元ではパワースポットとして知られる
イポー駅から徒歩5分程の場所にあるバーチ・メモリアル・タワー。英国初代駐在官 J.W.W.バーチの追悼碑である
メモリアル・タワーの拡大写真

イポーからジョージタウン
 イポー・バスターミナルから約3時間でバタワース(Butterworth)へ行き、ここから20~30分間隔で運行しているフェリーに乗船、約25分でペナン(Penang)島のフェリーターミナルに着く。ここから市内のバスターミナルまでは徒歩圏内である。
 ペナン島の中心は、英国の統治時代の面影を残す、いかにも英国っぽい名前を付けられたジョージタウンである。大まかに言うと、フェリー乗り場からジョージタウンの中心街まで1~2キロメートルと近い。したがって島内の観光の脚はバスの利用で十分である。人気のバス会社であるラビッド・ペナン(Rapid Penang)は、ジョージタウン内にCAT(Central Area Transit)と呼ばれる無料バスを走らせている。車体に“Hop On Free(乗車無料)”と表示されたバスで、ガイドブックに観光場所を網羅したルートマップを載せている。私はあらかじめ予約しておいたホテルでこのルートマップを入手し、方向音痴故に何度も同じルートを行き来した。

イポーからバタワースへバスで移動中
時計塔 Victoria Memorial Clock Tower
コーンウォリス要塞。1786年、キャプテン・フランシス・ライトが最初に上陸した場所に建造された要塞。「コーンウォリス」は、当時の東インド会社提督の名前に由来する
コーンウォリス要塞の入口
ペナン島に入植した広東人と福建人によって1800年代に建てられた観音寺。ペナン島最古の中国寺院
観音寺の屋根や柱には美しい彫刻が施されている
1801年インド人のイスラム教徒カウダー・モフィディーンによって建てられたカピタン・クリン回教寺院。インドの伝統的なムガール様式。カピタンはキャプテン、クリンはマレー語でインド出身者をそれぞれ意味する
カピタン・クリン・モスク。“礼拝中”は訪問お断り
カピタン・クリン回教寺院の内部
ドームにミナレットが付いている
極楽寺院 Kek Lok Si Temple
極楽寺院。1890年から約40年をかけて建てられたマレーシア最大の仏教寺院
中国、タイ、ビルマの3つの様式が混在する高さ30メートルのパゴダが美しい。この八角形の塔で7層のパゴダには1万体の仏像がはめ込まれていると教えられた。このことは、まさに異文化が共存するペナンの多様性を意味している
鶴山極楽禅寺
鶴山観音聖像
寝釈迦仏寺院(ワット・チャヤマンカララーム)の五重のパゴダ(仏塔)。1900年に建てられたタイ式と中国式のミックスした造りになっている
本堂には、1958年に造られた金箔をまとった全長33メートルの巨大な寝釈迦仏。裏側に信者の骨壺。コムタのバスターミナルから103番のバスで行くことができる
寝釈迦仏寺院の五重の仏塔

ヘビ寺
 今日は、気味が悪い方もいらっしゃるかもしれませんが、生きた蛇がうじゃうじゃいるペナンで人気のヘビ寺へご案内します。
 イポーからジョージタウンに移動した時に、ペナン島の島内移動にはバスの利用が便利で、とくにラビッド・ペナン社が運行するCATと呼ばれる無料バスや他に運行するルートが便利であることを御紹介した。今日はそれを利用する日である。ジョージタウンから102とか401のラビッド・ペナンで40分前後でヘビ寺に行くことができます。ただし、車内では停留所のアナウンスがないので、乗車の際にドライバーに「スネィク」と告げておくのが良いかと思います。私の場合は運転手に「ヘビね」と返されました。
 1850年、病気や傷を治す不思議な力を持つチョー・スー・コンという僧を祀って建てられた中国儒教寺院である。旅行記には、1986年に秋篠宮殿下(当時)もご訪問されていることから、日本人観光客に人気の高いお寺であるそうだ。蛇たちは寺の守護神として拝められており、毒牙も抜いてあるので「安心だ」と言われているそうだ。私は恐がりで、「安全」ではなく、「安心」だけでは信用しない。料金を払ってヘビと記念写真を撮る勇気?は無い。

中国儒教寺院のヘビ寺
生きているヘビ。どなたかに言われるまで分からなかった
えっ、生きている?怖いっ

 クアラルンプールからここイポーに向かった時に列車の中でお話をお聞きした「蝶園」が近くにあったので訪ねてみた。田舎で育ったので、珍しい風景ではなかったが、さすがにこれだけ大きな施設になると、皆さんにもお勧めしたい。是非、お出かけ下さい。そして近くにある私の大好きな”漁師町”、”テロッ・バハン”もお勧めである。是非、お出かけ下さい。

