中国・マカオ特別行政区

マカオ
 マカオは、マカオ半島、タイパ島、コロアン島からなり、3本の橋でつながれている特別行政区である。1999年12月20日に120余年のポルトガルの統治から中国への主権返還がなされた。広州からバスで行くことも出来るので、身近な旅行先として人気が高い。

広州からマカオに向かうバスの乗車券
香港へ向かう途中の給油ステーションのガソリンの価格(2017.4.28現在)。日本のガソリン価格と比べて安いですか、高いですか?

マカオの食事
 日本人にとっては、マカオと言えば、「中国政府によるカジノが唯一認可されている行政区」であろうか?私が宿泊したホテル、珍しく立派なホテルだったのだが、カジノがあったが、宿泊のみの客と動線が厳然と分けられていたので、カジノの様子は分からない。
 カジノに興味が無くても、地元の料理も楽しめるせいか、レストランや居酒屋風の食堂に日本人が屯している。そしてポルトガルは、かつては日本に大きな影響を与えたこともあってか、ポルトガルの統治下であったマカオは日本人に人気が高い。
 私は、これまでにポルトガルに何度か足を運んだが、親日的な人々に惹かれ、また、食の嗜好が口にあって、特に塩味を中心とした魚介類が大好きである。勝手に“漁師味”と名付けて、日本から出かける方々に推薦している。ラッキーなことに、マカオの味付けがポルトガルのそれに似ているのである。そもそもよく考えてみると、中国の広東地方の一漁村であるマカオが“漁師味”を残していることは、当然と言えば当然であると言えよう。

三平汁
 私は、日本国の北に棲む人間であるが、最近では昔ほど見られないが、「三平汁」と言う郷土料理がある。塩で寝かした(塩漬けにした)サケやニシンなどの魚と野菜を一緒に煮込んだ料理であるが、底の浅い大き目の皿、「三平皿」で食べるのが一般的である。松前藩の藩主が狩りに出た際に、斉藤三平という漁師の家であり合わせのものを煮こんだ食事を供されたのが、その起源であると言われている。
 勝手な理屈になってしまいそうだが、皆さん、マカオにお出かけになった際には「三平汁」をお試し下さい。うんちくを傾ければ、地元民に受けること間違いありません。本当においしいのですから。
 海が出てきたので最初の写真は、海の女神、媽祖を掲げたい。

台湾や中国南方で信仰されている海の女神、媽祖を祀っている媽祖閣(まそかく)の山門。阿媽とも呼ばれる
西湾湖(せいわんこ)の埋め立て地にある高さ338メートルのマカオタワー。橋の向こうの遠景は中国である。若い人が多い理由が分かった。ギネス世界記録に認定されたバンジージャンプ、減速降下するスカイジャンプ、スカイウォーク等があるのだ。私は、この種のものは、勘弁してもらっている
西望洋山の高台に建つペンニャ教会。オランダ艦隊の攻撃から逃げ延びた船員と乗客によって1622年に創建された
ペンニャ教会前に建つ聖母子像。聖母子はここからの素晴らしい眺めを楽しんでいるのだろうなぁ
ペンニャ教会の内部は明るくシンプル
16世紀中頃にイエズス会によって建てられた聖ロ-レンス教会。現在の外観と規模は1846年に再建されたものである。ポルトガル人船乗りの家族は、教会の階段に集まって彼らの帰還を祈ったことから、「風順堂」と名づけられたそうである
教会のミントグリーンの天井から下げられたシャンデリアやステンドグラスが美しい
1860年ポルトガル国王ドン・ペドロ5世を記念し、マカオ在住ポルトガル人の共同出資で建てられたドン・ペドロ5世劇場

1728年に聖ポール大学とともに創設された聖ヨセフ修道院

セナド広場
 ツアーなどによるマカオ観光の出発点となっているセナド広場Largo do Senadoは人気の広場である。実は、道路を学ぶ者にとって、ポルトガルは石畳やモザイクタイルで著名な国であって、そのせいもあって、ここマカオの石畳は職人が勉強をする場でもあるのだ。別の道路関連の協会誌に頼まれて上梓したフォト・エッセイ(本ブログの『旧写真旅行記No.14 世界の道-ポルトガル中部から北部へ~ポルト・アヴェイロ・コインブラ・バルセロスそしてブラガ~、2003年04月』)に御紹介したように、繰り返しになるが、ポルトガルのタイル装飾アズレージョが施された壁は世界的に著名なのである。
 話をマカオに戻して、ポルトガル風の石畳とパステルカラーの建築物が映える小さな広場、セナド広場を是非訪ねて欲しい。仁慈堂大楼が建つ腕っききの職人達により作られた波状の地面の鮮やかさは、見逃せない。

セナド広場の一角に建つ、白が美しい新古典主義様式の建物、仁慈堂大楼。現在は公証役場として使われているが、コロニアル様式の仁慈堂博物館の展示室にはイエズス会の紋章が描かれた陶器の壺、宗教関係の祭具、美術品が展示されている。広場には噴水があるので「噴水池」とも呼ばれている
聖ドミニコ教会。バロック様式が美しい。メキシコのアカプルコからやってきたドミニコ修道会のスペイン人修道士3人によって1587年に創建された。かつて鐘楼だった建物は博物館として約300点に上る宗教的な装飾品を展示している。教会の中は観光客でにぎわう広場の喧噪とは異なり、別世界のような静かな空間を保っている

聖ポール天主堂跡
 1582年に聖アントニオ教会付属の礼拝堂として建てられたが、1601年の火災で焼失。翌1602年から30数年をかけて再建するも1835年に焼失。現在はファサードと階段壁の一部のみが残っている。下の写真のアップ画像に見られるように、壁面の真ん中に配置された聖母マリア像、マリアを囲む天使、悪魔、竜、花々などの像から、これまた目が離されない。

聖アントニオ教会付属の礼拝堂として建てられ、後に大部分が焼失した際に残ったファサード部分
壁面中央の聖母マリア像、天使、悪魔、…等
モンテの砦の大砲台
カジノホテルのグランド・リスボアとリスボア。香港からのマカオ日帰り旅行を考えている若者達は、香港→マカオのフェリーターミナル→リスボアの無料バスでマカオ市内→市内観光後→リスボアの無料バスでマカオのフェリーターミナル→香港、と移動して交通費を節約していました。思いがけない出会いがあるかもしれない、頑張れ!若者
ギアの聖母礼拝堂(左)と灯台(右)。聖クレア修道院を建設する前にギアの丘に居住していたクラリスト修道女によって建立された
聖ラザロ教会。ハンセン廟の病院付属の礼拝堂としてここに聖マリアを祀った。この病院の守護聖人が聖ラザロだったため、教会は通称、ラザロ堂と呼ばれる
マカオを楽しんで、これから香港に向かう。香港行きフェリーのチケットも万全だ

マレーシア・イポー&ジョージタウン

イポー
 今日はクアラルンプールからイポー(IPO)への移動日である。イポーはマレーシア北西部にあるマレーシア第三の都市で、この国を代表する地下資源である錫の採掘で栄えた街だ。華人が多く住む東南アジアのチャイナタウンといった雰囲気の町である。
 目的地のイポーの観光と同時に、イポー~クアラルンプールを結ぶETS(高速電車)、KTMインターシティの列車の旅を楽しむことが目的でもある。私の求めた列車のチケットは、マレー鉄道(www.ktmb.com.my)のKL Sentral 発09 :00(EG04)→IPO 11 :20 着の2時間20分の行程である。
 いつもの癖であるが、車窓の景色に飽きると列車の中で文庫本を読む。もう数ページで終わりそうだ。乗った時から気になっていたのだが、40代のきりっとした日本人がなんとなく、…、彼もイポーで降りるようだ。これもいつもの癖だが、「終わりましたので、よければ、…」と、本を差し上げた。当然のことだが、びっくりなさって、「現地生活が長いので」と気持ちよく受け取ってもらった。「ここで、蝶や他の虫などを日本に送っています。ヘビ園も有名ですが、是非、蝶園にお出かけください。」「ホテルが決まってなければ、…」。そこは大人の別れ方で、気持ちよく、「さようなら」。良い旅になりそうだ」

コロニアル風の建築様式を巧みに取り入れたイポー鉄道駅
イポー鉄道駅

ペラ・トン/サン・ポ・トン
 イポー観光の目玉の一つは、洞窟寺院(中国寺院)の見学である。豊富な石灰岩の素材と生産量を生かして多くの洞窟寺院が建てられている。ペラトン(霹靂洞)は、12.8メートルもある金色の仏陀の座象や40体を超える座像が人気の的で、多くの観光客が訪れている。
 近郊バスステーションからNo.35のバスで約15分、RM1.50で行くことができ、嬉しいことに、寺院の入場料は無料である。

ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン(霹靂洞)
ペラ・トン内部にある黄金の仏像
リン・セン・トン(霊仙洞)。トコン・ナム・トン(南天洞)の隣にある
佛 縁
三蔵法師とお馴染みの一行である
トコン・ナム・トン(南天洞)。三寶洞の隣にある
サン・ポ・トン(三寶洞)。イポーで最も古い19世紀後半に造られ、1912年に発見された中国の仏教寺院(洞窟寺院)である。地元ではパワースポットとして知られる
イポー駅から徒歩5分程の場所にあるバーチ・メモリアル・タワー。英国初代駐在官 J.W.W.バーチの追悼碑である
メモリアル・タワーの拡大写真

