北インド・アーグラー郊外

アーグラーへ向かう途中の風景
 アーグラーはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市で、世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラー城塞があることで知られる。車のチャーターなので移動の自由度が高く、また建設中の道路を見たいので、ジャイプルのビルラー寺院を見学した後、一気にアーグラーへ向かう。日本国がかつて発展途上にあった時代の国土造成の景色が次から次と現われ、懐かしく、そして興奮する。日本でもかつて一部の地域であったらしいが、牛糞を道路脇に集めて乾燥し、それを燃料として燃やして使う、ある意味で合理的であり、またサステイナブル(sustainable)な方法に改めて感心する。牛の多いこの国では清掃も兼ねる道路管理であると言えば、冗談がきついだろうか。子供達が牛糞を奪い合う姿は、なにか微笑ましいが、その陰に厳しい経済環境ががあることも忘れてはならない。

アーグラーへ向かう。道路工事中
Rape blossoms(ナタネ菜)
牛の糞(燃料)
高速道路のトールゲートを建設中
ラージャスターン州(州都はジャイプール)とウッタル・プラデーシュ州(州都はラクナウ)の境界
ウッタル・プラデーシュ州(UP州)から振り返って写す

ファテーブル・スィークリー
 個人的にイスラーム文化が大好きで、色々な国のイスラーム建築を見てきたが、建設中のそれを見たのは1997年5月にイランの首都テヘランを訪ねた時である。テヘランで開催された「土木工学に関する国際会議」に出席した折、会議の議長の特別の計らいによって、新しく建設中の『イマーム・ホメイニ聖廟』の建設現場を個人的に見学する機会を得た。セメントコンクリートでドームの構造部分を造り、その上をタイルで装飾する手際は見事としか言いようが無かった。インド旅行編の中でイランのイスラーム建築を出したのは、イスラーム建築の特徴であるアーチやドームを多用する例を見ていただきたいためである。それに対して、これから御紹介するインドの『ファテープル・スィークリー』では、屋根や庇などの木組みを石で表現したような造りに特徴が見られるからである。同行してくれた建築を専攻する大学院生の話だと、インド古来の建築様式や技法を反映しているのだという。
 ファテープル・シークリーとは「勝利の都市」を意味する。ムガル帝国 (1526〜1858年)の第3代皇帝であるアクバル帝は、世継ぎに恵まれなかったが、聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言によって男子を得たことから、1571年にこの地に首都を移転し、その後5年をかけて都を建設した。しかし、水不足で14年後には移転を余儀なくされ、赤砂岩で築いた宮廷やモスクはわずか14年間(1574~1588年)しか使われなかった。逆説的な言い方をすれば、短期間しか使用されなかったため、建築物は痛まないで残っているとも言えよう。1986年に世界遺産に登録された。

モスク地区
 ファテーブル・スィークリーの遺跡はモスク地区と宮廷地区に分けられている。先ず、モスク地区を巡る。アクバル帝が1573年にグジャラート地方を征服した記念に丘の上に建立した高さ54メートルの巨大なブランド・ダルワーザ(勝利門)に向かう。赤砂岩に白大理石の象眼を施したムガル建築の最高傑作と言われる。
 門を通って中に入ると、四方を囲まれた大きな中庭になっており、左側にインド最大級の面責を誇るジャミー・マスジット(金曜モスク)がある。ここのモスクには、アクバルが息子を授かると予言した聖者シェーク・サリーム・チシュティーなどの廟(ダルガー)が祀られていることから「ダルガー・モスク」という呼び名もある。
 勝利門を入って左側にあるのは「ダルガー・モスク」であるが、真正面に二つの廟がある。二つのうちの左側にあるのはアクバル帝が息子を授かると予言したサリーム・チシュティーの墓である。そして、右側にあるのは聖職者や聖者が講話などを行う建物(ジャマート・カーナ)であったが、サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されたために「イスラーム・カーン」の名で呼ばれている。建物の中やその周辺には沢山の墓石がある。