ヘビ寺近くにあったバタフライ・ファーム(蝶園)
蝶園で見た蝶の舞
蝶園で見た黒蝶
蝶園で見た蝶の舞
ヘビ寺近くにあるテロッ・バハンの海岸をブラブラしていて、網の修理をする漁師さんの技術に見入った。この網の目を見ると、大き目の魚がいるようだ
テロッ・バハンの海岸。レストランではマレー風寄せ鍋 ”スチームボート”がお勧めです
アチェ・モスクのエジプト風ミナレット。インド人囚人の手によって1808年に建てられた。アルメニアストリート近くにある
サイド・フサイン・アイディドによって建てられた
クー・コンシー(邸公司)。福建省から来た邸氏一族が設立した中国寺院。コンシー(公司)とは祖先を祀る廟のことで、敷地内は寺院と集会場から構成されている。焼失後、1960年代に改修された
ジョージタウンの時計塔
ペナン島のジョージタウンから対岸のバタワースを望む
フェリー船内
バタワース駅にある蒸気機関車 

マレーシア・クアラルンプール

マラッカからクアラルンプールへ
 マラッカ(Melaka)の長距離バスターミナル(Melaka Sentral BT)からクアラルンプール(Kuala Lumpur, KL)のプドゥラヤ・バスステーション(Hentian Puduraya BS)へ約2時間。主要都市を繋ぐだけあって豪華なバスが頻繁に行き来している。

マラッカからクアラルンプールへ向かう豪華バス

 クアラルンプール市内の交通手段は、他の大きな都市と同じように、電車、市内バス、タクシーが中心である。方向音痴の私にはバスの細かい乗り回しは難しく、ホテルのスタッフから助言されたように、遠距離は電車やバスを使い、込み入った場所や短い距離ではタクシーを使うのが合理的なようだ。その電車であるが、LRT(Light Rail Transit System)、KLモノレール(KL Monorail)、KTMコミューター(KTM Comuter)、MRT(Mass Rapid Transit)と至れり尽くせりである。今日はゆっくりと休んで、明日からこの交通システムを駆使して、「KLをブラブラしようっと。」

バトゥ洞窟
 いつもの私流(わたくしりゅう)の「旅は町の中心からではなく、遠くから始める」は今回も同じ。クアラルンプールの町の中心からではなく、北郊外約10キロメートルに位置するヒンズー教の聖地バトゥ洞窟Batu caveから始めたい。同じホテルに泊まった韓国の青年もバトゥ洞窟に向かうと言うことで、彼が調べてくれたルートで一緒に出掛けた。KL Sentral駅よりKTMコミューター(Plathome3 Sentul方面)に乗って約30分→『Batu Cave駅』下車→出口を出てすぐ、である。
 鍾乳洞バトゥ洞窟の入口に立つ「ムルガン(Murugan)神像」は、高さ42.7メートルと世界で最も高い神像である。韓国青年の話だと、神像には300リットル以上の金が使用されていると言うことであるが、純金ではなく合金だとしたら重量ではなく体積で表現されても合理的ではないので、金の重さの実感が湧いてこない。とは言っても、黄金に輝く神像は迫力があるし、ましてや、最高神シヴァの次男でヒンドゥー教の軍神だと聞くと、緊張感がある。
 傾斜のきつい272段の階段を上がると大鍾乳洞のいたる所にヒンドゥーの神々が祀られている。

ヒンドゥ教の聖地・バトゥ洞窟
仏像の左側に見える階段は急勾配で足腰にきつい
上から階段を写す
上に上がって仏像を背後から写す
272段の階段と眼下の街を引き寄せて写す

ピンクとブルー
 ピンクとブルー、例えばカジュアルなズボン(パンツ)をはいて、上にスゥエーターを着る場合は、あなたはどちらの色を選びますか?季節、着るものの素材、中に着るシャツなど、ややこしい条件は横に置いといて、あなたは…。私は黒いズボンが圧倒的に好きなのですが、上の条件であるならば、ピンクとブルーのスゥエーターを選ぶことが多い。黒あるいは濃紺のズボンにピンクのスゥエーターが定番のせいか、ゴルフ場のキャディ達にはすぐに見つかってしまう。「??さん、また池ポチャやったでしょう」。
 無駄口が多すぎました。今日は色の名前が付いたモスクの話である。クアラルンプール郊外にあるプトラ・モスク(Masjid Putra)とスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク (マレー語:Masjid Sultan Salahuddin Abdul Aziz)のことである。それぞれのモスクの色の特徴から、前者は「ピンク・モスク」、後者は「ブルー・モスク」と呼ばれているが、方向が違うので、二つのモスクを午前と午後に分けて訪ねることにした。

