北インド・ワラーナシーとサールナート

ワラーナシー
 インド独立後のこの都市の正式名称は「ヴァーラーナスィー(Varanasi)」である。町の北側をワルナー川(Varuna)、南側をアッスィー(Assi)に挟まれていることに由来(Varuna + assi)している。他方、日本の旅行案内書で表記される「ワラーナシー」の方が現地でも通じやすいことを考えて、ここではワラーナシーで通したい。また、日本では、ガンジス河(Ganges、英語名)と呼ばれている河も、こちらで使われているガンガー(Ganga)で通したい。
 私は何度かワラーナシーを訪問しているが、どこの旅先でも最初の訪問で感じた印象が心に残るであろう。私の最初の訪問は2008年12月だったので、その時のメモを参考に印象を記したい。新しく訪問した地域については、後日ご紹介したい。
 デリーからワラーナシー市のババトプル空港へ飛んだのはいいが、ここから市内まではシャトルバスが無く財布を抑えて迷っていると、こういう時に必ず現れるお助けマンというか調整役がここでも現れた。迷っている旅行者を数人集めてタクシーと交渉してくれた。このお助けマンは徹底していて、空港の出口から1キロメートルくらいの所までタクシーで行き、そこからローカルバスで市内へ向かった。途中、旅の色々な情報は集まるし、安くはなるし、言葉の勉強にもなる。迷っていた旅人3人は相談して、お助けマンの料金分をシェアして気持ちよく支払った。「ありがとう」。
 話には聞いていたのだが、この町には日本人旅行者が多い。私が泊ったホテルで隣の部屋に住んでいた?40代の男性にご登場願おう。彼は会社を数年前に辞めワラーナシーの隣町である「サールナート」に1年間滞在し(彼は修業とは言わなかった)、その後ワラーナシーに来て1年経ったそうだ。一食30円のカレーもどきで命を繋いでいるそうだが、彼がガンガーに向かって祈る写真が掲載されている地元紙を私に見せて、「いつも作務衣を着ているので坊さんと間違われて困っているよ」と話をしていた。4日間滞在したワラーナシーで色々と助けてもらった。

ガート
 日本のTV番組などでインドのガンガーが写し出されると必ず出てくるのが、ガート(Ghat)と呼ばれる川沿いに作られた階段状の堤であろう。沐浴やヒンドゥー教徒の火葬場になっているスペースであり、ここを訪れる巡礼者の聖地である。ガイドブックによると、ワラーナシーには84のガートがあり、それぞれに名前が付けられている。有名なものとして、北からワルナーサンガム、パンチガンガー、マニカルニカー、ダシャーシュワメード、アッスィーがある。これらのガートに続く道端には、バクシーシと呼ばれる喜捨を求める人々が多い。私が「バクシーシ」を知ったのは、1996年にモロッコを訪れた時であるが、「裕福な者は、貧しいものに施しなさい」という、イスラムの教えだそうだが、一部に「貧しいものが、お金持ちから金品をもらうのは当たり前」という考えを強調する人達もいるそうだ。
 もっとも人気のあるガートは、ダシャーシュワメード・カートである。解説書によると、ダシャは10、アシュワメードは古代インドで王位継承時などに行われた特別な儀式のことだそうだ。神話や伝承の域を出ないが、創造神ブラフマーがここでその儀式を行ったとか、紀元2世紀頃の王族達が行った、という話が伝わっている。

ガート(GHAT沐浴場 No.41)
ダシャーシュワメード・ガート近くにある給水塔
ガンガーに向かってお供え物をする
河の流れで増水しても沐浴ができる階段状のガート、ケダールガート
ケダールガートの上部のアップ写真
バクシーシ(喜捨)を求める人々
バクシーシ(喜捨)を求める人々

沐浴に挑戦したが
 さて、3000年以上の歴史を持つヒンドゥー教の聖地、シヴァ神の聖都であるワラーナシーを語るには、ガンガーの沐浴について語らなければなるまい。現地の人々?あるいは旅行者らしき人々が下着1枚あるいは衣服を付けたままガンガーで沐浴をしている。私もズボンのすそをあげて試みたが、水の色や浮遊物を見てさすがに尻込みしてしまった。科学的な根拠ではなく、いわゆる見た目できれいとはとても言い難く…。口に含んでうがいをすれと言われると、「勘弁してほしい」。何となく、足がかゆくなってきた。
 何かの本にジョークのように書いてあったが、「コレラ菌もガンガーの細菌には勝てず、したがってガンガーの水は科学的には意外ときれいなのだ」…そうだ?何となく説得力があるように聞こえるが、責任は持てない。この種の論理展開、よく使う方がいらっしゃいますよね。気を付けてくださいね。

ガンガーに向かって朝のお祈りをする僧侶
日の出前のガンガーで沐浴をする人々
朝の沐浴をする人々
朝の沐浴をする人々
早朝のガートの風景
ガンガー側からガートやお祈りをしている人々をカメラに収めるために船に乗る観光客
朝早く沐浴をする人達が利用する屋台
ガンガーに供える花を売っている
ガンガーでの釣り
こんな魚が釣れている。これ自体はきれいに見えるが、ガンガーを見ると。食べるには、ちょっと…
ダシャーシュワメード・ガートを陸の方に向かって(川から離れるように)歩くと、このような通りが待っている
後日、空港へ向かう途中に社内から撮った大きい通り(空港までのタクシー料金;Rs600)

火葬場
 マニカルニカー・ガートとハリシュチャンドラ・ガートには火葬場がある。私はお世話になっている作務衣坊さんに連れられて前者を見たのだが、ここに運ばれてきた死者の耳に「ターラカ・マントラ(救済の真言)」をシヴァ神が囁くことによって死者は解脱できるそうである。ガンガーに浸された死者は薪の上に載せられ、喪主が火を付け、遺灰はドーム・カーストの人達によってガンガーに流される仕組みである。「ドーム」とは、火葬をする人のことを言う。ドーム・カースト以外の人々は手出しをしてはいけないし、また写真を撮ることなど絶対に禁止である。カメラを持っているだけで厳しく問いただされるので、ディバックなどに厳重に保管されることをお勧めします。
 作務衣坊さんの話だと、子供と出家遊行者は荼毘に付されずに石の重しを付けられて河の奥深くに沈められるそうである。前者はまだ十分に人生経験をしていない、後者は既に人生を超越していることが、その理由だそうである。
 帰りに近くのおもちゃ屋で直径3センチメートルほどの封印した鉄板製の容器を買い求めた。この容器の中にはガンガーの水が入れられており、「お墓に備えると良い」ということで100円だったが、買い求めた。しかし、帰国した頃には中の水は蒸発してしまっていた。それよりも何よりも、ヒンドゥー教徒は墓を持たないそうだ。「やられた」。(皮肉ではなく)さすがはインド人、100円でこんなにも遊ばせてくれたし、この原稿200字分を稼がせてくれた。

24時間、火葬の煙が消えないマニカルニカー・ガートを遠くから見た

プージャー
 プージャー(礼拝)は、ガンガーに向けて毎晩日没後に行われるガンガーの一日の終わりの儀式である。礼拝僧が河に花を浮かべ燭台に無数の蝋燭を掲げて祈る。ドラ、太鼓が鳴り響く中で祈祷の儀式が行われるド迫力の宗教行事である。ガンガーで始まり、ガンガーで終わるヒンドゥー聖地の一日の締めくくりで、すごい人ごみと熱気の、誤解を恐れずに言えば、一種のショーと言うか、エンターティンメントと言っても良いであろう。

ダシャーシュエアメード・ガートで行われるプージャー
船に乗ってプージャーを写す
ガンガーに向かって祈る僧達
水面に浮かぶ蝋燭

サールナート
 ワラーナシーの北東約10キロメートルのサールナートへはオートリクシャーで片道40分くらい、往復を予約できる。相当以前から『仏教における重要な仏跡』を訪ねたいと思っていたので、「ついに…」である。ここで『重要な仏跡』とは、仏陀生誕の地(ネパールの)「ルンビニ」、成道の地「ブッダガヤ」、初転法輪の地「サールナート」、涅槃の地「クシナガル」、ブッダ教団の地「ラジギール」、仏典結集が行なわれた「ヴァイシャリ」、仏教大学が栄えた「ナーランダ」などである。今回は「サールナート」を訪ねる。
 仏陀は、当初は自らの悟りを他の人々に説法することは考えていなかったと言われる。ブッダ・ガヤで悟りを開いた仏陀は、その気持ちを翻意して伝道の旅に出た先はバラモン教修行者の聖地、サールナートであり、ここの鹿が多く住む林の中で昔のバラモン教修行中の5人の仲間と再会、彼らに説法をしたのが始まりである。初転法輪の故地と言われる所以である。彼らはこの説法によって、仏陀の教えに帰依することとなり、ここに仏(悟った人・仏陀)、法(仏陀の教え)、僧(仏陀の教えに救われ、実践する仲間)という『三宝』が初めて揃い、仏教教団が成立することとなった。現在はインド政府の管理の元に遺跡公園になっている。その周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館(英語版)に収蔵されている。残念ながら、ここは撮影禁止であり、したがって、皆さんにお見せできない。

スリランカのマハーボーディソサイエティ(大菩提会)が1931年に建てたサールナートのムーラガンダ・クティー寺院(根本香堂。釈尊の遺骨が納められている)。仏教寺院の内部は簡素な構造で、たくさんの壁画が描かれていた
鹿公園入口
初転法輪の地を記念して、6世紀にアショーカ王によって建てられたサールナートのダメーク・ストゥーパ(仏塔)。広い公園の中にあっても、高さ約 43.6メートル、直径約 2.8メートルの大きさは目立つ
野外学習とでもいうのだろうか
ダメーク・ストゥーパの外側に東南アジアから訪れる巡礼者によって付けられた金箔が残っている
アショカピラー
折れているアショカピラー
おばさん達も一休み
通りの絵描き(サールナート)
移動式の路上マーケット
移動式の路上マーケット
移動式の路上屋台

北インド・アーグラー市内

アーグラー市内をブラブラ
 昨日は、タージ・マハル、今日はアーグラー城や市内のブラブラである。朝8時頃、皆さん、行動開始だ。おじさんの日課だろうか?道路掃除である。市内牧場?に放牧されている牛さんも散歩、リクシャー(英語でRickshaw)も動き始めている。リクシャーとは、戦前に日本から輸入され広まった「人力車」からきている名前で、正確に言えばサイクルリクシャーである。ちょっとした遠出にはエンジンのついたオートリクシャーが一般的である。
 ロバは、いつでも、どこでも重労働。私も含めて、多くの日本人は可哀そうだと思うようだ。

朝の掃除。ちょっと風が吹くとゴミが飛んでしまって、このおじさん、何度も同じ動作を繰り返している。朝の体操と思えばよい
ここアーグラーでも市内牧場に牛の放牧がされている
ロバはいつでも、どこでも重労働

 タージ・マハルからヤムナー河に沿って3キロメートルほど北上すると、アクバル帝によって1565年に構築された赤砂岩の『アーグラー城』が大きな姿を見せる。南側にあるアマル・スィン門が入口で、多くの人々がカメラを取り出し、今日の1枚目がスタートする。

赤砂岩で築かれたアーグラー城の威容
濠を渡ってアーグラー城に入場する
ムガル朝の第3代皇帝アクバル帝が息子と后のために建てたジャハンギール宮殿
浴槽(ロイヤル・ハンマーム)
ジャハンギール宮殿内部
1648年にムガル帝国の帝シャー・ジャハーンによって建設されたモスク、ジャマー・マスジット。赤砂岩で造られたこの礼拝堂はインドで最大のものとも言われている
遠くに霞むタージ・マハル
ヤムナー河の方角から見たムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)。第5代皇帝シャー・ジャハーンが息子アウラングゼーブによって 幽閉された場所である
ゴルデノルーフ
ジャハンギールの王座
モスク
ヤムナー河の対岸にあるイティマド・ウッダゥラー廟
正門は赤い石で造られ白い大理石が嵌め込まれている
1613年にアクバル帝のために、息子のジャハーンギールが建てた墓所、スィカンドラー