イポーからジョージタウン
 イポー・バスターミナルから約3時間でバタワース(Butterworth)へ行き、ここから20~30分間隔で運行しているフェリーに乗船、約25分でペナン(Penang)島のフェリーターミナルに着く。ここから市内のバスターミナルまでは徒歩圏内である。
 ペナン島の中心は、英国の統治時代の面影を残す、いかにも英国っぽい名前を付けられたジョージタウンである。大まかに言うと、フェリー乗り場からジョージタウンの中心街まで1~2キロメートルと近い。したがって島内の観光の脚はバスの利用で十分である。人気のバス会社であるラビッド・ペナン(Rapid Penang)は、ジョージタウン内にCAT(Central Area Transit)と呼ばれる無料バスを走らせている。車体に“Hop On Free(乗車無料)”と表示されたバスで、ガイドブックに観光場所を網羅したルートマップを載せている。私はあらかじめ予約しておいたホテルでこのルートマップを入手し、方向音痴故に何度も同じルートを行き来した。

イポーからバタワースへバスで移動中
時計塔 Victoria Memorial Clock Tower
コーンウォリス要塞。1786年、キャプテン・フランシス・ライトが最初に上陸した場所に建造された要塞。「コーンウォリス」は、当時の東インド会社提督の名前に由来する
コーンウォリス要塞の入口
ペナン島に入植した広東人と福建人によって1800年代に建てられた観音寺。ペナン島最古の中国寺院
観音寺の屋根や柱には美しい彫刻が施されている
1801年インド人のイスラム教徒カウダー・モフィディーンによって建てられたカピタン・クリン回教寺院。インドの伝統的なムガール様式。カピタンはキャプテン、クリンはマレー語でインド出身者をそれぞれ意味する
カピタン・クリン・モスク。“礼拝中”は訪問お断り
カピタン・クリン回教寺院の内部
ドームにミナレットが付いている
極楽寺院 Kek Lok Si Temple
極楽寺院。1890年から約40年をかけて建てられたマレーシア最大の仏教寺院
中国、タイ、ビルマの3つの様式が混在する高さ30メートルのパゴダが美しい。この八角形の塔で7層のパゴダには1万体の仏像がはめ込まれていると教えられた。このことは、まさに異文化が共存するペナンの多様性を意味している
鶴山極楽禅寺
鶴山観音聖像
寝釈迦仏寺院(ワット・チャヤマンカララーム)の五重のパゴダ(仏塔)。1900年に建てられたタイ式と中国式のミックスした造りになっている
本堂には、1958年に造られた金箔をまとった全長33メートルの巨大な寝釈迦仏。裏側に信者の骨壺。コムタのバスターミナルから103番のバスで行くことができる
寝釈迦仏寺院の五重の仏塔

ヘビ寺
 今日は、気味が悪い方もいらっしゃるかもしれませんが、生きた蛇がうじゃうじゃいるペナンで人気のヘビ寺へご案内します。
 イポーからジョージタウンに移動した時に、ペナン島の島内移動にはバスの利用が便利で、とくにラビッド・ペナン社が運行するCATと呼ばれる無料バスや他に運行するルートが便利であることを御紹介した。今日はそれを利用する日である。ジョージタウンから102とか401のラビッド・ペナンで40分前後でヘビ寺に行くことができます。ただし、車内では停留所のアナウンスがないので、乗車の際にドライバーに「スネィク」と告げておくのが良いかと思います。私の場合は運転手に「ヘビね」と返されました。
 1850年、病気や傷を治す不思議な力を持つチョー・スー・コンという僧を祀って建てられた中国儒教寺院である。旅行記には、1986年に秋篠宮殿下(当時)もご訪問されていることから、日本人観光客に人気の高いお寺であるそうだ。蛇たちは寺の守護神として拝められており、毒牙も抜いてあるので「安心だ」と言われているそうだ。私は恐がりで、「安全」ではなく、「安心」だけでは信用しない。料金を払ってヘビと記念写真を撮る勇気?は無い。

中国儒教寺院のヘビ寺
生きているヘビ。どなたかに言われるまで分からなかった
えっ、生きている?怖いっ

 クアラルンプールからここイポーに向かった時に列車の中でお話をお聞きした「蝶園」が近くにあったので訪ねてみた。田舎で育ったので、珍しい風景ではなかったが、さすがにこれだけ大きな施設になると、皆さんにもお勧めしたい。是非、お出かけ下さい。そして近くにある私の大好きな”漁師町”、”テロッ・バハン”もお勧めである。是非、お出かけ下さい。

ヘビ寺近くにあったバタフライ・ファーム(蝶園)
蝶園で見た蝶の舞
蝶園で見た黒蝶
蝶園で見た蝶の舞
ヘビ寺近くにあるテロッ・バハンの海岸をブラブラしていて、網の修理をする漁師さんの技術に見入った。この網の目を見ると、大き目の魚がいるようだ
テロッ・バハンの海岸。レストランではマレー風寄せ鍋 ”スチームボート”がお勧めです
アチェ・モスクのエジプト風ミナレット。インド人囚人の手によって1808年に建てられた。アルメニアストリート近くにある
サイド・フサイン・アイディドによって建てられた
クー・コンシー(邸公司)。福建省から来た邸氏一族が設立した中国寺院。コンシー(公司)とは祖先を祀る廟のことで、敷地内は寺院と集会場から構成されている。焼失後、1960年代に改修された
ジョージタウンの時計塔
ペナン島のジョージタウンから対岸のバタワースを望む
フェリー船内
バタワース駅にある蒸気機関車 

マレーシア・クアラルンプール

マラッカからクアラルンプールへ
 マラッカ(Melaka)の長距離バスターミナル(Melaka Sentral BT)からクアラルンプール(Kuala Lumpur, KL)のプドゥラヤ・バスステーション(Hentian Puduraya BS)へ約2時間。主要都市を繋ぐだけあって豪華なバスが頻繁に行き来している。

マラッカからクアラルンプールへ向かう豪華バス

 クアラルンプール市内の交通手段は、他の大きな都市と同じように、電車、市内バス、タクシーが中心である。方向音痴の私にはバスの細かい乗り回しは難しく、ホテルのスタッフから助言されたように、遠距離は電車やバスを使い、込み入った場所や短い距離ではタクシーを使うのが合理的なようだ。その電車であるが、LRT(Light Rail Transit System)、KLモノレール(KL Monorail)、KTMコミューター(KTM Comuter)、MRT(Mass Rapid Transit)と至れり尽くせりである。今日はゆっくりと休んで、明日からこの交通システムを駆使して、「KLをブラブラしようっと。」

バトゥ洞窟
 いつもの私流(わたくしりゅう)の「旅は町の中心からではなく、遠くから始める」は今回も同じ。クアラルンプールの町の中心からではなく、北郊外約10キロメートルに位置するヒンズー教の聖地バトゥ洞窟Batu caveから始めたい。同じホテルに泊まった韓国の青年もバトゥ洞窟に向かうと言うことで、彼が調べてくれたルートで一緒に出掛けた。KL Sentral駅よりKTMコミューター(Plathome3 Sentul方面)に乗って約30分→『Batu Cave駅』下車→出口を出てすぐ、である。
 鍾乳洞バトゥ洞窟の入口に立つ「ムルガン(Murugan)神像」は、高さ42.7メートルと世界で最も高い神像である。韓国青年の話だと、神像には300リットル以上の金が使用されていると言うことであるが、純金ではなく合金だとしたら重量ではなく体積で表現されても合理的ではないので、金の重さの実感が湧いてこない。とは言っても、黄金に輝く神像は迫力があるし、ましてや、最高神シヴァの次男でヒンドゥー教の軍神だと聞くと、緊張感がある。
 傾斜のきつい272段の階段を上がると大鍾乳洞のいたる所にヒンドゥーの神々が祀られている。

ヒンドゥ教の聖地・バトゥ洞窟
仏像の左側に見える階段は急勾配で足腰にきつい
上から階段を写す
上に上がって仏像を背後から写す
272段の階段と眼下の街を引き寄せて写す

ピンクとブルー
 ピンクとブルー、例えばカジュアルなズボン(パンツ)をはいて、上にスゥエーターを着る場合は、あなたはどちらの色を選びますか?季節、着るものの素材、中に着るシャツなど、ややこしい条件は横に置いといて、あなたは…。私は黒いズボンが圧倒的に好きなのですが、上の条件であるならば、ピンクとブルーのスゥエーターを選ぶことが多い。黒あるいは濃紺のズボンにピンクのスゥエーターが定番のせいか、ゴルフ場のキャディ達にはすぐに見つかってしまう。「??さん、また池ポチャやったでしょう」。
 無駄口が多すぎました。今日は色の名前が付いたモスクの話である。クアラルンプール郊外にあるプトラ・モスク(Masjid Putra)とスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク (マレー語:Masjid Sultan Salahuddin Abdul Aziz)のことである。それぞれのモスクの色の特徴から、前者は「ピンク・モスク」、後者は「ブルー・モスク」と呼ばれているが、方向が違うので、二つのモスクを午前と午後に分けて訪ねることにした。

プトラ・モスク(ピンク・モスク)
 プトラ・モスク(Masjid Putra)のあるプトラジャヤ(Putrajaya)駅までは、K Lセントラル駅から電車(KLIAトランジット)に乗って行くことができる。ピンク系の花崗岩を使用していることから、「ピンク・モスク」と呼ばれている。女性は必ずローブ(着衣)を着なければならなく、男性も短パンの場合はローブを借りることが求められる。貸し出しは門を入って右手にあり、無料である。