イランのテヘランに建設中のイマーム・ホメイニ聖廟(1997年テヘランにて撮影)。写真の右側は、まだ施工中の建築物である
イスラーム・カーン廟。サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されている
サリーム・チシュティー廟(1580年、1606年)。最初は赤砂岩と大理石で造られたが、後に全てを白大理石に置き換えられた
モスク地区のジャミー・マスジット(金曜モスク)
モスク地区のブランド・ダルワーザ(勝利門)。高さ54メートルの巨大な門である
水は貴重である

宮廷地区
 宮廷地区で目立つ建物は、列柱に支えられた階段状の5層の吹き抜けからなる『パンチ・マハル(5層閣)』である。下層の柱の形状が一つひとつ異なっている。解説書によると、建物前の中庭には十字形に方眼が刻まれており、ハーレムの女性達をチェスの駒に見立てて、それを王が上から眺めたそうである。
 もう一つ、大勢がカメラを向けていたのは、宮廷地区の政務部分にあたる『ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)』である。吹き抜けの室内の中央には巨大な柱が建っており、2階の回廊につながる橋でこの柱の上に渡る構造になっている。ここには玉座が置かれ、王は貴賓や賢人達を迎え入れた。

パンチ・マハル(5層閣)
五層閣を支える柱石だが、木組みを思わせる構造になっている
五層閣を支える柱
ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)は、宮廷地区の政務部分にあたる
ディワーネ・カースの室内中央に巨大な柱が建っており、2階の回廊からこの柱の上に渡る構造になっている

 

庭園

タージ・マハル
 威厳のある赤砂岩の正門横から横250メートル、奥行き350メートルの敷地に入っていくと、正面に泉水と庭園を前景にしたタージマハル(Taji Mahal)の姿が見えてくる。青空にそびえ立つ白大理石の完璧なシンメトリーは、「佇まい(たたずまい)」という表現がぴったりの静かな気品を醸し出している。基壇のディメンションは、95メートル四方、本体は57メートル四方、高さ67メートル、四隅の塔(ミナレット)の高さは43メートルである。1983年に世界遺産登録されている。
 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)が、皇帝になって3年目、1631年に妃のムムターズ・マハルが亡くなった。皇帝は、その死を悲しんで、ムガル帝国の国力を傾けて妃のために墓陵を建てた。「マハル」というのは、この亡くなった后の称号ムムターズ・マハルが変化したもので、「宮殿」という意味ではない。
 後に、この膨大な費用のために国が傾いて後継者争いが生じ、息子が第6代皇帝アウラングゼーブ帝となり、タージ・マハルを造った第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグラ城に幽閉されてしまうのである。そして、人間の運命とは奇なるもの。今度は、親を幽閉した息子の第6代皇帝アウラングゼーブ帝の第一妃、ディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓が、17世紀後半に息子のアーザム・シャーによってアウランガーバードに構築された。この「タージ・マハル」にならって建てられた廟墓が、「ビービー・カー・マクバラー廟」である。この名前は、「婦人の墓(Tomb of the Lady)」の意味だそうだが、タージ・マハルと似ているために「貧乏人のタージ」の愛称を付けられている。
 「ビービー・カー・マクバラー廟」については、後に別稿インドの「アウランガーバード」編で再度登場してもらう予定なのでお待ち下さい。

斜め横から撮ったタージ・マハルの門。南の正門である
タージ・マハルの門
門の天井
タージ・マハル
水面に映ったタージ・マハル
正面内部から撮ったタージ・マハル
内部のアップ
幾何学的な文様(アラベスク)、かつ抽象概念をも装飾書法(カリグラフィー)をもって表現するイスラミック・カリグラフィーが美しい
ミナレット
タージマハルの隣に建つモスク
大理石の浮き彫り
ここで大失敗。車を待たせた出口と違った扉から出てしまって戻れなくなり、「絶対にダメだ」の係員と喧嘩をしている人が私も含めてたくさんいた。規則を守らせるというより、頑迷な態度で、「不愉快な奴だ」の英語が飛び交っていた
「タージ・マハル」に似ていることから「貧乏人のタージ」の愛称で呼ばれるディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓(インドの「アウランガーバード」に建つ)

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