 

正面から写したスィカンドラー
スィカンドラーの内部
スィカンドラーの天井
美の要素が凝縮され、そしてカリグラフィーが美しい
ヤムナー河の対岸にあるムガル時代のイティマド・ウッダゥラー廟。白大理石の透かし彫り技法は、のちにタージ・マハルに継承され、地元の人からは“ベビータージ ”とも呼ばれている
博物館を訪ねたが、工事中のために閉館。女性達が働いていたが、労賃は1日100円と聞いた

北インド・アーグラー郊外

アーグラーへ向かう途中の風景
 アーグラーはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市で、世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラー城塞があることで知られる。車のチャーターなので移動の自由度が高く、また建設中の道路を見たいので、ジャイプルのビルラー寺院を見学した後、一気にアーグラーへ向かう。日本国がかつて発展途上にあった時代の国土造成の景色が次から次と現われ、懐かしく、そして興奮する。日本でもかつて一部の地域であったらしいが、牛糞を道路脇に集めて乾燥し、それを燃料として燃やして使う、ある意味で合理的であり、またサステイナブル(sustainable)な方法に改めて感心する。牛の多いこの国では清掃も兼ねる道路管理であると言えば、冗談がきついだろうか。子供達が牛糞を奪い合う姿は、なにか微笑ましいが、その陰に厳しい経済環境ががあることも忘れてはならない。

アーグラーへ向かう。道路工事中
Rape blossoms(ナタネ菜)
牛の糞(燃料)
高速道路のトールゲートを建設中
ラージャスターン州(州都はジャイプール)とウッタル・プラデーシュ州(州都はラクナウ)の境界
ウッタル・プラデーシュ州(UP州)から振り返って写す

ファテーブル・スィークリー
 個人的にイスラーム文化が大好きで、色々な国のイスラーム建築を見てきたが、建設中のそれを見たのは1997年5月にイランの首都テヘランを訪ねた時である。テヘランで開催された「土木工学に関する国際会議」に出席した折、会議の議長の特別の計らいによって、新しく建設中の『イマーム・ホメイニ聖廟』の建設現場を個人的に見学する機会を得た。セメントコンクリートでドームの構造部分を造り、その上をタイルで装飾する手際は見事としか言いようが無かった。インド旅行編の中でイランのイスラーム建築を出したのは、イスラーム建築の特徴であるアーチやドームを多用する例を見ていただきたいためである。それに対して、これから御紹介するインドの『ファテープル・スィークリー』では、屋根や庇などの木組みを石で表現したような造りに特徴が見られるからである。同行してくれた建築を専攻する大学院生の話だと、インド古来の建築様式や技法を反映しているのだという。
 ファテープル・シークリーとは「勝利の都市」を意味する。ムガル帝国 (1526〜1858年)の第3代皇帝であるアクバル帝は、世継ぎに恵まれなかったが、聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言によって男子を得たことから、1571年にこの地に首都を移転し、その後5年をかけて都を建設した。しかし、水不足で14年後には移転を余儀なくされ、赤砂岩で築いた宮廷やモスクはわずか14年間(1574~1588年)しか使われなかった。逆説的な言い方をすれば、短期間しか使用されなかったため、建築物は痛まないで残っているとも言えよう。1986年に世界遺産に登録された。

モスク地区
 ファテーブル・スィークリーの遺跡はモスク地区と宮廷地区に分けられている。先ず、モスク地区を巡る。アクバル帝が1573年にグジャラート地方を征服した記念に丘の上に建立した高さ54メートルの巨大なブランド・ダルワーザ(勝利門)に向かう。赤砂岩に白大理石の象眼を施したムガル建築の最高傑作と言われる。
 門を通って中に入ると、四方を囲まれた大きな中庭になっており、左側にインド最大級の面責を誇るジャミー・マスジット(金曜モスク)がある。ここのモスクには、アクバルが息子を授かると予言した聖者シェーク・サリーム・チシュティーなどの廟(ダルガー)が祀られていることから「ダルガー・モスク」という呼び名もある。
 勝利門を入って左側にあるのは「ダルガー・モスク」であるが、真正面に二つの廟がある。二つのうちの左側にあるのはアクバル帝が息子を授かると予言したサリーム・チシュティーの墓である。そして、右側にあるのは聖職者や聖者が講話などを行う建物(ジャマート・カーナ)であったが、サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されたために「イスラーム・カーン」の名で呼ばれている。建物の中やその周辺には沢山の墓石がある。

イランのテヘランに建設中のイマーム・ホメイニ聖廟(1997年テヘランにて撮影)。写真の右側は、まだ施工中の建築物である
イスラーム・カーン廟。サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されている
サリーム・チシュティー廟(1580年、1606年)。最初は赤砂岩と大理石で造られたが、後に全てを白大理石に置き換えられた
モスク地区のジャミー・マスジット(金曜モスク)
モスク地区のブランド・ダルワーザ(勝利門)。高さ54メートルの巨大な門である
水は貴重である

宮廷地区
 宮廷地区で目立つ建物は、列柱に支えられた階段状の5層の吹き抜けからなる『パンチ・マハル(5層閣)』である。下層の柱の形状が一つひとつ異なっている。解説書によると、建物前の中庭には十字形に方眼が刻まれており、ハーレムの女性達をチェスの駒に見立てて、それを王が上から眺めたそうである。
 もう一つ、大勢がカメラを向けていたのは、宮廷地区の政務部分にあたる『ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)』である。吹き抜けの室内の中央には巨大な柱が建っており、2階の回廊につながる橋でこの柱の上に渡る構造になっている。ここには玉座が置かれ、王は貴賓や賢人達を迎え入れた。

パンチ・マハル(5層閣)
五層閣を支える柱石だが、木組みを思わせる構造になっている
五層閣を支える柱
ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)は、宮廷地区の政務部分にあたる
ディワーネ・カースの室内中央に巨大な柱が建っており、2階の回廊からこの柱の上に渡る構造になっている

 

庭園

タージ・マハル
 威厳のある赤砂岩の正門横から横250メートル、奥行き350メートルの敷地に入っていくと、正面に泉水と庭園を前景にしたタージマハル(Taji Mahal)の姿が見えてくる。青空にそびえ立つ白大理石の完璧なシンメトリーは、「佇まい(たたずまい)」という表現がぴったりの静かな気品を醸し出している。基壇のディメンションは、95メートル四方、本体は57メートル四方、高さ67メートル、四隅の塔(ミナレット)の高さは43メートルである。1983年に世界遺産登録されている。
 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)が、皇帝になって3年目、1631年に妃のムムターズ・マハルが亡くなった。皇帝は、その死を悲しんで、ムガル帝国の国力を傾けて妃のために墓陵を建てた。「マハル」というのは、この亡くなった后の称号ムムターズ・マハルが変化したもので、「宮殿」という意味ではない。
 後に、この膨大な費用のために国が傾いて後継者争いが生じ、息子が第6代皇帝アウラングゼーブ帝となり、タージ・マハルを造った第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグラ城に幽閉されてしまうのである。そして、人間の運命とは奇なるもの。今度は、親を幽閉した息子の第6代皇帝アウラングゼーブ帝の第一妃、ディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓が、17世紀後半に息子のアーザム・シャーによってアウランガーバードに構築された。この「タージ・マハル」にならって建てられた廟墓が、「ビービー・カー・マクバラー廟」である。この名前は、「婦人の墓(Tomb of the Lady)」の意味だそうだが、タージ・マハルと似ているために「貧乏人のタージ」の愛称を付けられている。
 「ビービー・カー・マクバラー廟」については、後に別稿インドの「アウランガーバード」編で再度登場してもらう予定なのでお待ち下さい。

斜め横から撮ったタージ・マハルの門。南の正門である
タージ・マハルの門
門の天井
タージ・マハル
水面に映ったタージ・マハル
正面内部から撮ったタージ・マハル
内部のアップ
幾何学的な文様(アラベスク)、かつ抽象概念をも装飾書法(カリグラフィー)をもって表現するイスラミック・カリグラフィーが美しい
ミナレット
タージマハルの隣に建つモスク
大理石の浮き彫り
ここで大失敗。車を待たせた出口と違った扉から出てしまって戻れなくなり、「絶対にダメだ」の係員と喧嘩をしている人が私も含めてたくさんいた。規則を守らせるというより、頑迷な態度で、「不愉快な奴だ」の英語が飛び交っていた
「タージ・マハル」に似ていることから「貧乏人のタージ」の愛称で呼ばれるディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓(インドの「アウランガーバード」に建つ)

北インド・ジャイプル

初めてのインド訪問
 世界有数の人口、歴史、国土を誇るインドを旅する場合、その交通ネットワークが充実した首都のデリーを起点とする旅行計画を立てるのが合理的であろう。今回は、初めてのインド訪問なので、入り口である首都デリーに入って数日間滞在した後、贅沢であるが車をチャーターして周辺の都市を周遊する方法をとった。目的地は、デリーから南西へ約270キロメートルのラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊、デリーからヤムナー河沿いに約200キロメートル南のアーグラーとその郊外のファテープル・シークリーなどである。その後、デリーに戻ってワラーナシー(バナーラス)に飛んで数日間滞在、ワラーナシー近郊のサールナートを日帰りで訪ねて、デリーに戻る、といったルートである。

デリーからジャイプルへ向かう
 ラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊へ向かう。車のハンドルを握っていないということは、運転時の緊張感から解放され、よそ見をたっぷりと楽しむことができる。突然、車道に牛が迷い込んできたり、車の全体が隠れるほど牧草を目いっぱい積んだトラクターが自家用車を追い抜いて行ったり、杖を突いたおばあさんが飛び出したり、…等々、日本では考えられない道路・交通環境である。

インドの交通を背負って立つオートリクシャー
おっと危ない、牛の飛び出し?道路が人間のものだと決めているのは人間の勝手か?
チャーターした運転手付き車
トラクターに積んだ牧草。後方の交通情報は得られるのだろうか。よく見たら、牧草のスペシャルベッドに誰かが寝転がっていた

外国では?
 インドの道路を走行した経験の一端をご紹介したが、国外を旅した時に当時の日本ではなかなか経験できない海外の道路交通環境について、私の経験(驚き)を書いてみる。今では、慣れてしまったが。
 ①トルコのイスタンブールを妻と二人で訪ねた時の話。私は運転手の横の助手席に、妻は後部座席に乗っていたのだが、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げっぱなしであった。事情はこうである。車線に沿って走る、直進車優先、必要のないクラクションは鳴らさない、制限速度を守る、…、これらは全て通じない走行方法である。我先に車線に割り込む、クラクションは鳴りっぱなし、制限速度は無いようなもの、…、これらの運転方法が目前で行われるのである。その度に、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げるのである。
 ②今度は娘とイランに行った時の話。今度は私達は歩行者である。テヘランでは車の増加に対する道路整備が追い付かなく、また白タクが多いうえに信号機が少ないため、歩行者が信号機の無い道路を横切ることが極めて難しい。私達は手をつないで、祈りながら車道を横切る。車の方が私達を目ざとく見つけて、走ったり、止まったり。運が良かったのか、生きて帰ってきました。
 ③英国、バークシャー州(the county of Berkshire)にあるTRRL(Transport and Road Research Laboratory)に留学していた頃、自宅からTRRLに行く時に通るNine mile rideは車同士がやっとすれ違うことのできる道路幅であるが、皆さん、時速60マイルで走る。時速約100キロメートルである。TRRLを見学するために日本から私を頼って訪ねてこられる方々は、どなたかの運転を見て、「大丈夫?」と声を上げる。「大丈夫、人も犬も絶対に飛び出さない」。
 ④まだまだありますが、今日はこの辺で。