プトラ・モスク(ピンク・モスク)
 プトラ・モスク(Masjid Putra)のあるプトラジャヤ(Putrajaya)駅までは、K Lセントラル駅から電車(KLIAトランジット)に乗って行くことができる。ピンク系の花崗岩を使用していることから、「ピンク・モスク」と呼ばれている。女性は必ずローブ(着衣)を着なければならなく、男性も短パンの場合はローブを借りることが求められる。貸し出しは門を入って右手にあり、無料である。

プトラ・モスク(ピンク・モスク)の敷地内部から撮影した連邦政府庁舎 
プトラ・モスク内における禁止事項が表示してある
プトラ・モスク(ピンク・モスク)
モスクの内部
プトラ・モスク(ピンク・モスク)の敷地内部から撮影した連邦政府庁舎
ここまでプトラ・モスク

スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク(ブルー・モスク)
 スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク (マレー語:Masjid Sultan Salahuddin Abdul Aziz)は、マレーシア・スランゴール州の州都シャーアラムにある。青色をしていることから、通称、ブルー・モスクと呼ばれている。1988年3月に完成、最大収容人数24,000人のモスクは世界第4位の大きさと言われる。一見して分かる青い屋根が特徴で、高さ142.3メートルの4本のミナレット(尖塔)は特に目立つ。
 行き方は、急ぎたい方はKTM「Shah Alam」駅からタクシー(電車+タクシー)、KTM「Shah Alam」駅からバス(電車+バス)の利用、のんびり安いのがお好きな方はLRT「Pasar Seni」駅からバスでブルー・モスク近くのバス停まで所要時間約1時間、と選択肢がある。

ブルー・モスク
ブルー・モスク
ブルー・モスクと庭園

マスジット・ヌガラ(国立モスク)
 高さ73メートルのミナレットがそびえるマスジット・ヌガラは1963年に建てられた国立モスク。女性には入口でローブとスカーフを貸してくれる。

マスジット・ヌガラ(国立モスク)について説明したプレート


注記)以上のクアラルンプールに関する旅日記は、マレーシアの他の都市における旅日記と同様に2014年3月~4月に訪ねた際の記事であり、以下のクアラルンプールの旅日記は、2012年2月に訪ねた際の記事である。

ペトロナス・ツィンタワー
 1998年にクアラルンプールに完成した高さ452メートルの超高層ビル(ツインタワー)である。ペトロナスタワー(Petronas Twin tower)あるいはペトロナスタワーズとも呼ばれている。日本と韓国の合作で、タワー1(KLCC公園から見て左側)は日本のハザマ、タワー2(KLCC公園から見て右側)は韓国のサムスン物産の建設である。ご想像の通り、お互いの会社(国?)の威信をかけて、…、…、急ピッチで建設が続いた結果、41階を建設した段階で、…、。もちろん、この傾きは修正され、ビルは完成して、現在供用されていることはご存知の通りです。

空港から市内へ向かう時に最初に見えるペトロナス・ツィンタワー。タワーが傾いて見えるとしたら、写真の撮影技術のせいで、タワーの建設技術の結果ではありません
夜のペトロナス・ツィンタワー(加工済)
夜のペトロナス・ツィンタワー。高さ452メートル、88階。アメリカ人建築家シーザー・ペリー氏がイスラムの教えからイメージして設計した

ドレス・コード
 高さ452メートルのペトロナス・ツィンタワーの中にあるマレーシア交響楽団ホール(Petranas Philharmonic Orchestra Hall in Twin tower)で行われたマレーシア交響楽団(Malasia Philharmonic Orchestra)の演奏会に行ってきました。イスラムの国で、イスラムの交響楽団で初めて西洋のクラシック音楽を聴きました。日本から直接、支配人にメールをお出ししたところ、ご丁寧な返事と同時にチケットを当日ボックス・オフィスで受理できるなどの手配をしていただきました。ありがとうございました。
 近年の世界の傾向で、カジュアルな格好で演奏会場に出かけたのですが、入り口で足止めをされ、「スニーカーをホテルまで行って替えて来い。ドレスコードを読んでないのか」と強い口調で言われた。経過はともかくも、青い目をした上品なご婦人が「後ろの席にお座りになったら」と、とりなして事なきを得たが、…。という経緯から、演奏に関するコメントは無し。
 外国で出会うこの国の方々や大学生と話をしたイメージとは違う「原則絶対重視」の姿勢を旅のあちこちで感じます。大事なことなので、しっかり守って楽しく過ごしましょう。

参考までに原則重視の例
 郵便局から日本向け船便小包を出す時の注意事項。 ①送る中身を局員に見せる②日本で言う油紙のような紙を買って中身を包む③それを持って行った紐で包む④箱に入れて書いた書類と一緒に局員に出す。ここで、要注意。②の油紙は文房具屋で売っている所定のものを使う→荷物(中身)を最後に入れる箱も文房具屋で売っている所定のものを買って使う→…→。これらの作業(文房具屋へ行って買うことも含めて)、一度に言えっていうんだ。油紙を買うために、箱を買うために、…→私目は100メートル離れた文房具屋へ何度も雨の中を歩くのである。日本で育った私目は何と甘やかされているんでしょう?