プトラ・モスク(ピンク・モスク)の敷地内部から撮影した連邦政府庁舎 
プトラ・モスク内における禁止事項が表示してある
プトラ・モスク(ピンク・モスク)
モスクの内部
プトラ・モスク(ピンク・モスク)の敷地内部から撮影した連邦政府庁舎
ここまでプトラ・モスク

スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク(ブルー・モスク)
 スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク (マレー語:Masjid Sultan Salahuddin Abdul Aziz)は、マレーシア・スランゴール州の州都シャーアラムにある。青色をしていることから、通称、ブルー・モスクと呼ばれている。1988年3月に完成、最大収容人数24,000人のモスクは世界第4位の大きさと言われる。一見して分かる青い屋根が特徴で、高さ142.3メートルの4本のミナレット(尖塔)は特に目立つ。
 行き方は、急ぎたい方はKTM「Shah Alam」駅からタクシー(電車+タクシー)、KTM「Shah Alam」駅からバス(電車+バス)の利用、のんびり安いのがお好きな方はLRT「Pasar Seni」駅からバスでブルー・モスク近くのバス停まで所要時間約1時間、と選択肢がある。

ブルー・モスク
ブルー・モスク
ブルー・モスクと庭園

マスジット・ヌガラ(国立モスク)
 高さ73メートルのミナレットがそびえるマスジット・ヌガラは1963年に建てられた国立モスク。女性には入口でローブとスカーフを貸してくれる。

マスジット・ヌガラ(国立モスク)について説明したプレート


注記)以上のクアラルンプールに関する旅日記は、マレーシアの他の都市における旅日記と同様に2014年3月~4月に訪ねた際の記事であり、以下のクアラルンプールの旅日記は、2012年2月に訪ねた際の記事である。

ペトロナス・ツィンタワー
 1998年にクアラルンプールに完成した高さ452メートルの超高層ビル(ツインタワー)である。ペトロナスタワー(Petronas Twin tower)あるいはペトロナスタワーズとも呼ばれている。日本と韓国の合作で、タワー1(KLCC公園から見て左側)は日本のハザマ、タワー2(KLCC公園から見て右側)は韓国のサムスン物産の建設である。ご想像の通り、お互いの会社(国?)の威信をかけて、…、…、急ピッチで建設が続いた結果、41階を建設した段階で、…、。もちろん、この傾きは修正され、ビルは完成して、現在供用されていることはご存知の通りです。

空港から市内へ向かう時に最初に見えるペトロナス・ツィンタワー。タワーが傾いて見えるとしたら、写真の撮影技術のせいで、タワーの建設技術の結果ではありません
夜のペトロナス・ツィンタワー(加工済)
夜のペトロナス・ツィンタワー。高さ452メートル、88階。アメリカ人建築家シーザー・ペリー氏がイスラムの教えからイメージして設計した

ドレス・コード
 高さ452メートルのペトロナス・ツィンタワーの中にあるマレーシア交響楽団ホール(Petranas Philharmonic Orchestra Hall in Twin tower)で行われたマレーシア交響楽団(Malasia Philharmonic Orchestra)の演奏会に行ってきました。イスラムの国で、イスラムの交響楽団で初めて西洋のクラシック音楽を聴きました。日本から直接、支配人にメールをお出ししたところ、ご丁寧な返事と同時にチケットを当日ボックス・オフィスで受理できるなどの手配をしていただきました。ありがとうございました。
 近年の世界の傾向で、カジュアルな格好で演奏会場に出かけたのですが、入り口で足止めをされ、「スニーカーをホテルまで行って替えて来い。ドレスコードを読んでないのか」と強い口調で言われた。経過はともかくも、青い目をした上品なご婦人が「後ろの席にお座りになったら」と、とりなして事なきを得たが、…。という経緯から、演奏に関するコメントは無し。
 外国で出会うこの国の方々や大学生と話をしたイメージとは違う「原則絶対重視」の姿勢を旅のあちこちで感じます。大事なことなので、しっかり守って楽しく過ごしましょう。

参考までに原則重視の例
 郵便局から日本向け船便小包を出す時の注意事項。 ①送る中身を局員に見せる②日本で言う油紙のような紙を買って中身を包む③それを持って行った紐で包む④箱に入れて書いた書類と一緒に局員に出す。ここで、要注意。②の油紙は文房具屋で売っている所定のものを使う→荷物(中身)を最後に入れる箱も文房具屋で売っている所定のものを買って使う→…→。これらの作業(文房具屋へ行って買うことも含めて)、一度に言えっていうんだ。油紙を買うために、箱を買うために、…→私目は100メートル離れた文房具屋へ何度も雨の中を歩くのである。日本で育った私目は何と甘やかされているんでしょう?

雨の話が出たついでに
 雨の話が出たついでに、雷の音も徹底している話である。場所は依然クアラルンプールの市街地、季節は2月の夕刻、スコールと言うんだろうか、いきなり雨が降り出した。小さな子供では傘をさしていられないほどの強さである。道路排水もしっかりした場所であったが、排水が追い付かず、15分ほどでスニーカーはおろか、さらに10センチメートルほど水につかり、前が見えないほど雨が叩きつけてくる。そして、どぉ~んと強烈な雷がして、皆さんが悲鳴をあげる。本当に生きた心地がしない、…、ビルに逃げ込むとエレベーターが止まっていた。雷が落ちた場合への対処なのであろうか。雷までというか雷も徹底しているのである。

ツィンタワーのコンサート・ホールのロビー 
コンサートホールのボックスオフィス
スリ・マハ・マリアマン寺院。マレーシア最大のヒンズー寺院。1873年建立
スリ・マハ・マリアマン寺院
寺院上部のアップ画像
寺院の内部
マスジット・ジャメ・クアラルンプール。クアラ・ルンプールとはマレー語で「泥の川の合流地」という意味。クアラ・ルンプールにはゴンバック川とクラン川の2つの川があり、その川の合流地点に建っているモスクがマスジッド・ジャメ・クアラルンプール
連邦事務局ビル。現在は、最高裁判所、高等裁判所。ムーア様式のレンガ造りで、クアラルンプールのシンボルともなっている高さ40メートルの時計塔が目印 

                                            

ムルデカ広場の隣に建つ国立歴史博物館

マレーシア・マラッカ

今日はマラッカから
 私は、現在、中国の昆明にいる。昨日、中国雲南省シャングリラから戻り、ここに1泊して明日、シンガポールシャンギ空港Singapore Changi Intl Apへ移動の予定である。私はこの昆明の街が好きで、特別に目的もなく、ブラブラするのが楽しいのである。気候のせいもあって穏やかなのである。私のような旅人も結構多く、お互いに旅の話をしたり、世間話をしては時間をつぶしているのである。
 今日のお話は、(私が勝手に名付けた)「路上マッサージ」である。道路脇に並べた椅子にお客さんに座ってもらって、目の不自由なマッサージ師がカセットテープで音楽をサービスしながらマッサージを施すのである。ところが私が想定していたことと「違った」。何が、どこが「違うのか」、お分かりになりますか?きっかり15分の時間がなぜ全盲のマッサージ師に分かるのか?以前、私達が開発した特殊な材料とセンサー技術を使って視覚障害者の誘導技術の共同研究をN社と行なったことがある。その時、研究に参加された全盲の視覚障害者さん達が、カヴァの無い針のむき出しになった腕時計を使って針に触って時間を認識していらっしゃるのを覚えているが、ここは時計は使いません。もう、お分りですね?お分かりにならない方は、余程深く科学する方だと思います!そうです、15分間の音楽を流していたんですね。もうひとつ。料金のコインはともかくもお札(さつ)がどうして分かるのか、未だに分かりません。
 肩のコリが楽になった所で、明日以降の旅行日程である。目的地はシンガポールではなく、マレーシア国内の旅行である。空港からMRT(電車)でジョホール・バル(JB)へ移動し、ちょっとブラブラして、旅のスタートはマラッカからである。ジョホール・バルへの移動中に何かと面倒を見てくれたおばさんに、マレーシアで一番交換率の良いのは街の両替商であることを教えられたので、それに従った。RM1(マレーシァン・リンギット)=¥31であった。このハリキリ親切おばさん、「アルコール飲料は高い。ビールは低課税なのでビールを飲め」とも教えてくれた。その迫力に思わず、「ハィっ」と言ってしまった。

路上マッサージ。15分で20元
路上マッサージ。白衣を着た方達がマッサージ師である
ジョホール・バルからマラッカへのバスチケット
豪華バスの内部

オランダ広場付近
 あちこち寄り道しすぎたので、今日は、いきなりマレーシアのマラッカである。マラッカのバスステーション、マラッカ・セントラルMelaka Sentralは、町の中心から2.5キロメートルほど北にある。中心部へはローカルバス17番に乗車、バングアン・メラBanguan Merahで下車すると、オランダ広場Dutch Squareが目の前にある。この広場はマラッカ川に架かる橋の目の前に位置する広場である。まさに、マラッカの市街中心部にあり、濃いピンク色のスタダイスStadthuys、ムラカ・キリスト教会Christ Church Melake、時計台など、オランダ統治時代の建物が建ち並ぶ。
 予約しておいたホテルのチェックインを済ませ、シャワーを浴びた後、早速、ブラブラ開始である。