ジャイプル
 1728年にこの地方に権力をふるったカチワーハ家の王、サワーイー・ジャイ・スイン2世によって造られ、その名をとって「ジャイプルと呼ばれる」と運転手から説明があったが、「ジャイ」は分かるが、「プル」はどこから来たのだろう。バックミラー越しに私の表情を確かめた運転手は「プルは、城壁に囲まれた町を意味する」と即座に答えてくれた。インドで「プル」と名のつく地名を見た場合、おおよその地名を推定できるそうだ。オランダで「アムステルダム」や「ロッテルダム」のように、「ダム」が地名に使われているのと同じようなものである。
 ジャイプルの旧市街は7つの門を持つ城壁に囲まれている、「まさにジャイのプル」なのだが、その特徴は旧市街の街並みが赤みがかった土色(つちいろ)に統一されていることだ。皆さんは、ピンクシティPink Cityと呼んでいるようだ。

アンベール城
 ジャイプルから北東へ約11キロメートル行くと、丘の上に建つ巨大なアンベール城が見えてくる。16世紀初頭に時のマハーラージャ(「偉大な王」、「高位の王」を意味する サンスクリット語 の称号 )であるサワーイ・マン・スィンによって建設が開始され、その後、歴代の王により増改築が繰り返され、17世紀のジャイ・スィン1世の時代にほぼ現在の姿になった。
 大きな城で、距離も坂の勾配もあることから歩いて回るのがきつい方々のために、小型ジープあるいは象のタクシーが用意されているが、今回はハイヤーを用意しているので必要ない。

城の中庭からぐるりと360度写し、合成した一種のパノラマ写真
最も左側の写真は、客を乗せてアンベール城内を案内する象のタクシー
客待ちの象のタクシー
アンベール城ガネーシャ門
無許可のアイス屋さん?警官が来たので慌てて…。

ジャル・マハル(水に浮かぶ宮殿)
 アンベール城から車で20分ほどで「水に浮かぶ宮殿(ヒンディー語でジャル・マハル)」に着く。このマン・サガール湖の中央に浮かぶ神秘的なジャル・マハルは、なんと実際には5階建で、その半分以上が水の中にあることだ。元々は、王族の夏の保養地として使われていたそうだが、私が訪ねたのは乾期の12月であるが、7月から9月の雨季にはより水位が高くなるだろうし、かつ不快指数も高くなるので、王族の方々は水位が下がり日中の気温が40℃を超える3月末から5月頃に訪れたのだろうか。

神秘的なジャル・マハル

インドカレー
 今日のお昼は、ジャイプルの繁華街にあるカレー専門店である。カレーライスと書かずにカレーと書いたのは、前者はカレーを米飯にかけて食べる料理であり、ある意味で「日本の国民食」と言って良いであろう。食べ物のことなので一概には言えないが、カレーの発祥の地はご存知のとおりインドであるが、その後色々な変化を経て、特に英国の影響を受けて日本に伝わっている。
 私達が住んでいた英国バークシャー州の某所では、就学前の子供達が集まって遊ぶ幼稚園の様なものがあった。長女がその年齢に達していたので、毎日ではないが、妻と一緒に通っていた。必然的に親同士の交流の場になり、そこにインド人の親子がいたので、「まだ見ぬ国インド」、『未だ見ぬ国日本』について情報交換が始まる。話を急ごう。英国人も交じって「カレー」の話になった(そうだ←妻)。小麦粉を油脂で炒めて作る「カレールー」や「カレー粉」は、インドを植民地化していたイギリスで誕生したものだそうで、日本へは開国を機にインド風ではなく、英国風カレーが伝わったという話である。つまり「カレー」とはインドのスパイスを活用した英国風料理だそうだ。そして、カレーライスは時代とともに日本のジャポニカ種(米)に合う独特の「日本風カレー」へと変化し、「日本の国民食」となったのである。
 話が横の横にずれますが、ロンドンのウェストエンドやピカデリーなどの繁華街にあるパブでは、日本人が懐かしむ味のカレーがありますよ。お訪ねください。
 さて、ジャイプルのカレー専門店で出されたカレーであるが、写真にあるようにナン(パン?)、カレールー、アニスという独特の甘い香りを持つスパイス、砂糖が並べられた。運転手から「インド人は普通、カレーに砂糖は入れない」と聞いていたが、隣りのテーブルで食べていたインド人ご夫婦はアニスに砂糖を少しかけて食べていた。私はご飯を追加で貰って、ルーをかけて食べました。

ジャイプルのレストランでインドカレー
アニス(薬草)と砂糖(食後に一緒に食べる)

風の宮殿
 風の宮殿(ハワ・マハル)は、シティ・パレスの東側に位置する。彫刻を施したテラスが並び、窓は手前に張り出していて、いかにも風通しが良く見える構造のせいか、『風の宮殿』の名前が付いている。かつて宮廷の女性達がここから町を見下ろしたという。

格子窓を風が通り抜ける時に音を立てることから風の宮殿と呼ばれる
風の宮殿(ハワ・マハル)

ジャンタル・マンタル
 ジャンタル・マンタルとは天文台のことである。ここでも、ジャイプルを築いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世が登場する。彼は、天文学に興味を持ち、ペルシャやヨーロッパの文献を読んで造形を深め、ついにはムガル皇帝の許可を得て、インド各地に天文台を作った。参考にしたのは、中央アジアのウルグ・ベグの天文台である。最初はデリー(1724年)、次にジャイプル(1728年)、ウッジャィン(1734年)、ワラーナシー(1737年)、マトゥラー(1738年、現存しない)の5か所である。
 暦の制作や日照り、洪水などの気象予測などを行った。ジャイプルのものが最も大きく、観測儀の数も多い。現在見られるものは1901年に修復されたもので、2010年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

ジャンタル・マンタル(天文台)には色々な種類の観測儀が設営されている

シティ・パレス
 シティ・パレスは、1726年、マハーラージャ、サワーイー・ジャイ・スィン2世によって町の中心に造られた。以降、後継者によって増築され現在の姿となっている。7階建ての建物は多くの装飾がなされ美しさを誇っていて、現在も一部はマハーラージャの住居となっているが、他は博物館として使用されている。
 建物の敷地に入ると大きな中庭があり、その中央に「ムバーラク・マハル」と呼ばれるテキスタイルの展示館がある。歴代のマハーラージャの着衣とか、宮中で使用された楽器などが展示されている。同じ中庭にアートギャラリーがあり、絵画や写真が展示されている。
 シティ・パレスでひときわ目立つ建物が、「ディーワーネ・カース」と呼ばれる貴賓謁見の間である。赤砂岩と白大理石で造られた豪華な建造物である。入口には黒で決めた衛兵が二人立っていたが、記念写真をお願いすると両脇に立ってくれた。「ありがとう」。この衛兵と共に入口に置かれていたのが、巨大な銀の壺である。1902年、日英同盟が締結された年であるが、エドワード7世の戴冠式に出席したマハーラージャがこの壺にガンガーの水を入れて船で英国まで運ばせたものだそうだ。敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この水で毎日沐浴をしていたそうだ。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である。

ギャラリーに飾られている絵画
ムバーラク・マハルと呼ばれるテキスタイルの展示館
シティ・パレスの中にあるディーワーネ・カースと呼ばれる貴賓謁見の間
ディーワーネ・カースの入り口に置かれている銀の壺。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である
パレスの正面にある中庭「ピタム・ニワス・ チョウク」には 4つの美しい扉があるが、「クジャクの扉」の一部である
ナンを焼く炉の制作現場を見学。時間があったら学びたかったが、…。

サンガネール
 サンガネールは、ジャイプルの南16キロメートルにある木版染めで有名な村である。サラスヴァティー川を渡った橋の西側のほとりには職人達が集まる工房がたくさんある。木版彫り、下地染め等々、女性を中心とした職人達が一心不乱に働いている。サンガネール染めの更紗をお土産として家族に頼まれているせいもあって見学に力が入る。茜の花柄模様は、更紗の代表格というか、日本でも着物のお好きな方々が夏に愛用する定番というか、魅力に溢れたパターンである。私が訪ねた工房では、4人の女性が手際よく分業をこなしている姿は感動的で、こういう職人達の工房見学には目の無い私にとっては、至福の時である。

サンガネール(更紗)工房にあった道具
色々な型のアップ
きれいな方々でした

ビルラー寺院
 翌日、朝からジャイプルのビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)を訪ねる。資産家のビルラー家がインド各地に建立した寺院の一つで、ピンクシティのジャイプルにあって白い外観は珍しい。内部もヒンドゥー寺院にはめったに見られないステンドグラスで装飾されているが、描かれているモチーフはヒンドゥーの神話の神々である。
 寺院に入る前に、靴脱ぎ場があってここで靴を脱いで中に入るようになっている。

ジャイプルのビルラー家によって建てられたビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)
寺院に向かう途中にある像の一つ
ビルラー寺院のアップ
靴脱ぎ場。ここで靴を脱いで中に入る
ヒンドゥー寺院ではめったに見られないステンドグラスの装飾

カンボジア・シェムリアップ

ホーチミンからシェムリアップ
 ベトナムのホーチミン市からカンボジアのシェムリアップへ移動する。目的はただ一つ、ここから「アンコール遺跡」へ行くためである。「前もってビザはとってある」と言えば余裕があるように思われるが、実は(ベトナムのホーチミンに向けて)日本を発つ前日の夕方にカンボジア入国のビザを取ったのである。それもこのブログに何度か登場するハノイに在住する“ご学友”の助力によってである。あぶない、あぶない。
 ホテルもアンコール遺跡に容易に行ける所と言うことで、「…の歩き方」に載っている“日本人バックパッカー御用達の宿”にあたりをつけておいた。空港でバイクタクシーに「日本人」と言うと、片目をつぶって御用達の宿に向かってくれた。有名なゲストハウスらしい。
 私は自分の年を考えて、若い人達への迷惑を考えて、相部屋を前提としたドミトリーは無理と考えていたが、シングルもあるそうで、そこを予約することにした。日本人の大学生らしき若者が7人ほど靴を脱いで居間?で雑談をしていた。そんなにきれいな格好をしていなかったのだが、「シングルですね?」と言われ、さらに今後のスケジュールを尋ねられた。集団で車をチャーターして、「アンコール遺跡」や「ベンメリア遺跡」を効率的かつ経済的に訪ねようと言う計画であった。恥ずかしいことに、「ベンメリア遺跡」など初めて聞く遺跡名であった。「私のような年寄りでも、…」と遠慮したが、気持ちよく仲間に入れてくれた。感謝、ビールを奢ったが、意外や、酒類を飲めない学生もいて、4人で楽しんだ。「意外や、飲めない学生もいて、…」と考えるのは、私が昭和世代の学生をイメージしているのだろうか?