雨の話が出たついでに
 雨の話が出たついでに、雷の音も徹底している話である。場所は依然クアラルンプールの市街地、季節は2月の夕刻、スコールと言うんだろうか、いきなり雨が降り出した。小さな子供では傘をさしていられないほどの強さである。道路排水もしっかりした場所であったが、排水が追い付かず、15分ほどでスニーカーはおろか、さらに10センチメートルほど水につかり、前が見えないほど雨が叩きつけてくる。そして、どぉ~んと強烈な雷がして、皆さんが悲鳴をあげる。本当に生きた心地がしない、…、ビルに逃げ込むとエレベーターが止まっていた。雷が落ちた場合への対処なのであろうか。雷までというか雷も徹底しているのである。

ツィンタワーのコンサート・ホールのロビー 
コンサートホールのボックスオフィス
スリ・マハ・マリアマン寺院。マレーシア最大のヒンズー寺院。1873年建立
スリ・マハ・マリアマン寺院
寺院上部のアップ画像
寺院の内部
マスジット・ジャメ・クアラルンプール。クアラ・ルンプールとはマレー語で「泥の川の合流地」という意味。クアラ・ルンプールにはゴンバック川とクラン川の2つの川があり、その川の合流地点に建っているモスクがマスジッド・ジャメ・クアラルンプール
連邦事務局ビル。現在は、最高裁判所、高等裁判所。ムーア様式のレンガ造りで、クアラルンプールのシンボルともなっている高さ40メートルの時計塔が目印 

                                            

ムルデカ広場の隣に建つ国立歴史博物館

マレーシア・マラッカ

今日はマラッカから
 私は、現在、中国の昆明にいる。昨日、中国雲南省シャングリラから戻り、ここに1泊して明日、シンガポールシャンギ空港Singapore Changi Intl Apへ移動の予定である。私はこの昆明の街が好きで、特別に目的もなく、ブラブラするのが楽しいのである。気候のせいもあって穏やかなのである。私のような旅人も結構多く、お互いに旅の話をしたり、世間話をしては時間をつぶしているのである。
 今日のお話は、(私が勝手に名付けた)「路上マッサージ」である。道路脇に並べた椅子にお客さんに座ってもらって、目の不自由なマッサージ師がカセットテープで音楽をサービスしながらマッサージを施すのである。ところが私が想定していたことと「違った」。何が、どこが「違うのか」、お分かりになりますか?きっかり15分の時間がなぜ全盲のマッサージ師に分かるのか?以前、私達が開発した特殊な材料とセンサー技術を使って視覚障害者の誘導技術の共同研究をN社と行なったことがある。その時、研究に参加された全盲の視覚障害者さん達が、カヴァの無い針のむき出しになった腕時計を使って針に触って時間を認識していらっしゃるのを覚えているが、ここは時計は使いません。もう、お分りですね?お分かりにならない方は、余程深く科学する方だと思います!そうです、15分間の音楽を流していたんですね。もうひとつ。料金のコインはともかくもお札(さつ)がどうして分かるのか、未だに分かりません。
 肩のコリが楽になった所で、明日以降の旅行日程である。目的地はシンガポールではなく、マレーシア国内の旅行である。空港からMRT(電車)でジョホール・バル(JB)へ移動し、ちょっとブラブラして、旅のスタートはマラッカからである。ジョホール・バルへの移動中に何かと面倒を見てくれたおばさんに、マレーシアで一番交換率の良いのは街の両替商であることを教えられたので、それに従った。RM1(マレーシァン・リンギット)=¥31であった。このハリキリ親切おばさん、「アルコール飲料は高い。ビールは低課税なのでビールを飲め」とも教えてくれた。その迫力に思わず、「ハィっ」と言ってしまった。

路上マッサージ。15分で20元
路上マッサージ。白衣を着た方達がマッサージ師である
ジョホール・バルからマラッカへのバスチケット
豪華バスの内部

オランダ広場付近
 あちこち寄り道しすぎたので、今日は、いきなりマレーシアのマラッカである。マラッカのバスステーション、マラッカ・セントラルMelaka Sentralは、町の中心から2.5キロメートルほど北にある。中心部へはローカルバス17番に乗車、バングアン・メラBanguan Merahで下車すると、オランダ広場Dutch Squareが目の前にある。この広場はマラッカ川に架かる橋の目の前に位置する広場である。まさに、マラッカの市街中心部にあり、濃いピンク色のスタダイスStadthuys、ムラカ・キリスト教会Christ Church Melake、時計台など、オランダ統治時代の建物が建ち並ぶ。
 予約しておいたホテルのチェックインを済ませ、シャワーを浴びた後、早速、ブラブラ開始である。