オランダ広場
オランダ広場から海の博物館方面へ行った所にある水車
マラッカクルーズを楽しむ観光客
オランダ広場。右側のマラッカ・クライストチャーチChrist Church Melakaが目立つ
マラッカクルーズを楽しむ観光客
海の博物館 Maritime Museum
海の博物館。巨大な木造船
博物館内部
マラッカ川沿いは観て良し、歩いて良し、船に乗って良し、一人で良し、二人で良し
派手に飾って売り歩く
マラッカとイスラム教の歴史を知るムラカ・イスラム博物館Melaka Islamic Museum。刺繍の入った布や装飾品などを並べた狭い展示室が1つある博物館で、2008年に世界文化遺産に登録された
マラッカ郵便博物館
1912年に建設された独立宣言記念館。マレーシアが独立に至るエピソード、絵画などが展示されている
地元では「ファモサ」と呼ばれるサンチャゴ砦 Porta de Santiago。1511年に対オランダ戦に備えてポルトガル軍によって建設された砦跡である。大砲も備えているせいか、スタイダスに次ぐ人気がある
フランシスコ・ザビエルとセント・ポール教会St. Paul’s Church。ザビエルはここに居を構えた時期があり、1549年にはこの地から日本に向けて出発した
セントポールの丘(St. Paul’s Hill)に建てられたDemocratic Government Museum
マラッカキリスト教会内部
ジョンカー通り
ジョンカー通り
チャイナタウンのジョンカーストリートにある福建會舘&お寺。福建省の歴史等の紹介や海の神様である媽祖を祀る場でもある
ジョンカー街公園

チャイナタウン
 オランダ広場の北西にある橋を渡ると立派な邸宅が並ぶ。マラッカの中心であり、15~19世紀に「ババ・ニョニャThe Baba Nyonya Heritage」あるいは「プラナカンPeranakan(海峡華人)」文化が隆盛を極めた地域である。文献によると、ババ・ニョニャとは中国本土から渡ってきた中国人男性と、地元のマレー系女性が結婚して生まれた子孫のうち、男性がババ、女性がニョニャと呼ばれる。彼らは日常的な生活、例えば、言葉、食文化、衣服などにマレースタイルを取り入れる。他方では、冠婚葬祭には中国古来の習慣に従うのである。つまり、彼らはマレー人としてイスラム教徒になることは無く、マレー文化を取り入れた中国人(華人)なのである。
 トゥン・タン・チェン・ロック通りJl. Tun Tan Cheng lockとハン・ジュバッ通りJl. Hang Jebatと呼ばれる2つの目抜き通りをまたぐように建てられた長さ50メートル~60メートルの長屋風の邸宅が並んでいる。交易で富を築いたババ・ニョニャ達の邸宅である。

露天商が続く
チェン・フン・テン寺院の並びに建つ1728年に建てられたカンポン・クリン・モスク Kampong Kling’s Mosque。スマトラ様式の3層の屋根を持つ。左側に見える白亜のミナレットはパゴダに似ている
阿弥陀仏をご本尊として祀った香林寺。1988年にマラッカのチャイナタウンのハーモニー通りに建っている
1728年に建てられたマレーシア最古のイスラム寺院
船からサン・フランシスコ・ザビエル教会 St. Francis Xavier’sChurchを撮影。この教会の名前はザビエルだが、サン・フランシスコ・ザビエルとは関係ない。ザビエルが居たのは丘の上にあるセント・ポール教会である
サン・フランシスコ・ザビエル教会 St. Francis Xavier’sChurch。1849年にフランス人によって建てられた二つの塔を持つ教会
教会内部
サン・フランシスコ・ザビエルSt. Francis XavierとやじろうYajiroの像

マラッカ市街東部
 マラッカ市街東部に位置する「ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸」、「セント・ジョンの砦」「ポルトガル村」などを訪ねる。

ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸
 1795年に建てられたポー・サン・テン寺院 Poh San Teng Temple。1409年と1411年の明王朝皇帝からの使節派遣を記念して造られた寺院である。この寺を多くの観光客が訪ねる目的は、『スルタンの井戸Sultan’s Well』を見るためである。「干ばつでも水が枯れなかったことからパワースポットとなっている」とのことである。でも、なかなか見つけられず、近くでペッポトルの水を売っていたおじさんとおばさんは、にこにこである。「ポー・サン・テン寺院とスルタンの井戸」を一対の言葉として覚えていて、寺院の門をくぐる度に迷ってしまうのである。門から入らずに広場側(右手)に進むと、塀に囲まれた中央に『スルタンの井戸』があります。この水は飲めません。ということは、「干ばつでも水が枯れないパワースポット」ではなく、「飲み水を必ず入手できるパワースポット」なのである。オランダ広場から徒歩15分くらいと、ちょうど水が欲しくなる距離ですよね。
 もう一つ。この井戸に背を向けて投げ込んだコインが輝きながら沈んでいくと、またマラッカを訪れることができるそうだ。

1409年と1411年の明王朝皇帝からの使節派遣を記念して1795年に建てられたポー・サン・テン寺院Poh San Teng Temple。この入口から入ってもスルタンの井戸には辿りつけない
「スルタンの井戸」。マラッカで一番古い井戸
スルタンの井戸
セント・ジョンの砦
セント・ジョンの砦から眺めたマラッカの町
同じく、砦から眺めたマラッカの町
ここまでセント・ジョンの砦

ポルトガル村
 かつてこの地を支配していたポルトガル人の子孫が「ポルトガル村Portuguese Settlement」と呼ばれて暮らしている地域(ポルトガル・スクエア)がある。その多くはポルトガル名を持つカトリック教徒だそうだ。私が訪ねた時期は季節外れなのか人の出入りが少なかったが、毎年6月下旬に行われる「サンペドロ祭」では、盛大なシーフード祭りが行われるそうである。

ポルトガル村の入口には、「ポルトガル村へようこそ」の大きな看板が建てられている
ポルトガル村の入口には、「ポルトガル村へようこそ」の大きな看板が建てられている
地元の漁民が漁に出かける磯船
貝を採るおばさん
採集した貝の身

ミャンマー・マンダレーヒル

マンダレーヒル
 今日は朝からマンダレーヒルを散歩する。標高236メートルのマンダレーヒルは丘(Hill)全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地である。個人的にはビルマ(ミャンマー)に来たからには一度は訪れてみたい場所だったのである。
 インターネットなど無い時代、某協会誌にエッセィを書き、その一部を改めて本ブログの中で、“方向音痴の旅日記『タイトル:ミャンマー・インレー湖 イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋)』”として数カ月前に上梓した。その中に登場する”第2次世界大戦で日本軍と戦ったビルマ軍(英国軍)“とは、実はこの地における戦いのことなのである。愉快なことではないが一度は訪れてみたい場所だったのである。
 マンダレーヒルの表参道入口を守る2頭の真っ白いライオン「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung」までピックアップをチャーターして向かう。チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung は、第2次世界大戦中、日本軍占領下のビルマ北部に降下し、日本軍を苦しめた英国軍部隊チンディッツの名称はこのチンテーからとられたのである。「チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung とは、「チンテー」がライオン、「ヂー」は大きい、「ナッカウン」はふたつのという意味である。