シェムリアップ国際空港
航空機、2機見えますか? 1機の航空機を撮ったつもりだったのだが、偶然、もう一機 写っていた
到着エリアにあった象の像

アンコール国立博物館
 アンコール国立博物館は、シェムリアップに2007年にオープンしたアンコール遺跡群の国立博物館である。汗だくになりながら広大なアンコール遺跡を見学する前に予習、あるいは見学後の復習が涼しい館内でできるので、とても役に立つ博物館である。日本語のオーディオガイドが数ドルと安いのもうれしいサービスである。最近の情報で館内は写真撮影禁止と報告されている記事もあるが、2011年に私が訪れた時は、私も周りの人も写真を撮っており、私達が鈍感だったのか、いずれにしてもここでは内部の写真の掲載は割愛させてください。
 アンコール遺跡の彫刻や彫像をテーマや年代ごとに展示していて、2階から入って1階に向かうのだが、アンコール・ワットの大きな模型がある部屋や約1000の仏様に出会えるイクスクルーシヴギャラリーが人気でした。

アンコール国立博物館
アスラとインド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称を説明している

アンコール遺跡の見学
 「アンコール遺跡」と一口で言ってもその広大さはとてつもない。このクメール王朝時代の遺跡群は1992年ユネスコの世界危機遺産に登録され、さらに遺跡を中心とし修復に努めて、第二段階として2004年世界文化遺産に登録された。今日はゲストハウスに宿泊している日本人学生達の仲間に入れてもらって、アンコール遺跡の見学に出かける。
 経済的かつ充実した“知的好奇心に溢れた旅”を求める若者達が何年もかかって作り上げた“アンコールの歩き方”は、“二人一組”の行動であった。アンコール遺跡と呼ばれるエリアの中でゲストハウスから最も遠い「バンテアイ・スレイ」までトゥクトゥクで50分ほどで行き、そこから見所を見学しながらゲストハウスに最も近い「アンコール・ワット」まで少しずつ歩いて移動し、見学終了後トゥクトゥクでゲストハウスに戻る行程である。アンコール・ワットからゲストハウスまで約7キロメートルである。私の相棒は、大学4年生の好青年であった。よろしくお願いします。

バンテアイ・スレイ
 ここで、話が飛躍する。私はフランスの作家アンドレ・マルローのファンであったし、現在もファンである。サルトルやマルローを読みたいために大学では第2外国語としてフランス語を選択した。当時、工学志望者はドイツ語選択が多く、フランス語希望者は少数派であったが、私にしては真面目に勉強したと自分では思っている。フランス語担当教授は、ソルボンヌ大学留学から帰国したばかりの先生で、ユーモアやジョークの好きな方であった。エスプリのきいた講義の中で、「アンドレ・マルローが、○○遺跡にあったデバター(女神)に魅せられて、盗掘して国外に持ち出し、逮捕された」と述べられた。講義の中での話、つまり私の学生時代のことである。(こう言ったら叱られますが、)ましてやフランス語を選択した学生達である。皆で拍手して大笑いであった。(小さい声で)「教授も笑っていらっしゃった」。それがこの「東洋のモナリザ」だったのだ。半世紀以上前のこの話を今日の私の相棒達“大学4年生の好青年達”に話したところ、彼等も大笑いであった。「メルシー・ボク」。
 おかげで、「東洋のモナリザ」部分を写真に撮るのを忘れてしまって、偶然写っていた他の写真からトリミングをしてお見せする羽目になってしまった。もっともマルロー事件のおかげで、その後、「東洋のモナリザ」などのデバター周辺は立入禁止区域となって、柵の外からしか見ることできなくなったそうである。

南経蔵破風(はぶ)に施された渦巻文様の浮き彫り
偶然、この写真の右側の後ろに「東洋のモナリザ」が写っていた
上の写真の「東洋のモナリザ」部分を切り取った画像

バンテアイ・サムレ
 バンテアイ・サムレは、12世紀中頃にスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)の統治時代に造られたアンコール・ワット様式のヒンドゥー教寺院の遺跡で、高さ6メートルの外周壁に囲まれている。インドシナ半島の古代民族サムレ(Samré) に因んで名付けられ、「サムレ(入れ墨)族の砦」の意味をもつそうだ。
 アンコール・ワットに似た中央祠堂を持つため、「小アンコール・ワット」とも言われている。また、赤っぽい色をしているのは、「バンテアイ・スレイ」と同じ材料を用いているためである。

バンテアイ・サムレ

バンテアイ・クディ
 最初はヒンドゥー教寺院として建てられたが、後に仏教寺院として再建され、さらにヒンドゥー教寺院に改宗された寺院である。多くの建物が崩壊し、現在復興中であるが、壁面の彫刻や柱のアプサラス像やデンバーの浮彫りなどの細やかな装飾部分は残っている。

外周壁;バンテアイ・クディの仏面島(東撘門)
第3周壁;前柱殿のアプサラスの彫刻
前柱殿のアプサラスの彫刻
第2周壁;デヴァター(右)の浮彫

タ・プローム
 12世紀末にジャヤヴァルマン7世が仏教寺院として建立したが、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと言う。タ・プロームとは「梵天の古老」という意味があるが、その理由については分からない。
 アンコールの他の遺跡と違うところは、樹木が取り払われずに残されていることだ。遺跡に樹木が絡まっている風景に唖然とする。発見当時の様子を残すために樹木の除去などの修復をしていない方法で維持しているようだ。遺跡そのもののメンテナンスは行われているようだ。
 通りがかりの人に映画『トゥームレイダー』のロケ地だと教えられたが、映画を見ていないので確認できない。

危険地域の立て看板
巨大な榕樹・ガジュマルが遺跡に張り付いている
茶胶寺
茶胶寺の補修・修復工の立札

 バプーオンは、明日訪ねる予定の「アンコールトム」にある「バイヨン」の北西に位置する。1060年頃、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられた3層からなる山岳型(ピラミッド型)寺院である。王宮前広場の南端にある東塔門から内側の塔門に向かって延びる長さ200メートル、橋脚の高さ約1メートルの参道が美しい。この参道は、3列に並ぶ円柱の橋脚とともに崩壊していたが、EFEO(フランス極東学院の略称) によって修復されたものである。
 バプーオンとは「隠し子」という意味で、カンボジアとタイの争いの時に、王子をこの寺院にかくまったという「隠し子伝説」からついた名前だそうだ。

修復された円柱の橋脚と参道

アンコールワット
 アンコール・ワットは、1113~1145年頃にスーリヤヴァルマン2世によって建立された石造りのヒンドゥー教寺院である。16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在に続いているが、ご存知のように、ユネスコの世界文化遺産あるアンコール遺跡群を代表する寺院である。クメール語で、アンコールは王都、ワットは寺院を意味することから、アンコール・ワットは「国都寺院」という意味になる。大伽藍と美しい彫刻はクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。寺院を囲む東西1.1キロメートル、南北1.3キロメートルの濠、参道、3つの回廊、中心部の5基の塔から成る壮大な寺院は、結構、首回り、足、腰にくる見学であった。
 若者に首を揉んでもらって、首回りが軽くなってはたと気づいた。一般的にクメール建築は正面が東を向いていると言われ、二人もそれに気づいていたのだが、アンコールワットはなぜか西を向いている。理由は分からない。ゲストハウスに戻ってから、この話を持ち出したのだが、「ヒンズー教の寺院なのでカンボジアから見ると西にあるインドの方向を向いている」とか、「王の墓なので、西方浄土…」等々、分かったような、分からないような、…。

西の参道から見上げたアンコール・ワット中央
水面(みなも)に映るアンコール・ワット中央
アンコール・ワット第三回廊のデバター
急勾配である

アプサラダンス
 私の“夜の病気”は、場所、季節を問わずにやってくる。ゲストハウスから若き美女の運転するバイクに乗せてもらって、怖いので細いウェストにしっかりとつかまって、5分間。クメールの伝統舞踊「アプサラダンス」を観ることができるレストランでカンボジアの郷土料理を食している。
 アプサラは、古代ヒンドゥー神話に登場する水の精であるが、現在は伝統舞踊ショーの人気演目「アプサラダンス」として民衆の中に生きている。内戦で一度は失われてしまったアプサラダンスは復活していたのだ。きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の手の動きに特徴があり、妖艶な踊りは人々の視線を引き付ける。民衆劇も演じられ、笑いを誘っていた。
 贅沢な夜だった。

民衆劇
女性の手の動きに特徴がある踊り
きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の踊り
フィナーレは夜の10時半であった。ご苦労様。お休みなさい

ベンメリア遺跡
  ベン・メリア遺跡は、シェムリアップから約70キロメートル離れたクーレン山南麓にある遺跡である。まさにジャングルの奥深くにある遺跡で、距離も遠いし、定期観光バスも無いことから、一人旅は難しい。ここでも、ゲストハウスに感謝感激。タクシーなら1台60US$のところを十人以上乗車のマイクロバスで一人あたり7US$と特別料金である。明るい雰囲気の若い連中と片道1時間ほどの行程であった。
 ベン・メリアとは「花束の池」の意であり、アンコールワットと比べると規模には劣るが、類似点も多いため東のアンコールワットとも呼ばれる。但し、寺院に関係する碑文はほとんど残されておらず、現在でも謎の多い遺跡である。
 タ・プローム遺跡を凌ぐような草木に埋もれたジャングル遺跡であるが、遺跡の周りは管理者がしっかりと維持管理をしているのか、それとも多くの訪問者によって雑草が踏み固められているためか、歩きやすいように整地されていた。気になったのは、客の取り合いをする未就学か低学年の“小さきガイド”であった。正確には、“自称、小さきガイド”であった。わずかのお金をねだりながら、英語らしき言葉で説明をしたり、腕を取って見所に連れて行く(行かれる?)のである。「ありがとう。学校に行けると良いね」と日本語で言った。小金を入れてあるポケットを抑えながら、そう言ったのだが、これは子供達への教育であり、一人旅の作法・流儀でもある。

天と地をつなぐナーガ
崩れ落ちた石がそのままになっている
自称「遺跡案内人」。勉強するんだぞ
勢いのある木々と崩壊した建物
「CMACによって除去された地雷源」の立札がある。「CMAC」とは、Cambodian Mine Action Centre(カンボジア地雷対策センター)の略号である
CMAC
ベンメリアを象徴する崩壊した遺跡

ベトナム・ホーチミンとメコンデルタ

言い訳
 私のブログのカテゴリーで分類すると、『新旅行記・アジア-1』、『新旅行記・アジア-2』は中国を主体としている。『新旅行記・アジア-3』で、やっと中国以外のアジアを一部ご紹介できた。特別の理由は無いが、『ベトナム』から始め、『タイトル:ベトナム・ホーチミン』、『タイトル:ベトナム・フエ』、『タイトル:ベトナム・ハノイ』と名付けて、既にアップローディングした。
 実際の旅のルートから言うと、①ホーチミン、②フエ、③ハノイ、④ここでカンボジアの『シェムリアップ』に渡って、次に⑤『ベトナム南部』に戻ってくるルートなのであるが、(工科系的)思考では、ベトナムを取り上げた①~③の次には④カンボジアのシェムリアップではなく、ベトナムの『ベトナム南部』を④として入れて、ベトナムを終結したいのである。そして、その次に、カンボジアのシェムリアップである。
 と言うことで、文章の構成は、既に前回アップローディングした『タイトル:ベトナム・ハノイ』に続いて、今回は『タイトル:ベトナム・ホーチミンとメコンデルタ』である。ここまで書いて、思いました「 余計な時間を取らせるな!早く前に勧め」と。

ホーチミン市内観光
 昨日、カンボジアのシェムリアップからベトナムのここホーチミン市に飛び、今朝は朝食抜きで昼まで睡眠をむさぼる。ぐっすりと眠った後は、生命を維持する程度の少量のランチを胃に送り込み、美術館内を散歩する?のは、まさに贅沢の極みである。ましてや、ここホーチミン市の美術博物館は建物自体が魅力的で、ファサードの古典的美しさは入口で訪問客の足を止める。そしてその周りは、現世の俗社会とでも言おうか、歩道を埋め尽くすように出店が続く。

ホーチミン市にあるクラシカルな外観が美しい美術博物館。以前は中国人商人の建物だった
美術博物館
人の集まる所には、お店あり
この熟した果物が美味いのです。「Thomas」も売れていました

 どの場所にいても、必ず見えるホーチミン市で一番高いビル「ビテクスコ・フィナンシャル・タワー(通称、「ビテクスコ・タワー」)」を左に置き、右側にパンニングした写真である。タワーの49階にある展望台が「サイゴンスカイデッキ」で、地上 262メートルの高さから、ホーチミン市のパノラマの美しい景色を眺めることができる超高層タワーである。