オランダ広場
オランダ広場から海の博物館方面へ行った所にある水車
マラッカクルーズを楽しむ観光客
オランダ広場。右側のマラッカ・クライストチャーチChrist Church Melakaが目立つ
マラッカクルーズを楽しむ観光客
海の博物館 Maritime Museum
海の博物館。巨大な木造船
博物館内部
マラッカ川沿いは観て良し、歩いて良し、船に乗って良し、一人で良し、二人で良し
派手に飾って売り歩く
マラッカとイスラム教の歴史を知るムラカ・イスラム博物館Melaka Islamic Museum。刺繍の入った布や装飾品などを並べた狭い展示室が1つある博物館で、2008年に世界文化遺産に登録された
マラッカ郵便博物館
1912年に建設された独立宣言記念館。マレーシアが独立に至るエピソード、絵画などが展示されている
地元では「ファモサ」と呼ばれるサンチャゴ砦 Porta de Santiago。1511年に対オランダ戦に備えてポルトガル軍によって建設された砦跡である。大砲も備えているせいか、スタイダスに次ぐ人気がある
フランシスコ・ザビエルとセント・ポール教会St. Paul’s Church。ザビエルはここに居を構えた時期があり、1549年にはこの地から日本に向けて出発した
セントポールの丘(St. Paul’s Hill)に建てられたDemocratic Government Museum
マラッカキリスト教会内部
ジョンカー通り
ジョンカー通り
チャイナタウンのジョンカーストリートにある福建會舘&お寺。福建省の歴史等の紹介や海の神様である媽祖を祀る場でもある
ジョンカー街公園

チャイナタウン
 オランダ広場の北西にある橋を渡ると立派な邸宅が並ぶ。マラッカの中心であり、15~19世紀に「ババ・ニョニャThe Baba Nyonya Heritage」あるいは「プラナカンPeranakan(海峡華人)」文化が隆盛を極めた地域である。文献によると、ババ・ニョニャとは中国本土から渡ってきた中国人男性と、地元のマレー系女性が結婚して生まれた子孫のうち、男性がババ、女性がニョニャと呼ばれる。彼らは日常的な生活、例えば、言葉、食文化、衣服などにマレースタイルを取り入れる。他方では、冠婚葬祭には中国古来の習慣に従うのである。つまり、彼らはマレー人としてイスラム教徒になることは無く、マレー文化を取り入れた中国人(華人)なのである。
 トゥン・タン・チェン・ロック通りJl. Tun Tan Cheng lockとハン・ジュバッ通りJl. Hang Jebatと呼ばれる2つの目抜き通りをまたぐように建てられた長さ50メートル~60メートルの長屋風の邸宅が並んでいる。交易で富を築いたババ・ニョニャ達の邸宅である。

露天商が続く
チェン・フン・テン寺院の並びに建つ1728年に建てられたカンポン・クリン・モスク Kampong Kling’s Mosque。スマトラ様式の3層の屋根を持つ。左側に見える白亜のミナレットはパゴダに似ている
阿弥陀仏をご本尊として祀った香林寺。1988年にマラッカのチャイナタウンのハーモニー通りに建っている
1728年に建てられたマレーシア最古のイスラム寺院
船からサン・フランシスコ・ザビエル教会 St. Francis Xavier’sChurchを撮影。この教会の名前はザビエルだが、サン・フランシスコ・ザビエルとは関係ない。ザビエルが居たのは丘の上にあるセント・ポール教会である
サン・フランシスコ・ザビエル教会 St. Francis Xavier’sChurch。1849年にフランス人によって建てられた二つの塔を持つ教会
教会内部
サン・フランシスコ・ザビエルSt. Francis XavierとやじろうYajiroの像

マラッカ市街東部
 マラッカ市街東部に位置する「ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸」、「セント・ジョンの砦」「ポルトガル村」などを訪ねる。

ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸
 1795年に建てられたポー・サン・テン寺院 Poh San Teng Temple。1409年と1411年の明王朝皇帝からの使節派遣を記念して造られた寺院である。この寺を多くの観光客が訪ねる目的は、『スルタンの井戸Sultan’s Well』を見るためである。「干ばつでも水が枯れなかったことからパワースポットとなっている」とのことである。でも、なかなか見つけられず、近くでペッポトルの水を売っていたおじさんとおばさんは、にこにこである。「ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸」を一対の言葉として覚えていて、寺院の門をくぐる度に迷ってしまうのである。門から入らずに広場側(右手)に進むと、塀に囲まれた中央に『スルタンの井戸』があります。この水は飲めません。ということは、「干ばつでも水が枯れないパワースポット」ではなく、「飲み水を必ず入手できるパワースポット」なのである。オランダ広場から徒歩15分くらいと、ちょうど水が欲しくなる距離ですよね。
 もう一つ。この井戸に背を向けて投げ込んだコインが輝きながら沈んでいくと、またマラッカを訪れることができるそうだ。

1409年と1411年の明王朝皇帝からの使節派遣を記念して1795年に建てられたポー・サン・テン寺院Poh San Teng Temple。この入口から入ってもスルタンの井戸には辿りつけない
「スルタンの井戸」。マラッカで一番古い井戸
スルタンの井戸
セント・ジョンの砦
セント・ジョンの砦から眺めたマラッカの町
同じく、砦から眺めたマラッカの町
ここまでセント・ジョンの砦

ポルトガル村
 かつてこの地を支配していたポルトガル人の子孫が「ポルトガル村Portuguese Settlement」と呼ばれて暮らしている地域(ポルトガル・スクエア)がある。その多くはポルトガル名を持つカトリック教徒だそうだ。私が訪ねた時期は季節外れなのか人の出入りが少なかったが、毎年6月下旬に行われる「サンペドロ祭」では、盛大なシーフード祭りが行われるそうである。

ポルトガル村の入口には、「ポルトガル村へようこそ」の大きな看板が建てられている
ポルトガル村の入口には、「ポルトガル村へようこそ」の大きな看板が建てられている
地元の漁民が漁に出かける磯船
貝を採るおばさん
採集した貝の身

ミャンマー・マンダレーヒル

マンダレーヒル
 今日は朝からマンダレーヒルを散歩する。標高236メートルのマンダレーヒルは丘(Hill)全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地である。個人的にはビルマ(ミャンマー)に来たからには一度は訪れてみたい場所だったのである。
 インターネットなど無い時代、某協会誌にエッセィを書き、その一部を改めて本ブログの中で、“方向音痴の旅日記『タイトル:ミャンマー・インレー湖 イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋)』”として数カ月前に上梓した。その中に登場する”第2次世界大戦で日本軍と戦ったビルマ軍(英国軍)“とは、実はこの地における戦いのことなのである。愉快なことではないが一度は訪れてみたい場所だったのである。
 マンダレーヒルの表参道入口を守る2頭の真っ白いライオン「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung」までピックアップをチャーターして向かう。チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung は、第2次世界大戦中、日本軍占領下のビルマ北部に降下し、日本軍を苦しめた英国軍部隊チンディッツの名称はこのチンテーからとられたのである。「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung とは、「チンテー」がライオン、「ヂー」は大きい、「ナッカウン」はふたつのという意味である。