マンダレーヒル4つの登り口のうち最も一般的な南参道
チンテーヂーナッカウンChinte Gyi Nakaung
マンダレーヒル登り口にあるナッツ神の 1つチンテーヂーナッカウン。白いライオンに似ている
チェードーヤ・パヤーChedawya Paya。南参道を上ると最初の踊り場にある仏塔。仏足石(釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの)を祀っている
ピーロンチャンター・パヤーPyilone Chamtha Paya。4体の仏像が並んでいる休憩所。マンダレーが栄えるようにと願いを込められた仏像
ピーロンチャンター・パヤーの次の踊り場にあるサイッタモー・パヤーSeaitamau Paya。急な階段前の小休止の意味
ビャーデイペー・パヤーByadaikpay Paya。「予言を与え給う仏陀」像。旧王宮の方向を指さしている。金箔で覆いつくされた仏像はチーク材を彫ったもの。高さ8メートル
日本人慰霊碑Japanese War Memorial。日本のみならず、戦った敵方の戦没者も慰霊している
慰霊碑の裏側
数珠(じゅず)を作っている職人
サンダームキ・パヤーSan Dha Mukhi(鬼の仏塔)の像。お布施するものが何もないことに悩んだ末、自分の乳房を仏陀に献上したサンダームキ(鬼)に対して、仏陀はマンダレーの方向を指差し、「お前は来世では王になり、そこに街を造るであろう」と予言し、その通りになったという
頂上のスタウンピー・パヤーSutaungpyai Paya。サンダームキ・パヤーから階段を上ると、ついに頂上。周りは展望テラスになっていて、マンダレー市街、エーヤワディ川、旧王宮などを見渡すことができる
机に座っているのは占い師(有料)
階段を上って上から撮った仏塔
ムイヂーナッカウンMwe Gyi Nakaun。展望台を奥に進んで、下り階段の近くに2匹の大きなコブラの像がある。ムイは蛇、ヂーは大きい、ナッカウンは二つのという意味。コブラの像を見た瞬間はドキッとしたが、皆さんに人気があってカメラが忙しい
クドードォ・パヤーKuthodaw Paya。バガンのシュエズィーゴォン・パヤを模倣して建てられたものである。境内を埋めた729の小仏塔群が有名である
サンダムニ・パヤーSanda Muni Paya。ミンドン王がクドードォ・パヤー王宮を造営の間、西隣にあるこの仏塔に仮の王宮を置いていた。この境内にも1774の小仏塔が林立している
サンダムニ・パヤー境内にも1774の小仏塔が林立している。真っ白いこの仏塔の色を維持するために、ご夫婦と一緒に相当に荒っぽいペンキ塗りを1時間も頑張った
ペンキ塗りの道具
もっと繊細な刷毛を使っているかと思いきや、この箒の様な刷毛を使ってさっさと塗っていく
チャウットーヂー・パヤーKyauk Taw Gyee Paya。マンダレーヒルの麓にある本堂の石仏は、サジン山で採られた大理石の1枚岩から彫られたもので、素肌は金箔ではなく大理石がむき出しである。仏像は1865年にミンドン王(在位1853~1878年)によって開眼された
チャウトーヂー・パヤー(大理石の仏像)の正面から撮った写真
アトウマシー僧院Atumashi Kyaung。第2次世界大戦で破壊された後、1995年にコンクリートで再現された
アトウマシー僧院。「内部は特に見るべきものは無い」とガイドブックに書かれていた
どこの方々でしょう?何故かさっと整列して写真を撮れという。真ん中の女の子を除いて全員がこれだけ整然と並ぶのは結構難しいと思う。「せ~の」とでも言ったのだろうか?
チーク材で作られた木造建築のシュエナンドー僧院 Shwenandaw Kyaung。建物の屋根、外壁、内側や入口の周囲は彫刻で装飾されている。かつては、この建物は王宮の一角にあり、ここを気に入ったミンドン王はその第一夫人としばしば過ごし、また、ここで亡くなった
ガイドブックによると、ミンドン王を継いだティーボー王(在位1878~1885年)は建物を現在の場所に移動し、そこで一人の時間を過ごしたと言う。後に僧院として使われ、現在に至っている
再現された旧王宮
旧王宮と庭
旧王宮内部
王宮博物館
博物館に展示された馬車
ここまで王宮博物館
シュエチミン・パヤーSywe Kyimin Paya。パガン王朝時代に建てられたマンダレー最古の寺院。創建者ミンシンソーが奉納した仏像や英国が占領時代に持ち出していた宝物類など、胸がドキドキする歴史的文化財が所蔵されているそうだが、4月のティンジャン(水かけ祭り)と10月の満月の日の2回だけ公開されているそうだ。残念無念
最後にもう一度、シュエチミン・パヤー

ミャンマー・マンダレー

インレー湖からマンダレーへ
 旅行好きの方は、熱狂的な「市場好き(マーケット好き)」がいらっしゃることを御存知でしょう。インレー湖でも、この市場好きに出会った。インレー湖の市場は、毎日主要市場を時間割のように公開するほど徹底している。私が出会ったフランス人の青年は世界中の市場を廻り歩くほど市場に凝っていて、希望の場所に行くには船をチャーターすると安くなるので、私を誘ってきた。私の今後の旅のスケジュールからして、今日中にインレー湖を出て2日以内にニャウンシュエNyaungshweに入り、その後「マンダレー」に入る必要があったので、お断りしたのだが、彼の知識は膨大かつ正確で、結局、明日、ニャウンシュエの市場に行こうと言うことになった。気持ちの良い奴だったので、それに私自身もニャウンシュエの市場に行く予定だったので、笑顔で握手をした。

ニャウンシュエの市場
 マーケット好きのフレンチ・ボーイのお勧めだけあった。ニャウンシュエの市場は質量ともに盛況であった。

マーケットの入口の焼き物屋さん
量り売りの野菜売り場
ニャゥンシュエNyaung Shweのマーケット
野菜屋さん
魚屋さん
兄弟でお店番
果物屋さん
炭。炭焼きを趣味とする私から見ると上質ではなかったが、材料とする木の質から見るとあんなものか
市場を抜け出して、街のはずれに移動した。観光客相手のアウンパペット劇場は、現在閉幕中であったが、特別に中に入れてもらった
パペットショーに使う吊り人形たちもお休み中である

強行軍
 実は、今夜は夜行バスでマンダレーへ移動する強行軍で、その後マンダレー周辺、具体的にはアマラプラAmarapura、ザガインSagain、インワInwaなどをブラブラする予定である。冷えた飲み水はバスの中に備蓄されており、途中数時間置きにトイレットタイムもとられている。夜遅くまではTV番組が放送されていたが、言葉が分からないのと眠気でほとんど眠っていた。
 マンダレー周辺の都市であるが、権力基盤が弱いため18~19世紀に渡って幾度か遷都が繰り返された。現在ではタウン・ミョー(=南の町)と別称されるアマラプラAmarapuraもその一つで、何度か遷都を繰り返す対象となったことから、パーリ語で「不死の町」と呼ばれている。
 アマラプラへ向かう途中で面白かったのは、朝の9時半頃であるが、バスの中でお坊さんが托鉢を始めたことである。私の旅行中の常食であるキビダンゴを差し上げたところ。とても喜んでいた。お寺へ戻ってから食べてもらえそうだ。この時間ともなると皆さん、動き始めて、バスの中のビデオサービスが始まったり、停車の度にバスの中へ物売り入ってきたりと忙しくなった。

バスの中で托鉢するお坊さん
アマラプラへ向かう路線バスの中のビデオサービス
バスの中へ入ってくる子供の物売り

こんな楽しい所とは思わなかった
 そうこうしているうちに、アマラプラに到着した。バスを降りてびっくり。こんな楽しい所とは思わなかった

アマラプラの露店
賑やかな市場
これは何でしょう?質問してもおじさんには言葉が通じないし…
こんなしゃれた店もありました。Fashion shop PARIS
ドジな奴で、横を向いたとたん、くわえタバコの火でパ-ン
食べ過ぎてお腹がごろごろしてしまった。本当に美味い
托鉢です

もっと楽しい所がありました
 全く知らない橋であった。市場から人の流れに何となくついて行っただけで、ウー・ベイン橋U-Bein Bridgeに出会ってしまった。ミャンマーのマンダレー付近の都市、南の町と別称されるアマラプラについては既に説明した。アマラプラにあるタウンタマン湖をまたぐ橋が今回の旅の主人公である。名前は、「ウー・ベイン橋U-Bein Bridge」である。変わった形状に見とれてスケッチをしていると、若者から「橋が好きですか」と流暢な英語で話しかけられた。あいまいな返事を返すと、「日本人ですか?私達は大学で土木を学んでいます」と笑顔で返された。以下は、学生諸君から教わった講義ノート?からいただいたデータである。
 1849年当時、行政官ウー・ベインが以前の王都であったインワの旧王宮からアマラプラに遷都する際にチーク材を運びウー・ベイン橋(U Bein bridge)を架設した。全長1200メートルにのぼる世界一長い木造歩道橋である。完成から160年以上も経た現在も現役の橋として利用されている。
 私のカメラの写真を見ると、午前の10時30分頃であったが、学生達の話だとここは夕陽の名所として知られ、「夕方の観光スポットは是非、見て下さい」と勧められた。「ありがとう」。

ウー・ベイン橋へ向かう途中、一緒になった大学生二人。橋の勉強に来ていた土木を学ぶ大学生でした
1849年当時、行政官ウー・ベインが以前の王都であったインワの旧王宮から都をアマラプラに遷都する際にチーク材を運び、タウンタマン湖にかかるウー・ベイン橋(U Bein bridge)を架けた。全長約1200メートル
ウー・ベイン橋を渡る
橋の中ほどにある休憩所(「温かくお迎えします&お気を付けください」のプレート)
部材の一部
橋のピラー(支柱)の番号
支柱番号が貼ってあった部材
橋を渡り切った所に私の大好きな天然ジュースの店。右側に青く見えるのがジュース絞り器である
Shin Pin Shwe Gu Pagoda。仏教寺院
パゴダの修理をする職人
黄金の仏像
ここは、毎年5月に何千人もの地元の人々が金箔を提供するシュエ・グー・ニ・フェスティバルShwe Gu Ni festivalの会場であった
橋の下部工を写す

ザガインからバイクタクシーでザガインヒルへ
 ザガインでバイクタクシーを200円くらいでチャーターしてザガインヒルへ行く。ザガインヒルには150以上の仏塔と600を超す僧院が点在。バガン王朝が滅亡した1315年に王都になったが、50年後にインワに遷都される

ザガインでバイクタクシーを約200円でチャーターしてザガインヒルへ行くことができた
寺 院
サンウーポンニャーシン・パヤーの仏陀像
サガインヒルの頂上にある黄金の仏塔
“サンウーポンニャーシン・パヤー”から眺めたエーヤワディ川
ザガイン国際仏教徒アカデミー
マンダレーに戻って市内散歩をした時に見つけたマンダレーの時計塔

ミャンマー・インレー湖

バガンを振り返って、そしてビルマを思い出す
 バガンでは、あまりにも多くの文化を背負った歴史に接してきた。ミャンマー屈指の仏塔や寺院を誇るバガンを歩き廻って心身ともに充実し、そして疲れた。今まで見てきた11世紀から13世紀を中心とした仏教資産は、バガン王国の興隆からフビライハーンの侵攻による没落までの250年余りにわたって建設されてきたものだ。一部は考古学保護区に指定されている城壁に囲まれている部分は、「一種の保護区・オールド・バガン」と呼ばれている由緒ある所で、今(2021年)、改めて思い返している。
 個人的なことであるが、私にはミャンマーには特別の思い入れがある。一つは「映画・ビルマの竪琴」であり、もう一つは1979年英国のTRRLにいた当時、家族と一緒にカーディフ城を訪ねた時の印象である。1980年6月、協会誌に掲載された若かりし頃の文章であるが、ここに再掲したい。

イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋)                  『Fishguardからの帰りに,かつてのWalesの首都Cardiffで一夜をすごした.Cardiff城で毎年行なわれているSearch light Tattooには数日間早すぎたが,ヤギを先頭に行進する軍の雄姿を見る機会を得た.多くの地元の人々が涙を流して声援する光景は筆者には何とも説明しがたい複雑な気持ちになった.そして,巨城Cardiff城内にあるThe Welch Regimertに入った時に観たビルマBurmaにおける日本軍との交戦の記録,戦利品として展示されている“Wood Pecker” Machine Gun(九二式重機関銃)を観た時には,さらに複雑な気持になったことは言うまでもない.若い世代はともかくも,かつて戦った世代には不幸な戦争の傷あとがいまだ消えずといった印象を受けた.しかし,Cardiff城の地下にあるローマ時代の城壁を観た後,誤って非公開の場所に入った時に軍の関係者が「気にするな」と言って笑顔をふりまくほど英国人は寛容であることをぜひつけ加えたい.』(以上)

 最近の(2021年の)ミャンマー(ビルマ)の国の状態が心配である。いかなる場合も、国軍が国民に銃を向けてはいけない。暗い文章になってゴメンなさい。

バガンからインレー湖へ
 楽しかったバガンに敬意を表しつつ、今回のミャンマー旅行の楽しみに一つ、市場巡りに向かいたい。市場があって、物が売られていて、…、ということになってしまうが、市場巡りの楽しみは、確かに物とお金のやり取りなのだが、本質は、“丁々発止”、“心のやり取り”だと思う。私の表現力では、散文的な文字を並べ、近頃ではデジカメ画像をはめ込む、一種の表現の堕落になっていることを深く反省している。ある意味では、文章の裏に隠れた個人的な思い出を綴っているのかもしれない。すみません。

今日も、ミャンマー屈指のマーケット市場であるインレー湖へ行って思い出を集めてきたい。

朝一番でバガンからインレー湖方面へ向かう。日本で使われていた中古バスである
早朝バスだが、そこそこ混んでいる
車窓から見る夜明けの美しさは旅の楽しみの一つ
アスファルト舗装の工事現場。発展途上の国で良く見る風景である
本格的なアスファルト舗装プラントなど無い。ドラム缶に入っているアスファルトを薪を燃やして溶かしている

アスファルトと粒径の大きな骨材(粗骨材)を混ぜて道路に敷き均し(写真参照)、転圧後にアスファルトと砂など(細骨材)と混合した表層材料を敷き均して転圧。温度が下がると交通開放。いやぁ、参った。専門のことを書く時は皆さんへの表現が難しく数十倍も時間を要した

記憶喪失
 ブラブラしているうちに、小さな町をいくつか過ぎて、今の時間は約17時半。側にボート乗り場があり「ジプシーイン」と書かれたゲストハウスで宿泊することになった。実はバガンで宿泊したゲストハウスと親戚にあたる宿屋であった。恥ずかしながら、このあたりの記憶が無く、バガンからご一緒した誰かが書いてくれた私のメモ帳に「ゲストハウス名」、そして「ニャゥンシュエで最も古いヤダナマンアウン・パヤー」と英語で書かれたメモだけが情報であった。そして、私のカメラには「ボート乗り場」、「ヤダナマンアウン・パヤー」、「夕焼け」、「ディナー」等の写真が残っていた。私が確かに訪ねたという証拠である。

ボート乗場
ニャゥンシュエで最も古いヤダナマンアウン・パヤーYadana Manaung Pagoda
ゲストハウスから撮った夕日
ディナーで食べたローストビーフ350円、ミャンマービール200円。無謀な比較ですが、この料金をどう思いますか

心機一転インレー湖巡り
 何とか記憶を繋いで、今日は、心機一転インレー湖巡りに出かける。インレー湖は、南北に22メートル、東西に12メートル、平均深さ2メートル。雨季でも6メートルである。インレー湖で漁業を営むインダー族は、細長いボートのへりに片足で立ち、別の片足を使ってオールを見事に操る。今回は、そのシャッターチャンスを逃して残念。

インレー湖巡りへ出発

水上生活者のインダー族
タンタウンThan Taung上陸。のどかな田園風景を見ながらマーケットへ向かう
マーケットへ向かう途中に見たのどかな風景
お母さんたちは薪を束ねて売っている
そっくりですね
神様が祀られている
竹籠売り
マーケットの入口、美味しそう
野菜の秤り売り
魚の秤り売り
アクセサリー売場
穀類の秤り売り
の秤り売り

マーケットから移動
 マーケットから移動して、職人街みたいな所へ移動する。目的の一つは、金属製のリングをはめて首を長く見せるパダウン族の女性を見たいことと、その機織り(はたおり)技術を見たいことである。

パダウン族の女性の機織り
金属製のリングをはめて首を長く見せる
私は自分は普通の体型だと思っているが、この輪を首に付けたらどんな姿になるのだろう?
機織りの作業
笑顔が素敵
すぐそばの金銀細工
インポーコンIn Paw Khonの糸作り
露店
湖上にそびえる巨大な水上寺院ファウンドーウー・パヤーPhaung Daw U Paya
競うように金箔を貼っているが、寺院の外で高値で金箔を売っているのがいるので要注意
ファウンドーウー・パヤー
約150年前に建てられたガーぺー僧院Nga Phekyaung。仏像の台座はシャン族独特の仏教様式でタイ北部でも見られる
ガーペー僧院は湖上に建つ木造の僧院で、1844年に建てられた本堂の中には色々な種類の仏像が祀られている
ガーぺー僧院の猫がジャンプする様子。今もジャンプネコはいるのだろうか

ミャンマー・バガン

ヤンゴンからバガンへ
 今日は好きな夜行寝台でヤンゴン中央駅からバガンへ移動である。チケットは既に取ってあるし、体調を整えるだけだ。亀に入れた水が無料で提供されるが、日本語でだれが書いたのか、「飲むのは控えた方が良い」そうだ。そのせいか、皆さん、前もって水を買い求めている。それよりも何よりも、安い椅子席の車両の前のホームは席を争う乗客でいっぱいである

ヤンゴン中央駅
ホームの隅に置いてあった亀に入れた飲み水
(安い)椅子席の車両の前のホームは乗客でいっぱいである
列車が発車する時だけではない。走行時の列車の揺れが半端じゃないし、線路横の立木の小枝が車両にぶつかって、慣れないうちは恐怖であった
寝台Sleeper下段 50USD。でも列車の好きな方ならお判りでしょうが、この揺れがゆりかごになって、アルコールの助けは必要なかった

バガンへ移動してゆっくりと
 熟睡したのか、車掌に起こされるまで眠ってしまった。ところで、写真はヤンゴン駅で知り合いになったオランダ人親子である。ヤンゴン中央駅のホーム近くでバガン行きの列車を待っていたところ、屋根の上にいた鳩がフンをして、お嬢さんの髪が汚れてしまった。駅員が御親切に、『申し訳ない』と言ってお嬢さんの頭を手ぬぐいで洗い始め、我々にも新しい手ぬぐいをくれた。それが縁で、バガンに着いた後、この乗合タクシーでパチリ。この後の宿も彼らが予約していたゲストハウス「ゴールデン・ミャンマー」に誘われ、ご一緒させていただいた。

ヤンゴン駅で知り合いになったオランダ人親子
宿泊した「ゴールデン・ミャンマー」ゲストハウス。私は滅多に宿泊所名を出さないが、バガンの他の町でも、ここのオーナーの奥さんと従妹の方が経営しているゲストハウスに宿泊した

バガンとポッパ山
 バガンに来た観光客が必ず訪れるポッパ山は、バガンの南東約50キロメートルと遠い。タクシーを雇うと約4万Kと高い。私の泊ったゲストハウスは旅行会社も兼ねていてこの辺りでは顔ききらしく、他のゲストハウスに泊まっていた若いドイツ人女性と半額をシェアできるようにセットしてくれた。相当な教養人で、ドイツ語が全くできない私に気を使ってくれて、例のストロングアクセントの英語でホッパ山のことを色々と教えてくれた。私も「…の歩き方」の受け売りで英語に訳してもっともらしく応対した。
 ホッパ山は、25万年前に活動を停止した標高1518メートルの死火山。タウン・カラッTaung Kalatと呼ばれる岩峰の標高は737メートル。ミャンマーの土着信仰であるナッ神信仰の聖地とされてきた。花が大好きなドイツ人女性は、「ポッパ」とはサンスクリット語に由来し、「花の溢れた」という意味だと教えてくれた。