「テクスコ・タワー」を左に置き、右にパンニングした写真
ホーチミンで一番高いビル「ビテクスコ・フィナンシャル・タワー」
フランスの植民地時代に建てられた、優雅で美しい市民劇場。フランス統治時代はオペラハウス、南ベトナム時代は国会議事堂と、時代により使われる用途が変わりながらここに建ち続けている
ホーチミン市でたまたま見つけて入った日本食堂。ラーメンの麺は米粉で作られたフォーの代用のような味であった。結構、美味しかった

メコンデルタ・ツァーの初日
 TNKトラベルという会社が主催するホーチミン市を出発点とする「メコンデルタ・1泊2日ツアー(英語)」に参加した。ベトナム南部に位置するメコンデルタは人気の観光地で、ツァーも満員御礼である。初日は土曜日の朝08時00分出発、初日の夜はカントーに宿泊、翌日は朝から観光して夕方の17時00分にTNKトラベルに戻るという日程であった。私的な支出は別として、基本料金は、24US$ + Single room追加料金であった。
 ツァーは、ホーチミン市から国道1号線で約2時間でメコンデルタの入口にあるティエンザン省の省都、ミトーに到着する。ここからは東に約1キロメートル進むと、最初の訪問場所である『永長寺(ヴィンチャン寺)』が見えてくる。

幹線道路も整備されている

永長寺(ヴィンチャン寺)
 ガイドから説明を受けなければ、遠目には寺というよりは西洋の城のように見える建物がヤシの木に囲まれて建っている。中国とフランスの建築様式を取り入れて1849年に建てられた仏教寺院『永長寺(ヴィンチャン寺)』である。優美で華麗な曲線が目を引き、かつ豪華な外観を持つお寺である。繰り返しになるが、ヤシの木に囲まれたお寺は、初めて見る風景であり、何とも不思議な気持ちになる。敷地内には美しい花や木が植えられ、巨大な菩薩や寝釈迦像などが点在している。
 長永寺の中には坊さんが修行する学校があり、4年間の修業が義務付けられているそうだ。

緑の中に佇む永長寺
巨大な弥勒大仏
いかにもベトナム南部を代表する草花が咲き誇っている
心落ち着く草花がいっぱい
永長寺
顔が隠れてしまって
ツァーのランチ。寂しい
カラフルな数珠が並んでいる
角度を変えて永長寺を撮る

ミトー
 「リューガン、マンゴー、ランブータンばかりじゃない、こちらに来てから覚えた果物がいっぱい。ここは果物の産地で有名な『ミト―』である」と書いたら笑われるであろう。そう、米紛から作られる「フー・ティウ麺」の本場『ミト―』についても書かなければ、✖である。
 そして、『メコンクルーズ』である。「忙しい、忙しい」。「食べるのはクルーズを楽しんだ後に」ではなく、「食べながら、クルーズも楽しむ」のである。皆さんもそうしているみたいです。
 クルーズ担当の係員が全体説明をしている最中でも、「むしゃ、むしゃ」、行儀が悪いなぁ」と思っている私も「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」。モーター付きの木造船に乗り込んで中州の「トイソン島」や「フーン島」に向かっても、「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」。係員達も売り上げ順調で、「むしゃ、むしゃ」、「むしゃ、むしゃ」、おっと間違いました、「むしゃ、むしゃ」ではなく、「にこにこ」、「にこにこ」。

現地ガイドによるメコン・ツァーの概略説明
ツァーボート
2009年1月に 7年間をかけて開通したミトーとベンチェーを結ぶ8331メートルのラックミエウ橋
漁をしている漁師さん
ベトナム南部の名物「象耳魚(カー・タイ・トゥオン、英語に翻訳して、エレファントフィッシュ)」が出てくる。ここでは、丸ごとから揚げにして食べるのが一般的のようだ。カリカリとした皮とジューシーな身が美味しい
無邪気に遊んでいる子供達だと思ったら、お茶のサービスで稼いでいた
ジャングルに架かる木橋
見事なヤシの実
飴を作っている
棒状に成形された飴。これを適当な長さに切る
紙に包んで終了。私も含めてほとんどの観光客が買っていた
櫂を巧みに使って小舟を操り、狭い水路を進む
見事な手さばきである
船を下りると楽団のサービス
橋の上から水上家屋を写す
カントー橋の料金徴収所。ここを降りると2010年4月に開通したカントー大橋がある

カイライン水上マーケット
 昨日は、『メコンデルタ・ツァー』の初日で、長永寺そしてミトー近辺を巡った後、交通の要衝であり、したがって経済の中心地でもあるメコンデルタ最大の町カントーに宿泊した。
 今日は、カントー周辺の水上マーケットの見学から始まる。数か所ある中で、比較的容易に行ける「カイライン水上マーケット」のコースである。朝8時頃と薄暗い中、市内からソクチャン方面に船で7キロメートルほど南下した辺りにあり、1キロメートルほど続く。約30分くらいであったが、船酔いして気分を悪くした若い女性もいた。
 ここの水上マーケットは、観光客相手の商品の売り買いではなく、まさに水上で行われる本格的な産物の売り買いで、その様子を観光客が見学する水上マーケットなのである。カントー周辺の7つの支流を利用した『物流システム』が成り立っているのである。農家が自分で生産した農産物を小舟に積んで水上マーケットに運び、取り扱い産物を知らせる大型船の幟(のぼり)を頼りに船を寄せ、卸商と値段交渉をしている。卸商は農家から買い取ったキャベツ、トマト、バナナなどをミトーやホーチミン市に売りに行くのである。消費者は朝収穫された新鮮な野菜類をその日の朝に口にする、実に合理的な「地産地消」である。そして、我々観光客を呼び込む観光業が成り立っているのである。

カントーの朝 7時半、路上マーケットがもう開いている
ベトナム石油の給油所
7つの支流を利用した船による物流システムが成り立っている
小さい船は農家の人々で、幟(のぼり)を立てた大型船に船を寄せて値段の交渉をしている。卸商は買い取ったキャベツ、トマト、バナナなどをミトーやホーチミン市に運ぶ
パイナップルの幟を立てている果物卸売屋さん
色々な幟が立っている
小さい船同士で物々交換をする場合もある
観光客目当ての店もある。これはすぐに口に入れられて観光客に人気であったが、後ろの「口の中ではなく、目の中に入れても痛くない」赤ちゃんも大人気であった。もう一度ご覧になってください。この親子よく似ていらっしゃいますよね。
食堂も繁盛している。ここで働く人々やたまには観光客もお客さんである
会計部長さんも忙しい
陸に下りて周辺を歩く。生春巻きに使われるライスペーパーだろうか?
豚を飼っている
構造力学的に合理性のある橋
バナナ
時計塔
カメラを左から右にパンニングして撮ったカントー博物館。ホーチミンの生涯をパネルで説明していた
私なら日本酒を選びますが、あなたはどうなされますか

ベトナム・ハノイ

フエからハノイへ
 ホーチミン市からフエへの移動で待望の夜行寝台列車を経験したので、フエからハノイへはフライトを選んだ。“ご学友”とは、夜に会うことになっているので、ハノイのホテルへチェックインを済ませた後、たっぷりと時間がある。今回は約束の時間もあるので、観光は郊外から始めないでハノイ市街の中心にあるホアンキエム湖辺りからブラブラを始める。

エフーバイ国際空港

 ホアンキエム湖の東岸から湖を眺めると、玉山島に建つ神社「玉山祠」が目に入る。玉山島は古くは象耳島、11世紀初めに玉象山、13~14世紀には玉山と名前の変遷を重ねている。これだけの名前の変わり様は、背後に多くの歴史的ストーリィ、多くの伝説が存在したことを意味する。ガイドブックによると、黎朝末期(1746年)には中国三国時代の英雄である関羽を祀る武廟が建立されたこともあるそうだ。
 玉山祠に向かうと、最初に「福」と「禄」の大きな赤い字が書かれた門が建っている。著名な儒学者、グエン・ヴァン・ズーの筆によるもので、福は幸せを、禄は豊かさを意味している。この字を挟むように黒字で縦書きにされている詩文は、人材育成の重要性などが書かれているそうである。この門をくぐると、「筆塔」、「徳月樓」と記された門などが続く。

街の雑踏、オートバイ、…、ホーチミンと比べると静かではあるが、やはり首都である
シクロも走っていて、短距離の移動に便利である
最初の門は「福」と「禄」の文字が大きく書かれている
次に、右に龍、左に虎の絵を配した門。昔、科挙合格者たちの名前をここに貼り出していたそうだ。虎も龍も、これから世の中に出て活躍するという、儒教の考えを表している
「徳月樓」と記された門。中国の四つの神獣である四霊(龍、鳳凰、麒麟、亀)の麒麟と亀が描かれている。それぞれ、皇帝、繁栄、吉兆、長寿の象徴を表す
一対に置かれたオウムの像。女性のそばで女性が言ったことを繰り返し、真実を話すことの大切さを教えたというオウムの伝説がある

ホアンキエム湖の伝説
 別名「グオム(剣湖)」と呼ばれる湖、ホアンキエム湖に伝わる伝説をご紹介したい。1428年、黎朝(れちょう)の始祖、黎利(レ・ロイ)は、湖に棲む亀がもたらした神剣を使ってベトナム(大越国)から明軍を駆逐した。後に、湖の中の小島でそれを返したが、現在、亀の塔が建っている場所がその場所だと言い伝えられている。因みに、ホアンキエムとは「還剣」という意味である。
 1968年、ホアンキエム湖で体重250キログラムの大亀が捕獲された。説明によると、剥製の体長は180センチメートル、胴回り120センチメートルもあるそうだ。「レ・ロイが宝剣を返した伝説の亀ではないか」と話題になり、剥製にして玉山祠に祀られている。

玉山祠に展示されている亀の剥製
玉山祠での撮影シーン

もう少しだけハノイ市内をブラブラ
 “ご学友”と会うまでもう少し時間があるので、ブラブラを続けたい。

フランス統治時代の1911年、パリの「オペラ・ガルニエ宮」を模して作られた市劇場。この写真に似たパリのそれを探したが、見当たらない。パリにもう一つのオペラの殿堂「バスティーユ」がオープンするまで、「オペラ座」では少なくとも20回は観て(聴いて)いるはずなのに
日本人も活躍している
市劇場の正面階段
シクロ
ベトナム国立図書館
図書館内部の検索室
館内の売店
ホアンキエム湖から2ブロックほど離れたニャーチュン通りとリー・クオックスー通りが交差する広場に建つハノイ大教会(セント・ヨセフ大聖堂)。1886年仏教寺院の跡地に建立された塔の高さ31.5メートルのハノイで最も大きなカソリック大聖堂。主要な建築材料は煉瓦とタイルだそうだ
広場の中央には “REGINA PACIS(平和の聖母)”と書かれた台座に立つ、幼いイエスを抱いた「聖母マリアの像」がある
教会内部の美しいステンドグラスはイタリア・ベネチアから運ばれてきた
李南(リーナム)帝(544~548年)の時代に「開国時」の名称で建立された.ベトナム最古の寺である。17世紀に現在のタイ湖畔の小島に移され、「鎮国寺」と改称された。細身の塔が際立つ
旅の友達 。実はこの貼薬は365日間、お世話になっている