マンダレーヒル4つの登り口のうち最も一般的な南参道
チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung
マンダレーヒル登り口にあるナッツ神の 1つチンテーヂーナッカウン。白いライオンに似ている
チェードーヤ・パヤーChedawya Paya。南参道を上ると最初の踊り場にある仏塔。仏足石(釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの)を祀っている
ピーロンチャンター・パヤーPyilone Chamtha Paya。4体の仏像が並んでいる休憩所。マンダレーが栄えるようにと願いを込められた仏像
ピーロンチャンター・パヤーの次の踊り場にあるサイッタモー・パヤーSeaitamau Paya。急な階段前の小休止の意味
ビャーデイペー・パヤーByadaikpay Paya。「予言を与え給う仏陀」像。旧王宮の方向を指さしている。金箔で覆いつくされた仏像はチーク材を彫ったもの。高さ8メートル
日本人慰霊碑Japanese War Memorial。日本のみならず、戦った敵方の戦没者も慰霊している
慰霊碑の裏側
数珠(じゅず)を作っている職人
サンダームキ・パヤーSan Dha Mukhi(鬼の仏塔)の像。お布施するものが何もないことに悩んだ末、自分の乳房を仏陀に献上したサンダームキ(鬼)に対して、仏陀はマンダレーの方向を指差し、「お前は来世では王になり、そこに街を造るであろう」と予言し、その通りになったという
頂上のスタウンピー・パヤーSutaungpyai Paya。サンダームキ・パヤーから階段を上ると、ついに頂上。周りは展望テラスになっていて、マンダレー市街、エーヤワディ川、旧王宮などを見渡すことができる
机に座っているのは占い師(有料)
階段を上って上から撮った仏塔
ムイヂーナッカウンMwe Gyi Nakaun。展望台を奥に進んで、下り階段の近くに2匹の大きなコブラの像がある。ムイは蛇、ヂーは大きい、ナッカウンは二つのという意味。コブラの像を見た瞬間はドキッとしたが、皆さんに人気があってカメラが忙しい
クドードォ・パヤーKuthodaw Paya。バガンのシュエズィーゴォン・パヤを模倣して建てられたものである。境内を埋めた729の小仏塔群が有名である
サンダムニ・パヤーSanda Muni Paya。ミンドン王がクドードォ・パヤー王宮を造営の間、西隣にあるこの仏塔に仮の王宮を置いていた。この境内にも1774の小仏塔が林立している
サンダムニ・パヤー境内にも1774の小仏塔が林立している。真っ白いこの仏塔の色を維持するために、ご夫婦と一緒に相当に荒っぽいペンキ塗りを1時間も頑張った
ペンキ塗りの道具
もっと繊細な刷毛を使っているかと思いきや、この箒の様な刷毛を使ってさっさと塗っていく
チャウットーヂー・パヤーKyauk Taw Gyee Paya。マンダレーヒルの麓にある本堂の石仏は、サジン山で採られた大理石の1枚岩から彫られたもので、素肌は金箔ではなく大理石がむき出しである。仏像は1865年にミンドン王(在位1853~1878年)によって開眼された
チャウトーヂー・パヤー(大理石の仏像)の正面から撮った写真
アトウマシー僧院Atumashi Kyaung。第2次世界大戦で破壊された後、1995年にコンクリートで再現された
アトウマシー僧院。「内部は特に見るべきものは無い」とガイドブックに書かれていた
どこの方々でしょう?何故かさっと整列して写真を撮れという。真ん中の女の子を除いて全員がこれだけ整然と並ぶのは結構難しいと思う。「せ~の」とでも言ったのだろうか?
チーク材で作られた木造建築のシュエナンドー僧院 Shwenandaw Kyaung。建物の屋根、外壁、内側や入口の周囲は彫刻で装飾されている。かつては、この建物は王宮の一角にあり、ここを気に入ったミンドン王はその第一夫人としばしば過ごし、また、ここで亡くなった
ガイドブックによると、ミンドン王を継いだティーボー王(在位1878~1885年)は建物を現在の場所に移動し、そこで一人の時間を過ごしたと言う。後に僧院として使われ、現在に至っている
再現された旧王宮
旧王宮と庭
旧王宮内部
王宮博物館
博物館に展示された馬車
ここまで王宮博物館
シュエチミン・パヤーSywe Kyimin Paya。パガン王朝時代に建てられたマンダレー最古の寺院。創建者ミンシンソーが奉納した仏像や英国が占領時代に持ち出していた宝物類など、胸がドキドキする歴史的文化財が所蔵されているそうだが、4月のティンジャン(水かけ祭り)と10月の満月の日の2回だけ公開されているそうだ。残念無念
最後にもう一度、シュエチミン・パヤー

ミャンマー・マンダレー

インレー湖からマンダレーへ
 旅行好きの方は、熱狂的な「市場好き(マーケット好き)」がいらっしゃることを御存知でしょう。インレー湖でも、この市場好きに出会った。インレー湖の市場は、毎日主要市場を時間割のように公開するほど徹底している。私が出会ったフランス人の青年は世界中の市場を廻り歩くほど市場に凝っていて、希望の場所に行くには船をチャーターすると安くなるので、私を誘ってきた。私の今後の旅のスケジュールからして、今日中にインレー湖を出て2日以内にニャウンシュエNyaungshweに入り、その後「マンダレー」に入る必要があったので、お断りしたのだが、彼の知識は膨大かつ正確で、結局、明日、ニャウンシュエの市場に行こうと言うことになった。気持ちの良い奴だったので、それに私自身もニャウンシュエの市場に行く予定だったので、笑顔で握手をした。

ニャウンシュエの市場
 マーケット好きのフレンチ・ボーイのお勧めだけあった。ニャウンシュエの市場は質量ともに盛況であった。

マーケットの入口の焼き物屋さん
量り売りの野菜売り場
ニャゥンシュエNyaung Shweのマーケット
野菜屋さん
魚屋さん
兄弟でお店番
果物屋さん
炭。炭焼きを趣味とする私から見ると上質ではなかったが、材料とする木の質から見るとあんなものか
市場を抜け出して、街のはずれに移動した。観光客相手のアウンパペット劇場は、現在閉幕中であったが、特別に中に入れてもらった
パペットショーに使う吊り人形たちもお休み中である