朝早く、ゲストハウスの近くを散歩中に見た観光用馬車のエサ
観光用馬車。後ろ足を揃えて上品な立ち方である
日本で使われていた中古トラックを持ち込んでここで使っている
ポッパ山に行く途中で見た牛に引かせた碾臼(ひきうす)
碾臼の中のピーナッツ。絞りかすは動物のエサ
お嬢さんが集めていたピーナッツ油
バガンの南東約50キロメートルに位置するポッパ山の中腹にあるタウン・カラッTaung Kalat
タウン・カラッの岩峰はミャンマーの土着信仰であるナッ信仰の聖地である
山麓に建てられた別荘住宅
タウン・カラッへの参道の入口
ここまでの岩山の階段は 777段 
タウン・カラッから見たホッパ山
頂上にある祠。この中にナッツ神がある
タウン・カラッから見た、麓(ふもと)に建てられた別荘住宅
麓は門前町のようになっていて市場がある
市場では小学生の年頃の子供達が店番をしている。この国の将来を担う彼等・彼女等に必要なのは「教育だ」。ツァーメイトのドイツ人ご婦人と意見が一致したのだが、あれ(私達が2012年にミャンマーを訪ねて)から9年。困難な政治・社会環境にあるかつての子供達はどうしているだろう
豆腐もある
レストラン
ランチ。おかずが多いミャンマー料理。インドカレーほど香辛料は強くない

バガンに戻って
 ホッパ山に登った心地よい疲れとある種の神秘的な雰囲気を身にまとって、バガンに戻ってきた。それ故か、街中は市場に足が向いてしまう。やはり、心と体が浮き立つ。

バガンに戻って
米 屋

自転車を借りてバガンの遺跡巡り
 翌日、ゲストハウスのおじさんに勧められて、自転車を借りてバガンの遺跡巡りをすることにした。自転車は右側通行、あるいは左側通行のどちらかを聴いたが、不思議な顔をして「知らない」と答え、「それよりも、下着の取り換えと冷蔵庫に入っている大きなボトルの水を1本持っていけ」と教えられた。動き出してすぐに理解できた。汗びっしょりだった。下着を替え、教えられたとおりに自転車に括りつけた。気温と風のおかげで乾きが速かった。「よし、仕切り直しだ」。

最初にカメラに収めた景色は、子供達の托鉢の姿であった。数台の高級カメラを持った数人の大人と3人の子供の托鉢僧であった。交換レンズも数本持っている。アジアのあちこちで見る“某国”の撮影ツァーの一行である
子供達に小遣いをあげ、もっともらしい托鉢のジェシチャーとポーズを撮らせて撮影をするわけである
なにかちょっと、可愛そうな気がする
これとは別にミャンマーでは国民皆僧制度。7歳から11歳、20歳を過ぎてからの2回。4日から7日間。得度式と呼ばれ、日本の成人式みたいなもの
自転車を飛ばしていると遠くの景色も近く見える
軽油?ガソリン?をプラスチックボトルに入れて道路脇で売っている

ティーローミィンロー寺院
 次に目に入ったのが、「ティーローミィンロー寺院」であった。バガン王ナラパティスィードゥーが5人の王子の中から後継者を選ぶ時に、傘が倒れた方向に座っていた王子を選んだという。選ばれたのはパガン王朝第8代国王「ナンダウンミャー王」であった。ナンダウンミャー王は傘によって選ばれたので、王が建造した寺院は、「ティーローミィンローHtilominlo Temple(傘の寺)」と呼ばれているそうだ。1215年の建造物で、高さ46メートルの3層のうち2層の各層にはそれぞれ4体の仏像が収められている。
 注)2016年の地震で建物中央の塔が崩れたそうだが、その後の修復工事の様子は確認していない。

パガン王朝後期の大寺院のひとつ「ティーローミンロー寺院Htilominlo Temple」。1218年、パガン王朝第8代国王ナンダウンミャーNadaungmyarによって建立された
ティーローミィンロー寺院
以下、表情の異なる4体の仏像を御紹介する
ここまでティーローミィンロー寺院

タラバー門
 自転車なのでフットワークはいつもより軽い。いつもは、目に入った場所へ「なんだろう?」と好奇心を持って行くのだが、今度は門のある場所を探してそこから入ることになった。「タラバー門」である。この門は9世紀にピンビャー王がバガンの防御を固めるために構築した城壁の東の城門である。ニャウンウー方面からオールド・バガン方面に向かう時に通る門である。門の両側にはバガンの守護神である兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られている。

中国雲南の南詔国(ビルマ人)に滅ぼされた先住民族のビュー族によって9世紀に作られた(町の東側の)タラバー門。門の東側にニャゥン・ウー村がある
両方の門の窪みの中にバガンの守護人である兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られている

アーナンダ寺院
 アーナンダ寺院Ananda Templeは、バガン朝三代目の国王チャンスィッターKyanzitthaによって1090年に建てられた寺院である。アーナンダの名は、釈迦の一番弟子の名前から取ったと言われている。本堂は一辺63メートルの正方形で、4つの入口、中央にそびえる高さ50メートルの塔のバランスは、見事なバランスを保っている。
 私が最も美しさを感じるのは、本堂の中央に高さ9.5メートルの4体の仏像がそれぞれ四方を向いて収められている姿である。書籍によると、南と北の二体が創建当時のままで、残りの二体が火事で焼けてしまい、造りなおされたものだそうだ。

タラバー門の南側にあるバガンで最も美しいとされるアーナンダ寺院
角度を変えて撮ったアーナンダ寺院
寺院の本堂の中央に収められている高さ約9.5メートルの4体の仏像のうち東側を向いている拘那含牟尼 Konagamana
西側を向いている釈迦牟尼 Gotama
南側を向いている迦葉仏Kassapa
北川を向いている拘楼孫仏Kakusandha_thumb
釈迦牟尼の拡大写真
西側の入口にある仏足石(ぶっそくせき。釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの)

タビィニュ寺院
 ティーローミィンロー寺院からタビィニュ寺院Thatbyinnyu Templeへ移動する。パガン王朝のアラウンシードゥー王(1113~1163年)の統治下で建立された。高さ約61メートルの荘厳な姿は、オールド・バガンの城壁内に位置する寺院の中でも圧倒的な存在感を見せる。建物内には大きな黄金の仏様があるが、こちらの寺院を見学する際には、裸足になることが求められるので注意してください。タビィニュ寺院のタビィニュとは、全知者、すなわち仏陀を意味するそうだ。
 なお、タビィニュ寺院の隣にあるタビィニュ僧院には、日本人戦没者の慰霊碑が建てられていることを付記したい。

四角い形をしたタビィニュ寺院
12世紀に建てられたオールド・バガンで 1番高い(高さ61メートル)
黄金の仏像

ミャンマー・ヤンゴン

クアラルンプールからヤンゴンへ
 現在、2021年7月である。9年前(2012年2月)に訪ねたミャンマーについて、記憶を掘り起こし、メモを開きながら記録する作業をしている。現実の社会、政治状況は、「コロナ下で東京オリンピックを開催する是非」、「クーデター後のミャンマーの社会情勢」等々の情報が入り乱れ、社会そのものが複雑な状況にある。記憶が定かでない部分も多いが、その辺りはお許しください。
 9年前の旅(本ブログ)のスタート位置は、マレーシアのクアラルンプールから飛び立ち、ミャンマーのヤンゴン国際空港へ着いたところである。空港からバスでヤンゴン鉄道駅に向かい、近くにあるホテルにチェックインを済ませた。次は、明日夜に発つバガンへの寝台列車のチケットを求めるだけである。私にしては、不思議なくらいスムーズにことが運び、ステップを踏みながら街に出かけられた。

ヤンゴン国際空港の上空から地上を撮る
ヤンゴン国際空港に到着
ヤンゴン鉄道駅の切符売場
ヤンゴンからバガンへの寝台列車の切符。これで全て準備ができた。あとは、ヤンゴンの街歩きだ

ヤンゴンのブラブラ
 いつも通り足の向くまま、気の向くまま、街歩きの開始だ。ブラブラしながら“ヤンゴン”に慣れることだ。探求心ではなく、好奇心、“何かを見る”のではなく、“見えるものを受け入れる”のである。街を歩いて美女を捜し歩くのではなく、目に入る美女を…、どうしよう、うまくいかない、まだまだ、未熟な私です。

少女が顔に塗っているのはタナカ(ビルマ語)で、化粧としてだけでなく日焼け止めとして使用している。タナカの木はタイやミャンマーの国境近くで採れる
サイカー。自転車の横に二人分の座席を背中合わせに取り付けた三輪車。英語のサイドカーの略語のようだ。路地などにあるサイカースタンドで客待ちをしている。私が行きたい目的地は特になく、興味津々で写真を撮るために乗せてもらったので正規の料金は分からなかったが、小銭を見せると、適当に取ったみたいだ。通常は500K~のようだ
陸橋から鉄道を写す
サクラ・タワー。ヤンゴンのビジネス地区のど真ん中に建つ総貸室面積12,425平方メートル、地上高さ約100メートルの20階建てのオフィスビルである。名前からして日本をイメージさせるが、N設計、K組等が頑張って1999年に完成した
アジアの人々が大好きな食べ物と言うよりも、飲み物って何ですか?サトウキビです
皮をむいたサトウキビ(チャンイェ)
サトウキビ絞り器(ジューサー)。最初は、衛生面から敬遠して飲まなかったが、今や熱狂的ファン。本当に美味い
こっちも美味しそうだが、一人じゃ食べきれない
公衆電話
路線バス。日本で使用された中古車が多い
日本の中古バス

スーレー・パヤー
 高さ46メートルの黄金の仏塔(パヤー)「スーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)」は、ヤンゴンのダウンタウンの中心にある、まさにヤンゴンのランドマークである。整然と区画整理されていて、仏塔の周りはラウンド・アバウトになっている。ここを中心に東西にマハバンドゥーラ通りMahabandoola Rd.、南北にスーレーパゴダ通りSule Pagoda Rd.が延びている。仏塔の南東には広い敷地を持つマハバンドゥーラ公園があり、この周辺には英国のビクトリア様式の古めかしい建物が配置されている。
 なお、スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が収められていると言われている。