古都ホアルー
 昨夜は、“ご学友”と痛飲した。彼はいわゆるハイソな方々とお会いできる立場にあるのだが、「今後のベトナムの政治的、経済的諸問題」などと言う話は一切出ない。学生時代に土木工学を学んだせいか、せいぜい、「こんなに豊かな水資源を持ちながら、どうして為政者と言うのは、原子力発電所の建設などに興味を持つのだろう?」といった話をしたぐらいで、若かりし頃のやんちゃな時代をふりかえる“年相応の”話を楽しんだ。「どんな内容?」。「二人のヒミツ!」。
 今日は、郊外に出て、「古都ホアルー」や「景勝地タムコック」を訪ねる現地の英語版ツァーに参加している。「ホアルー・タムコック・ツァー」と称するそれで、 日帰りで26US$であった。
 ホアルーは、建都した986年からタンロン(現在のハノイ)に遷都される1010年まで丁(ティエン)朝の都が置かれた場所である。詳細は割愛するが、解説書によると10世紀半ばに地方豪族のディン・ボ・リン(在位968~980年)が北部ベトナムを統一して独立王朝ダイコヴェットを建国した。その都ホアルーの中心地は、現在のディン・ティエン・ホアン祠と2代皇帝レ・ダイ・ハン(在位980~1005年)祠が建っているあたりと考えられている。因みに、ディンティエンホアンは、丁朝の初代皇帝である。

ディン・ティエン・ホアン祠の入口付近につながれていた牛。可愛い、友達になりたい
ディン・ティエン・ホアン祠入口
ディン・ティエン・ホアン祠
本堂の屋根部分のアップ
ホアルーの神社に祀られているディン・ティエン・ホアン(在位968~979年)
古都ホアルーの入口にある楼閣

タムコック
 「タムコック」とはベトナム語で「3つの洞窟」という意味で、それらの奇形な石灰鍾乳洞が連なる洞窟を巧みにくぐり抜けながら小舟が進む。竹で編んだ小舟に乗ってお姉さん、おばさん達が手と足を使って器用に櫂を操る姿は、周りの景色以上に観光客のカメラが向けられている。お姉さん、おばさん達と表現したのはジョークではなく、ボートの漕ぎ手は女性が多いのである。

雨模様の中、出発
洞窟の中
動画でないのが残念。この水上マーケットのおばさんは見事な足(脚)さばきで商売繁盛
船着場
舟から降りて、ここは陸上マーケットである。今日の「ホアルー・タムコック・ツァー」は、これで終了、明日のハロン湾観光」に備えよう

ハロン湾観光
 昨日の「ホアルー・タムコック・ツァー」に続いて、今日も現地発のツァーに参加した。08 :00~19:30の「ハロン湾日帰りツアー(英語)」である。バイチャイのクルーズ船乗り場まで自分で行かなければならないが、いわゆる混在ツァー(英語ツァー)なので一人49US$と意外に安い。
 ハロンという地名は、ハ;降りる、ロン;龍を意味している。ガイドブックによると、かつて周辺国の侵略に悩まされていたこの地に龍の親子が降り立ち、敵を打ち破って宝玉を海に吹き出した。これが奇岩となり、その後、外敵の侵入を防いだそうだ。伝説ではあるが、実際に神秘的な景色を観ると、1994年にユネスコの世界遺産に登録されたことに納得がいくであろう。そして自分なりの、貴方なりの想像が、キャンバスに筆を走らせ、文字になり、音符になるのだと思います。伝説はあなたが創るのです。

ここでチケットを買って乗船する
中型船乗り場
小舟に乗った観光客相手に果物を売る小舟果物屋さん
幻想的風景が続く
カヤックを楽しむ人も
こちらは小型船の船頭さん。眠りながら櫂を漕ぐプロの技である
夕方4時半頃のハロン湾の風景である
これも同じ時間帯の風景である。「子連れ、孫連れ水上マーケット」と勝手に名付けたが、なかなかの人気である

日にち変わって、チュア・フォーン(パヒューム・パゴダ)ツァー
 一昨日の「ホアルー・タムコック・ツァー(英語)」、昨日の「ハロン湾日帰りツアー(英語)」に続いて、今日は「チュア・フォーン(香寺)」観光である。似た様な観光内容であるが、乗客が違うと空間の風景も異なり、要は楽しみ方次第である。
 チュア・フォーンは、フォーン・ソン(香山)に散在する13の寺をまとめて呼ぶ名称である。私が参加した現地ツァーは、ガイドが英語を使って説明するツァーのせいか、欧米人が多かったのだが、皆さん、「パフュームパゴダ」とも言っていた。確かにその名の通り、“香り漂う洞窟寺院”である。ハノイからツァーバスで1時間30分ほどでベトナム国立公園のソンタイの町にあるクルーズ船乗場に到着する。個別に25,000ドンのチケットを買って乗船し、検閲官が来てチェックしてから出港許可となる。
 いわゆる水墨画のような景色が続き、30分ほどで下船を促され、名前の分からないお寺を全員でさっと見学、舟に戻って移動開始。何か急がされる感じであるが、一部で洞窟の中をくぐるので潮の干満に合せているのかも知れない。それから1時間は似たような景色が続き、皆さん、シャッターを押すのに飽きた頃、香山のふもとへ着く。舟を下り、昼食をとってから「30分後にゴンドラ乗場に集合」の説明を受ける。方向音痴の私目は、パーティからはぐれることを恐れて、参道の店を冷やかしながら早めに移動する。
 ゴンドラ乗場は大変な込み様であるが、上空から見下ろす風景は、その価値が十分にある。そして下界は、店、店、人、人である。時間を忘れるほど楽しかった。その時間の問題がこの後、生じてしまった。詳しくは、写真の後のセクションで。

手漕ぎ舟への乗船開始
船頭さん
最初に見学した名前の分からないお寺
幻想的風景が続く
舟が込み合ってきて、競争が始まる。同乗の青年3人が紙幣を出して賭けをしている。札の絵柄は確認していないが、こんな時でもベッティングをするのは絶対に英国人だ。10ポンドかけても良い。
香寺のある岩山に到着
凄い込み様
舟を降りてからは、まずは腹ごしらえ。…。賭けをしていたのは、ウエストエンドに棲む連中だった。勝ったヤツに「おめでとう」とスラングで話しかけたらソーセージを一本くれた。まさに、英国人だ
私の船はどれだろう
ゴンドラ乗り場へ向かう。凄い人出だ
ゴンドラ乗り場
絶え間なく動いているゴンドラ
ゴンドラからの景色
ゴンドラを降りると参道に店が続く。「南無阿弥陀仏」の石碑
現在、19時24分、そろそろハノイへ戻るバスの発車時間である。さようなら

ハノイの水上人形劇に間に合った
 ハノイのディンティンホアン通りにある水上人形劇場は、1956年、英雄ホーチミン主席が子供達のために建てた劇場である。この種の観劇、オペラ、音楽などは、旅の目的そのものになるほど凝ってしまう私目は、息を切らせてここに辿り着き、隣の席の人に「大丈夫か」と言われて、「ソ・ソーリィ」である。実は、朝から出かけていた「パヒューム・パゴダ・ツアー」の運行に遅れが生じて、水上人形劇の開演時間に間に合わなかったのだ。ツァーの終了場所までバスが行くと、完全にギブアップだったのだが、ガイドに「実は水上人形劇を予約してあって、…」と伝えたところ、運転手と相談してバスを迂回して水上人形劇場の前で止めてくれたのだ。申し訳ないので、ツァーメイトの皆さんにお礼を言ったところ、拍手を受けてしまった。「皆さん、ありがとう」。

ベトナムの水上人形劇
 いきなりですが、“ご学友”によると、「ここの水上人形劇はお前が昔から凝っている“現在の日本の文楽”とは趣を異にする。もともとはベトナムの農民たちが農閑期に行っていた土着性の強い娯楽だ」。ますます興味を持った。「玉男」「蓑助」、「志寿太夫」の洗練された芸もさることながら、「土着性」と言う言葉には、いつも引き付けられる。「土着性」や「ローカリティ」とは、ある意味、“多様性の重要な構成要素”であり、…、そうであるならば、水上人形劇は ベトナムの地方ごと、村ごとに異なるはずだ。しかし、複数回の水上人形劇を見たわけだが、まだまだ、入口に入ったばかりで論を続けるには無理がある。基礎知識をもっと身につけなければ、理屈もさることながら舞台の空間に漂う空気をもっと吸わなければ、…、そのためにもっと通わなければ。
 ところで、“ご学友”から教わった知識を忘れないようにメモしておかなければ、忘れてしまう。このようなことだったと思う。
 使われている人形はイチジク(無花果)を材料として作られたものだ。ベトナム北部では、イチジクは、若葉は豚のエサ、果実は魚のエサ、塩漬けされて農民の食料になる。「イチジク万歳」。いやっ、ここで感心しては駄目だった。いちじくの幹は5~6年で直径20~25センチになり、人形を彫るのに使用されるそうだ。一座の職工が手作りするため、劇団ごとに姿形や衣装が異なっているそうだ。
 納得。早速、誰かに教えてあげよう。

水上人形劇場入口
水上人形劇
まさにエキゾチックな鳴り物

ハノイの皆さん、ご学友Gちゃん、Mr.ベッティング、船頭さん、ありがとう
 ハノイでは、街そのもの、そして近郊の観光資源の豊富さに驚きました。そして、ベトナムが世界第2のコーヒー生産国の名に恥じない、良質のコーヒーを提供する国であることを改めて認識させていただきました。やはり、人である。私ごときがコメントするのもなんであるが、時として町ですれ違う中年・老年のご婦人の凛とした美しさ、エレガンスと言っても良いような気品ある美しさ、普段着からあの気品を醸し出すとは、…、やはり、心か。
 最後は、わが“ご学友”にあらためて感謝。JALホテル近くのコーヒー店で求めたあのコーヒー。一時は、我が家の誇る英国仕込みのミルクティを凌いでいたのだが、こっちではあのコーヒー豆の入手が難しい。送ってくれ。

ベトナム・フエ

列車に乗ってみたくて
 ベトナムの列車に乗ってみたくて、そして「列車の究極は夜行寝台列車」ということで、ホーチミンからフエへの移動は夜行寝台列車を利用することにした。ベッド、給湯・洗面所などの施設、係員の応対など、まあまあである。

ホーチミンからフエへ向かう夜行寝台列車のベッド
寝台車両の内部通路
冷水、熱湯も用意されている
駅名は分からないが、列車が停車したので寝られないままにホームに下りて外の空気を吸う

 フエ駅に到着。ホテルは予約してあるので近くに行くバスに乗ろうと出口に向かうと、マイクロバス、小さな三輪トラック、オートバイなどが待ちかまえていて、客を勧誘するおじさん、おばさんが争うように寄ってくる。私のホテルは迎え付きの予約ではなかったのだが、「…ホテル、日本人」と声が聞こえる。彼は新しい別の客を探しに来ていたのだが、私はラッキーだったのだ。新しいゲストになったフランス人のアヴェックと一緒に無料バスでホテルに直行してもらった。そして驚いた、日本人の若者が5人ほど泊まっていたのだ。ここのオーナーの奥さんが日本人であることが理由で、日本人が良く泊まるミニホテルだったのだ。さらに、ラッキーが続いた。彼らは昨日利用したらしいが、このミニホテルでは「フォンニャ洞窟巡り」を主宰していたのだった。

フォンニャ洞窟とは
 フエから北西へ約210キロメートル行くと、フォンニャ・ドン(Phong Nha Dong)がある。約2億5000万年前に形成されたと考えられているカルスト地帯を擁する鍾乳洞で、「風の牙の洞窟」と呼ばれている。ベトナム最大の洞窟で、2003年にユネスコによってベトナムで5番目となる世界遺産に登録された。ここには大小約300の鍾乳洞があるが、フォンニャ・ドンとティエンソン・ドン(Tien Son Dong)の二つが一般公開されている。
 昨日、宿泊したホテルのスタッフにフォンニャ洞窟への行き方を聞いたところ、「あなたは非常にラッキーだ」と言われた。既にホテル側でセットした明日の「ホテル~洞窟間のミニバス・サービス」に一人分の空きがあると言う。「朝、ミニバスでホテルを出発して、フォンニャ観光センター 前に到着する。洞窟の観光後に観光センター 前からホテルに戻る」サービスである。観光センターは、フォンニャ洞窟への船乗り場の近くにあるそうだ。方向音痴の私にとっては、分かりやすいプランである。