強行軍
 実は、今夜は夜行バスでマンダレーへ移動する強行軍で、その後マンダレー周辺、具体的にはアマラプラAmarapura、ザガインSagain、インワInwaなどをブラブラする予定である。冷えた飲み水はバスの中に備蓄されており、途中数時間置きにトイレットタイムもとられている。夜遅くまではTV番組が放送されていたが、言葉が分からないのと眠気でほとんど眠っていた。
 マンダレー周辺の都市であるが、権力基盤が弱いため18~19世紀に渡って幾度か遷都が繰り返された。現在ではタウン・ミョー(=南の町)と別称されるアマラプラAmarapuraもその一つで、何度か遷都を繰り返す対象となったことから、パーリ語で「不死の町」と呼ばれている。
 アマラプラへ向かう途中で面白かったのは、朝の9時半頃であるが、バスの中でお坊さんが托鉢を始めたことである。私の旅行中の常食であるキビダンゴを差し上げたところ。とても喜んでいた。お寺へ戻ってから食べてもらえそうだ。この時間ともなると皆さん、動き始めて、バスの中のビデオサービスが始まったり、停車の度にバスの中へ物売り入ってきたりと忙しくなった。

バスの中で托鉢するお坊さん
アマラプラへ向かう路線バスの中のビデオサービス
バスの中へ入ってくる子供の物売り

こんな楽しい所とは思わなかった
 そうこうしているうちに、アマラプラに到着した。バスを降りてびっくり。こんな楽しい所とは思わなかった

アマラプラの露店
賑やかな市場
これは何でしょう?質問してもおじさんには言葉が通じないし…
こんなしゃれた店もありました。Fashion shop PARIS
ドジな奴で、横を向いたとたん、くわえタバコの火でパ-ン
食べ過ぎてお腹がごろごろしてしまった。本当に美味い
托鉢です

もっと楽しい所がありました
 全く知らない橋であった。市場から人の流れに何となくついて行っただけで、ウー・ベイン橋U-Bein Bridgeに出会ってしまった。ミャンマーのマンダレー付近の都市、南の町と別称されるアマラプラについては既に説明した。アマラプラにあるタウンタマン湖をまたぐ橋が今回の旅の主人公である。名前は、「ウー・ベイン橋U-Bein Bridge」である。変わった形状に見とれてスケッチをしていると、若者から「橋が好きですか」と流暢な英語で話しかけられた。あいまいな返事を返すと、「日本人ですか?私達は大学で土木を学んでいます」と笑顔で返された。以下は、学生諸君から教わった講義ノート?からいただいたデータである。
 1849年当時、行政官ウー・ベインが以前の王都であったインワの旧王宮からアマラプラに遷都する際にチーク材を運びウー・ベイン橋(U Bein bridge)を架設した。全長1200メートルにのぼる世界一長い木造歩道橋である。完成から160年以上も経た現在も現役の橋として利用されている。
 私のカメラの写真を見ると、午前の10時30分頃であったが、学生達の話だとここは夕陽の名所として知られ、「夕方の観光スポットは是非、見て下さい」と勧められた。「ありがとう」。

ウー・ベイン橋へ向かう途中、一緒になった大学生二人。橋の勉強に来ていた土木を学ぶ大学生でした
1849年当時、行政官ウー・ベインが以前の王都であったインワの旧王宮から都をアマラプラに遷都する際にチーク材を運び、タウンタマン湖にかかるウー・ベイン橋(U Bein bridge)を架けた。全長約1200メートル
ウー・ベイン橋を渡る
橋の中ほどにある休憩所(「温かくお迎えします&お気を付けください」のプレート)
部材の一部
橋のピラー(支柱)の番号
支柱番号が貼ってあった部材
橋を渡り切った所に私の大好きな天然ジュースの店。右側に青く見えるのがジュース絞り器である
Shin Pin Shwe Gu Pagoda。仏教寺院
パゴダの修理をする職人
黄金の仏像
ここは、毎年5月に何千人もの地元の人々が金箔を提供するシュエ・グー・ニ・フェスティバルShwe Gu Ni festivalの会場であった
橋の下部工を写す

ザガインからバイクタクシーでザガインヒルへ
 ザガインでバイクタクシーを200円くらいでチャーターしてザガインヒルへ行く。ザガインヒルには150以上の仏塔と600を超す僧院が点在。バガン王朝が滅亡した1315年に王都になったが、50年後にインワに遷都される

ザガインでバイクタクシーを約200円でチャーターしてザガインヒルへ行くことができた
寺 院
サンウーポンニャーシン・パヤーの仏陀像
サガインヒルの頂上にある黄金の仏塔
“サンウーポンニャーシン・パヤー”から眺めたエーヤワディ川
ザガイン国際仏教徒アカデミー
マンダレーに戻って市内散歩をした時に見つけたマンダレーの時計塔