ダウンタウンの中心に位置するスーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)
ぐっと引いて写したスーレー・パヤー(パゴダ)
スーレー・パヤーで出会ったアベック。寺でアベックとは羨ましいと思っていたが、結構難しい数学を勉強していた。聞いた年齢は控えるが、微分方程式の勉強の真っ最中であった。ちょっと手助けしたところ、何という薬か分からないが鼻先に塗る軟膏をお礼にくれた。鼻の通りが良くなった。頑張れ。若者達
移動式祈願船。ロープに取り付けられた船に供物を乗せて吊り上げて神様に捧げ、願い事をする。「不謹慎だ」と叱られるかもしれないが、帰国後に作ってみたくなった。“お祈り”とか“占い”とかは大好きなんです
そう思ったせいか、スーレー・パヤーから数分の所でこの写真を撮っていた。何かわかりますね。手相見です
もっと驚いた。この辺りには沢山の手相見屋さんが店を並べていた
そしてオーセンティックなスタイルのヤンゴン市庁舎が見える
さらに南へ向かうとマハバンドゥーラ公園が広大な面積を誇っている
マハバンドゥーラ公園の周辺にある露店 
マハバンドゥーラ公園にある高さ46メートルの独立記念碑

ヤンゴン川沿岸
 間違ってヤンゴン市庁舎に入ったところ、案内所みたい所にいた担当者が非常に親日的で、彼から簡単な市内地図を貰ってしまった。それによると、ヤンゴン川(エーヤワディー川の支流)沿いの通りは「ストランド通り」と名づけられていた。英国ロンドンの「ストランド」界隈はロンドンっ子に負けないほど詳しい私である(言い過ぎである)。能書きを垂れたところ、すっかり尊敬されてしまって、英国植民地時代に建てられた税関、港湾事務所、ストランド・ホテルなどに連れて行ってくれました。ロンドンのストランドは、昔、住んでいた頃に家内や子供達とオペラだ、バレエだ、近年では孫とミュージカルだと通っただけなのに、随分と役に立った。ありがとう、皆さん。

税 関
ミャンマー港湾事務所
対岸行きフェリー乗場 Pansadon Jetty

ボータタウン・パヤー
 ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤーはお勧めです。解説書から役立つ情報をピックアップさせて下さい。2500年以上前に8人の僧がインドから釈迦の遺品を運ぶ時に、1000人の兵士が護衛にあたった。この寺院の名前は、この1000人の護衛兵に由来する。「ボー」は「1000」、「タタウン」は「兵士」という意味から、ボータタウン・パヤーと呼ばれる。
 第二次世界大戦中に爆撃を受けたが、パゴダの改修の最中に瓦礫の中から数多くの遺品が出てきて、その中から釈迦の遺髪や聖歯と思われるものが発見されたという。

ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤー(1000人の兵士の塔)
何と表現したら良いのだろう?
この回廊はやりすぎかなぁ?
仏歯を祀る仏塔(Buddha’s Tooth Relic Pagoda)

シュエダゴォン・パヤー
 ヤンゴンのボータタウン・パヤーを巡った後は、ヤンゴンの華「シュエダゴォン・パヤー」をブラブラする。シュエダゴォン・パヤーは2600年以上の歴史を持つと言われる。タポゥタとパッリカという兄弟の商人がインドで仏陀と出会い、8本の聖髪をもらい受けた。紀元前585年にここに奉納したのがシュエダゴォン・パヤーの起源だと言われている。その後、拡張工事を重ね、また度重なる地震などの災害とその修復を経て、15世紀にパゴーの女王シンソープによって現在の仏塔の原型が完成されたと言われる。東西通商の町として栄えたが、1755年にアラウンパヤー王によって破壊された。後にヤンゴンとして復活した。
 東西南北4つの参道が上に向かってあり、エレベーターあるいは104段の階段を使って上れるようになっている。

1841年に鋳造され、ターヤーワディー王が奉納した鐘。別名「3つの音を持つ偉大な鐘」。重さは42トン
マハ・ガンタの釣り鐘
シュエダゴォン・パヤー。尖塔の傘の部分に付いているティ(鈴)がチリーン

ラオス・ルアンパバーン(2)

ルアンパバーンの街を歩いて見よう
 前回登場させたタイトル:ラオス・ルアンパバーン(1)では、ルアンパバーンの市内や托鉢、郊外のバーン・サーンハイ(酒造りの村)やパークウー洞窟などを見学した。このエキサイティングな街は、まだまだ多くの魅力に溢れた文化、民族、人等々に溢れている。訪ねてみるのが一番です、ご一緒しませんか?お寺から行きましょうか。

この本堂のワット・ビスンナラートとそれと正対する仏塔、タート・パトウム(下の写真)を一つにまとめて(ワット・ビスン)と呼ぶ。形状から、すいか寺とも呼ばれる
本堂と正対している塔はタートパトゥム
ワット・ビスンナラートの境内。ルアンパバーンで最も仏像が多いお寺である
ワット・ビスンナラートから撮った高さ150メートルの小さい山にあるプーシーPhousi
二人の仙人が神に導かれてこの山に辿り着き、ルアンパバーンを作ったと言う伝説から「仙人(ルーシー)の山(プー)」と名づけられたそうである
プーシーの近くで商売をしているこの豆乳屋さん。偶然ですが、顔を隠していますが、味もいけますよ
托鉢の帰りだろうか。お坊さんの集団と出会いました
プーシーホテル
ワット・ホシアンWat Hosian。階段に引き付けられて皆さん写真を撮っている

ルアンパバーン国立博物館
 フランス統治時代の1909年、当時のシーサワンウォン王とその一族のために建造された宮殿である。1975年にパテート・ラーオの政権掌握後(王制崩壊後)、博物館として利用されるようになった。館内には、かつて王室で使用されていた調度品や家具、日用品などが展示されている。

王宮博物館のエントランス
ルアンパバーン国立博物館の正面
ルアンパバーン国立博物館に隣接するワット・マイWat Maiは、1788年に建設着手、完成までに70年間を要した。五重に重なる屋根は典型的なルアンパバーン様式である
角度を変えて写したワット・マイ

タート・クアンシーの滝
 ルアンパバーン市内から約32キロメートル離れた所に美しい水しぶきや涼を求めて多くの市民が訪れる「クアンシーの滝」と呼ばれる滝つぼがある。入場券売場のあるゲートまで車で行くことができ、そこから約15分で滝に到着できるため、多くの人々が訪れる。ルアンパバーン市内からトゥクトゥクで約20分、1台80,00~100,000 kip(往復)である。
 地元の人々は水を口に含み、家族で泳ぎを楽しんでいる。私はスィミングパンツを持っていなかったが、それなりに見せて?仲間に入れてもらった。

タート・クアンシーの滝の入り口。上にいる動物は何だろう
クアンシーの滝
クアンシーの滝
流れ落ちる水が非常に美しい

モン族の村
 ラオス北部の古都ルアンパバーンやその周辺を楽しみ、皆様にも下手なご案内で申し訳ありませんが、「アジア最後の桃源郷」と呼ばれる世界遺産の町のほんの一部をご案内してきました。ルアンパバーンの最後は、のんびりと散策が楽しい山岳民族である「モン族の村」を訪れ、自給自足の暮らしを続けているモン族の生活や文化に触れてみたいと思います。

早速ですが、モン族の村の皆さん、サトウキビの皮むき中、ごめんなさい
女性達は、衣類の刺繍などを行っている
売り物はお人形かな?いかにも特徴のある衣装ですね、素敵ですよ
私は北国に棲んでおりまして、冬期間、一部ですが木の香りを楽しんでおります
小さなお店
この子も売り子さんです?
ゴム靴は履いておりましたが、私の子供の頃もこんな感じでした
果実の薄切りを干したドラィフルーツだろうか?
民 家
染め物の乾燥
私も買い求めました。何かはヒミツ
やっと男性が出てきました。この村では、働いているのは圧倒的に女性でした
モン族の村のお母さん達、子供さん達、そしてニワトリさん、ありがとう

ビエンチャン付録
ラオスのルアンパバーン→バンビエン→ビエンチャンへと移動してきた。明日はビエンチャンからマレーシアのクアラルンプールへ移動する旅程で、エァチケットもとってある。今日はビエンチャンの最終日なので、いつも通りの目的なしのブラブラである。
 ビエンチャンには、先に紹介した「タラート・サオ」と呼ばれるラオス随一のマーケットがあるが、今日のブラブラは、このマーケットを御紹介することではない。このタラート・サオの近くに路上マーケットを開く、“精力剤売りのばあちゃん”の店を覗くのである。もっと正確に言うと、“怪しげな精力剤売りのばあちゃん”をご紹介したい。体をくねくねさせ、怪しげな手つきで数々の精力剤の効能らしきことを私には理解できない言葉で説明する。数人の客が話を聞いていたが、どうもばあちゃんは私をターゲットにして仕掛けているようだ。と言うことは、私が最も怪しげに見えたのだろうか?本人は枯れたつもりだったが、ばあちゃん、なかなかの目利きじゃのう。

ビエンチャンのタラート・サオ近くの路上で売られていた精力剤?の数々
怪しげな精力剤売りのばあちゃん
大先輩、なかなかの目利きじゃのう。ピンクのシャツが可愛い