腹もふくれた
 フォンニャ洞窟への期待感からか、朝、早めに目が覚めたのでホテルの周りをブラブラしていたところ、路上食堂が開いていた。これ幸いと、ホーチミンで味を覚えたフォーをお願いした。「美味い、本当に美味い」。後で知ったことだが、ホテルの近くにある「フォー」で有名な食堂が朝食のみを路上の屋台でサービスをしている路上食堂だったのだ。確かに観光ガイドブックにも載っていた有名な食堂であった。「腹もふくれた、ごちそうさま」。
 ミニバスの出発時間までもう少し時間がある。ミニバスによる長距離の移動なので、足の運動を兼ねて近くを散歩していたところ、びっくりした。「京都大学の出先の研究所」がフエにあったのだ。お話をお聞きしたいが、この時間である。「頑張れ、京大」。今日は、何か良いことがありそうだ。何も根拠がないが。

朝食中
京都大学地球環境学大学院
入口の壁にはめられていた京大大学院のプレート

フォンニャ洞窟観光
 ホテルでアレンジした「フォンニャ洞窟日帰りツァー」は、フエから北西へ約210キロメートルと結構大変だ。幸か不幸か、ホーチミン市からフエまで夜行列車で移動したので、ちょっと睡眠不足だ。仮眠を取るのに丁度良い。バスの中では、現地語、英語、フランス語が行きかっていた。
 フエからフォンニャ観光センターにミニバスで約4時間で到着した。手足を伸ばして柔軟体操をしてから、近くにある船乗り場からエンジン付きボートで約30分で洞窟の入り口に着く。ここからはエンジンを止めて若者の手漕ぎとなり、ボートを操って絶景を楽しむという算段である。説明員のフランス語っぽい、鼻にかかった英語は、皆さん、大丈夫なようだ。職業に偏見は全くないつもりだが、手漕ぎボートの若者が名詞の羅列ではあったが、それなりの英語を話すのには驚いた。日本人は私一人だったが、たまに「わっかりますか?」とアドリブが入ってくるのには、さらにびっくりした。要するに、日本人観光客も多いということで慣れているのだ。「わっかりますか?」を何度か聞いてすっかり慣れてしまった乗客の皆さんは、私に向かって「わっかりますか?」を連発していた。
 船を降りた後、徒歩で洞窟内を散策する。フォンニャとは「風の牙」という意味のようで、牙のような鍾乳洞(風の牙の洞窟)が無数にある。約2億5千万年前に形成されたと考えられている。洞窟の中は静かで、涼しく、当然のことながら人工的とはいえ、ライトアップされた鍾乳洞は神秘的な感じがする。観光客のカメラのフラッシュの光が続く。この地底湖を探検するような雰囲気を持つフォンニャ洞窟は、2003年にユネスコの世界遺産に登録された。
 帰りの4時間、さすがに皆さんはぐっすり。同乗者は、ほとんどが同じホテルの宿泊客だったのだが、「一杯、飲ろう」と言う人はいなかった。

途中の田園風景。良い風景だね。

 

フォンニャ洞窟からフエへの帰路で見た風景
こんなのもいた
フエにやっと戻ってきた

古都フエの市内観光
 今更であるが、フエについてご紹介したい。ここはベトナム最後の王朝、阮朝(グエンちょう、1802 年~1945年)が約150年間都をおいた古都である。それ故に、フォーン川のほとりに、王宮、寺院、皇帝廟などの歴史を感じさせる風格ある建物が観光客の目を引く。1993年、ベトナムで最初の世界遺産に登録された。
 フエは、いわゆる “旧市街”と“新市街”に分かれていて、したがって地域の特徴がはっきりしていることから、とても観光しやすい街である。旧市街は、平屋の建物しかなく部分的ではあるが苔に覆われた石造りの城壁に囲まれた、いわゆる“由緒”を感じさせるエリアである。したがって、王宮周辺を中心とした歴史的遺産を求める観光客が多く出かける場所である。
 他方、新市街はドンバ市場などで生活雑貨を求める人々でごった返し、フエ駅、郵便局、飲食店、等々の生活の場である。これはこれで、観光的にも楽しさを感じる方々も多いことでしょう。私の場合は、先ずは旧市街から出かけます。

阮朝王宮
 王宮門(入宮門)をくぐって王宮内に入ると、4つの川が堀のように周りを取り囲んでいる。その内側にさらに人工的な内堀が構築されている。
 その王宮門であるが、阮朝の第2代皇帝ミンマン帝(1791年~1841年)期の創建、カイディン帝期に再建されている。高さが約17メートル、二層式の中国風の建物で、王宮に入れるのはこの門からのみでチケット売り場がある。3つの門口のうち中央の門は皇帝が外出する時しか使用されず、普段は閉じていたそうである。
 王宮門(Ngo Mon、漢字で書くと午門)の「午」は南の意味でもあり、「聖人君子が南から天下に耳を傾ければ世の中は平和になる」とか、「正午に太陽が建物の真上に来るため」だと言われている。

王宮正門
「午門」部分のアップ
阮朝王宮
阮朝王宮
皇帝との謁見所であった大和殿。中国の紫禁城を真似て造られた
長安門。1886年頃から皇太后の住居であった長生宮の正門

フエ郊外
 1601年に創建されたティエンムー寺は、「幸福と天の恵み」を意味するトウニャン塔(慈悲撘)と呼ばれる塔を持つ。高さ21.24メートル、七層八角形の堂々とした姿である。

フエのシンボル的な塔であるティエンムー寺(天女の寺)のトゥニャン撘(慈悲の塔)
石畳を敷かれた正門内側の広場
第1番目の建物である。ミンマン帝の功績を讃える石碑がある
ミンマン帝の功績を讃える石碑
石碑のある建物の背後から見える第2番目の建物、顕徳門
顕徳門をくぐり抜けると第3番目の建物、崇恩殿が見える
崇恩殿には皇帝と皇后の位牌が安置されている
さらに進むと3本の橋が架かっていて、第4番目の建物につながる
第4番目の建物、明楼
中にはテーブル一つ以外に何も無い
明楼から墳墓が見える
3連門を通って、三日月型の池を渡ると墳墓に辿り着く

 

門の柱は豪華に彫刻されている
最終の墳墓

ベトナム・ホーチミン

今回は音楽から
 “沸騰するアジア”の一角を担う「ベトナム」を旅することにした。「した」と言うからには自分の意思である。但し、その根拠は希薄で、世界地図を目の前にして公私にかかわらずに出かけた所を塗りつぶしていくと、アジアに空白が目立ったのだ。「ベトナムは?」。「何となく」だった。これぐらいで良いですか?
 私の、というか、私達の世代で「ベトナム」と言えば、最初に頭に浮かんでくるのは、「ベトナム戦争」である。長期にわたるベトナム戦争そのものは、「サイゴン」が陥落した1975年(昭和50年)に正式に終結したわけですが、その頃は大学の至る所に“看板”が立っていたことを思い出します。
 次に「ベトナム」で思い出すのは、一気に飛んで、「ミス・サイゴン」である。「ベトナム戦争」を題材としたミュージカル「ミス・サイゴン(MISS SAIGON)」である。ヨーロッパへ出かけると、時間の許す限り夜はクラシックとオペラ with wine 、そして向こうの友人達と一緒の時は芝居なのだが、1993年10月に出かけた時は、同行した娘二人の希望もあって、「ミュージカル」をその中に入れた。ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでフィルハーモニア・オーケストラを聞いた翌日、ウエストエンドで「ミス・サイゴン(MISS SAIGON)」に魅せられた。以来、ニューヨークで、ウィーンで、…と、ミュージカルをさまようようになった。
 ただし、この時の旅では、「ミス・サイゴン」を観た(聴いた)後は、仕事でパリに渡り、「国際会議」の主宰で贅沢にも「PRIVATE ORGAN CONCERT IN NOTRE-DAMノートルダム寺院におけるオルガンコンサート」、そしてサルプレイエル(Salle Pleyel)でパリ管弦楽団等々、クラシックが続いた。サルプレイエルは、凱旋門から歩いて10分位。1829年のオープン以来、ショパンやラベルなどに愛された由緒あるコンサートホールで、“パリ管”の根城である。
 “最近の傾向?”を見ても、「ミュージカル」と言っても、ニューヨークよりウィーンが多い。やはり、“本籍クラシック”なのだろうか?どうでも良いことだが、妙に引きずる。

音楽が続く
 今回のベトナムの旅は、私の大学時代の同期(以後、“ご学友”)がハノイに住んでいるので、いつもの完全一人旅とはちょっと違って、何かと便利である。詳しくは語れないが、彼は、学生時代からドラムスを叩いていた男で、私がクラシックやオペラの傍ら?凝っていた「マックス・ローチ」、「チャーリー・パーカー」、「MJQ」などのLPを私のマランツ、アルテック、…のオーディオ・システムで聴いて語り合った頃が懐かしい。お笑いください、半世紀前である。
 その“ご学友”のアドバィスである。「ホーチミンシティ(サイゴン)のベンタイン市場はどこに行くにも便利な場所で、近くに日本人がオーナーの経済的ホテルがある。そこを予約しておく」。「空港からもバス1本で行ける」。久々の学生気分で、今で言うバックパッカーと称せられる若者達が好んで使う「市場」、「経済的」、「バス」と強調する辺りがおかしかった。助言通りに、タンソンニャット国際空港のターミナルを出て最初の車道を渡ると右端にバスが並んでいる。ベンタイン市場行きの152番のバスは、乗車後直ぐに発車した。
 大まかな旅行日程としては、「ホーチミンシティ」、「メコンデルタ」、「フエ」、そして「ハノイ」に行って“ご学友”と“会い” & “語り”、その後カンボジアの「シェムリアップ」に飛んで、お分りですね、世界遺産(文化遺産)の『アンコール・ワット(英語: Angkor Wat)』の遺跡見学である。

クチトンネル(ベンディントンネル)
 今日は、実質的にハノイ初日。昨日、ホテルを通して予約しておいた「クチトンネル・ツァー」への参加である。“ご学友”の助言は、「ベトナムでは交通インフラが発展途上なので、郊外へ出かける場合は旅行会社が主催するツァーに参加するのが合理的かつ経済的である」と言うことだった。とくに私のようなブラブラが好きな旅行者には、色々な国から人々が訪れて合流する英語ツァーが勧められると言う。“ご学友”の助言に素直に従って、「クチトンネル・ツァー(英語版)」に参加した。“ツァー・メイト”には敗戦国のアメリカ人も多いので、クチトンネルへの彼ら彼女らの反応も興味がある。アメリカに敵意を持っているわけではない。念のため、自分で言うのもおかしいかも知れないが、私は性格は良いほうだと、自分では思っている。それよりも何よりも、とくに若い人達にとっては、「ベトナム戦争」は今では歴史なのである。
 その「クチトンネル」である。南ベトナム 政府軍、アメリカ軍、韓国軍 などと戦ったベトナム戦争で勝利した「南ベトナム解放民族戦線」(俗称、ベトコンVietcong)が人力で建設したトンネルである。ホーチミン市の中心から北西に約70キロメートルのクチからさらに約30キロメートル離れた場所にクチの地下トンネルがある。このエリアは鉄の三角地帯と呼ばれ、難攻不落と言われた解放戦線の拠点があって、アメリカ軍はついに枯葉剤を投下するに至った。これに対して解放民族戦線は、総距離25キロメートルものアリの巣のようなトンネルを手掘りで掘り、ゲリラ戦を展開した。結果として、報道、映画、ミュージカル、TVドラマ、多種多様な出版物等々でご存知のように、南ベトナム解放民族戦線は勝者となったのである。
 この地下トンネルは現存していて、「ベンユオックエリア」と「ベンディンエリア」があるが、ツァーで訪れるのは主に後者である。

地下トンネルの見学の前に
 英語版トンネル見学のツァー・メイトは、当然のことだが外国人が多かった。迎えのバスの中では、欧米人の英語が飛び交い、中国語やハングルも聞こえてくるが、日本人は私一人のようだ。参加者は目的が同じせいか、すぐ仲良しになり、共通語の英語で会話が弾む。
 バスが出発して1時間も経ったろうか、 “HH(HANDICAPPED HANDICRAFTS)”と書かれた大きな看板が目立つ建物の前でバスが止まった。住所は分からない。この種の言葉は用心して使わなければならなく、handicapped とdisabled の違いなど、とても難しい。ここでは、読者の語学力に頼って、冠詞が付いていないが、“HANDICAPPEDな人々の HANDICRAFT”とでもしておきましょう。絵画や工芸品などの制作者が一心不乱に作業をしていた。個人的には螺鈿が好きなので、職工の技に見とれながら楽しい時間を過ごしていたが、ツァー・メイトがウィンクしながら「ショッピングタイムズ・オゥヴァー」と教えてくれたので、制作者に「ありがとう」とお礼を言ったところ、「こんにちは」と言われた。日本人が多く訪ねてくるのであろう。この種の“工芸センター”、“土産物屋” のことを「ツァー会社やガイドの収入源」などと言う人が多いが、ツァー主催会社、土産物屋さんが潤うことも確かであろうが、「買う、買わない」は本人次第であって、観光客は自分流に楽しめば良いのである。私の旅のスタイルからして日本発のツァーに参加することは無いが、現地発のツァーに参加した場合は、そう割り切っている。
 日本の伝統の和服がベトナムで作られていることはよく知られているが、もちろん品質は横に置いといてだが、総じて器用な人々である。

HH(HANDICAPPED HANDICRAFT)”の入口
見事な腕である
螺鈿材料の制作
螺鈿作品
ここはパリか、それともマドリッド?

ベンディン地下トンネルエリアの見学
 “HH”からツァーバスで約40分で「ベンディン地下トンネル」に着いた。最初に、パンフレットが配られ、次に約20分間のVTRが上映される。解放民族戦線の戦いの様子を記録したものである。その後は大まかな案内がある程度で、友達同士やバスでなんとなく一緒になったグループが、思い思いに歩いて見て回る。
 地上から3メートル、6メートル、8メートルの三層構造になっている所もあり、司令塔室、会議室。病院、学校、台所、寝室などがあって、軍事用の機能を持つトンネルであると同時に、住民達は地下トンネルトンネル内で生活できるようになっていたのである。
 空気の入れ替え用の空洞が付いているが、基本的には地下トンネルなのでムッとする臭気と湿気が漂っている。トンネルの通路部は狭く四つん這いにならないと先に進めない場所が多かったが、広くなっている所もあった。これは観光客用に広げられているそうだ。
 さて、方向音痴の私である。二叉、三叉に分かれた、まさに迷路を腰をかがめて歩くのは相当に厳しい。同じ所を何度も行き来して地上に出られない。見かねたメイトに助けられてやっと地上に出ることができた。「ホッと一安心」、…、「じゃ、なかった」。「落ちたっ」、「ワナだっ」。「わぁー、ブービートラップ(booby trap)だ」。
 説明します。「ブービートラップ」とは、(色々な意味があるが、)ゲリラ組織が一見無害に見えるものに仕掛けたワナ(トラップ:trap)のことである。油断した兵士(まぬけ:booby)が触れると爆発したり、スパイク状のもので殺傷する猟師のワナのようなものを「ブービートラップ」と言うのである。まぬけな私が地上に出られてホッとした時に、あらかじめ仕掛けられた布と枯れ葉で隠した落し穴に足を取られたわけである。本物のワナは穴の中にスパイクや毒が塗られた針などが仕掛けられているが、私のかかったそれは偽物だったので事無きを得たのだが…。ここには、当時使われていたと思われるワナが展示されており、その仕掛けの怖さに思わず身震いしたものである。参考までに、展示されていたワナは、window trap, fish trap, saw trap, clipping armpit trap, rolling trap等々と書かれていたが、個別のことはよく分からない。

射撃体験
 ベトナム戦争当時に使われていた本物の銃が展示されている(写真参照)。この銃を使って射撃体験ができることから人気の催しもの?である。但し、初めて銃に触る人が大半なだけに、写真の左側に写っている小型の銃、AR15とAK47自動小銃のみが体験できる。料金は「弾丸一発6万ドン」と掲示されていたと思う。多くの観光客が銃を撃ちまくっていたが、当然のことながら初心者が多くて近寄るのが怖かったので私は遠慮した。皆さんの打ち方じゃ、あれじゃぁね。まぁ、いいか。いずれにしても、撮影禁止だったので、残念ながらお見せできない。
 実は、私は猟銃を保有していた時期があった。「あった」と言うからには、ある理由で止めたのである。1979年( 昭和 54年)1月26日に、有名な「三菱銀行人質事件」が起きた。三菱銀行北畠支店に猟銃 を持った男が押し入って、客と行員30人?を 人質 にした 銀行強盗および 人質事件である。また、この頃、今で言う「非社会的勢力」の抗争が頻発する物騒な時代でもあった。銃の保有に対しても当然のことであるが、規制が厳しくなり、例えば、銃の保管に使っている鉄製のロッカーの周囲をさらに鍵付きの鉄棒で囲むなどの処置が要求された。さらに私はこの年から家族で渡英することになり、銃の保存は実質的には不可能になったわけである。

クチトンネルのチケット売場
トンネル見学前のビデオ鑑賞
クチトンネルの断面図
落とし穴だと分かりますか? カモフラージュされています
落とし穴のトラップはこの写真のようになっています。落ちたら体にスパイクが刺さるようになっている。怖い
トンネル坑内と外界との空気流通穴
トンネル内の抜け道
解放戦線の兵士のマネキン
1970年に地雷で爆破された米軍戦車

 

仕掛け(罠)について説明する係員
Window trap
Clipping armpit trap

Rolling trap
電気仕掛けで動くマネキンが爆弾を解体している様子。当時のベトコンは、敵が落とした爆弾などを回収して活用していた
実戦で使用された銃。左側のAK47自動小銃は射撃体験用として現在使われている
ゴムタイアの端材。スリッパの材料などに再利用される
スリッパが結構売れていた。サイズごとに価格が決まっていてMサイズで45,000ドンであった。自分たちの足跡をわからないようにするために、前後を逆にして履いていたと聞かされた
狭い通路。突き当たりには、さらに下の層への入り口がある
他意は無い、偶然です
米軍のB52 爆撃機の爆撃によって出来たクレィター跡

サイゴンリバー・ディナークルーズ
 ホーチミン市の幹線通りと言えば、ドンコイ通りである。市民劇場からサイゴン川に向かって東西に走る道で、都会っぽい雰囲気が受けるのか、日本人に人気のあるホーチミン観光の中心と言っても良いであろう。ドンコイ通りの一本南側にグエンフエ通りがある。この通りがサイゴン川に突き当たる辺りから、「サイゴンリバー・ディナークルーズ」のクルーズ船が出る。この辺りには我が国の総領事館やベンタイン・バスターミナルなどがある。
 クルーズの乗船料そのものは、1USドルと安いが、料理は前もって選んでおくシステムで1品3万~15万ドンとバラエティに富む。20時30分に出船して約1時間のクルーズを楽しむことになる。私が予約した部屋は個室だったので、ウエィトレスと言うか、古典的に言うと「酌婦が必要かどうか」と聞かれたが、「必要無い」と答えると、私をホテルからここまでオートバイで送ってきた旅行会社の女性社長が相手をしてくれた。

ディナークルーズ船
ディナー団体客
クルーズ船からの夜景
船から陸側を写す

ホーチミン市内観光

1428年に明の支配からベトナムを解放した黎利王の下で活躍した将軍チャン・グエンハイ像
1908年のフランス統治時代に建てられたホーチミン人民委員会庁舎。パリの市庁舎をベースに建てられている
ホーチミン氏の像
1880年に建てられたサイゴン大教会(聖母マリア教会)。赤レンガはマルセイユから、ステンドグラスはシャルトルから取り寄せられた
十字架がかかっている白っぽい部分は1895年に増築された
サイゴン大教会内部
教会内部の美しいステンドグラス
分かりますね。これ、日本でやったら、受けるでしょうね。お幸せにね

戦争証跡博物館
 読んで字のごとく、「戦争証跡」博物館である。ベトナム戦争の歴史を実戦で使用された戦車、大砲、爆弾などの遺物、写真、パネル、枯葉剤による被害状況の記録等々によって展示している。目を覆いたくなるような展示の相当数をカメラに収めたが、怒りと涙でここに載せ続けることができなかった。救いになるのは、子供達の描く絵であった。

戦争証跡博物館
博物館の屋外には戦闘機、戦車、砲弾の類が野ざらしで陳列されている。右側は巨大ヘリコプター CH-47 Chinook
軽量ジェット戦闘機 F-5A Jet Fighter
展示パネルの中には日本のものもあった
砲弾の展示
子供のための平和
少しはホッとします
少しはホッとします
ホーチミン市のチョロン(中華街)にある聖方済各華人 天主堂(別名、聖フランシスコ・ザビエル教会)。フランス植民地時代の1900年に建てられたネオ・ゴシック様式のカトリック教会である

ホーチミンの水上人形劇
 旅行記などによると、水上人形劇(Water Puppet)の起源については、定説が無いそうだ。難しい話をすると、9世紀の中国・宋代にまで遡る説などがあり、一旅行者の手におえる話ではない。ハノイのそれが有名だと旅行ガイドブックに書かれていたが、ホーチミンでもフエでも楽しもうっと」。凝り性と言うか、もはや病気である。
 ホーチミン市で、最も大きく代表的な水人形劇場はゴールデンドラゴン水上人形劇場Golden Dragon Water Puppet Theatre (別名:ロンヴァン水上人形劇場)である。ホテルをとったベンタイン市場近くから徒歩で15分ほど、主要観光地の「統一会堂」の直ぐ近くとアクセスが良かったので、前もってチケットを買っておいた。それが良かった。水上人形劇の開演は17時および18時30分からの50分公演であったが、両公演ともほぼ満席状態であった。入場料は一席15万ドンくらいだった気がする。日本円で1000円に満たないのだから本当に安い。
 ベトナムの民話、伝説、神話などを題材にした物語が伝統楽器の生演奏と歌をバックに進む。同時進行で、長さ30~100センチメートル、重さ1~5キログラムの人形を水上でテンポ良く、あるいはダイナミックに、そしてコミカルに動かし続ける。高い技術力を必要とするこの水上人形劇は、まさに永く受け継がれてきた伝統文化と言えよう。
 

Golden Dragon Water Puppet Theatre「金龍水上人形劇場」
水上人形劇

ホーチミン
 今日もホーチミン市の市内観光である。ホテル近くの界隈を稼ぎ所にしているバイクタクシーのおじさん達も声をかけてくる

何度かお世話になったバイクタクシーのおじさん
玉皇殿(福海寺)が見えてきた
玉皇殿(福海寺)は、20 世紀初頭に広東人移住者のために建てられた寺院で、現在も道教と仏教の両方の信者が訪れる。願掛けとして亀を放す習慣があるそうで、そのせいか、別名「亀の仏塔」とも呼ばれている
熱心な信者
亀がうじゃうじゃ。こんな言葉、あったかな?
サイゴン大教会の横にある中央郵便局
サイゴン中央郵便局は天井が高く、美しいアーチを描いている
舎利寺(サーロイ寺)
1744年に建てられたホーチミン市内最古の仏教寺院である覚林寺(ヤックラム寺)
覚林寺には七重の塔がそびえ立っている
お墓のあるエリアを更に奥に進むと大きな白い仏像が安置されている
布袋さん