東インド・コルカタ

ムンバイーからコルカタへ
 インドの北東部にあるコルカタ(カルカッタ)は、人口1400万人を超える大都市である。あらかじめネットで予約しておいたジェット・エァウェイズの格安航空券を使い、インド最大の都市ムンバイー(BOM)からコルカタ(CCU)に飛んだのだが、人いきれというか、匂いがすごい。人口密度は、首都デリーやムンバイーを超えるのだから当然かもしれない。フライトは特別の遅れはなく、3時間弱で到着した。「空港カウンターで支払うプリペィド・タクシーが安全かつ安いよ」と、英語で話しかけてきた中国人の青年と二人でエアコン付きタクシーで市内までRS350であった。
 さすが中国人、アジアの歴史について詳しい。今回、会社勤めを辞めて、約1カ月間、インド各地を回るらしい。それで、インド各地について勉強し、色々な情報を持っている。一緒に乗ったタクシーの中で学ばせてもらったことを次のコルカタ略史に超簡単に記したい。

コルカタ略史(英国統治時代はカルカッタ)
 「インド史上、最大にして最後のイスラム帝国であるムガール帝国の時代、ベンガル地方は絹織物、綿、藍などの特産物で知られ、また、交通の要衝であった」から始まって、…、時が経ち、その後、政治的争いから「コルカタは寒村になり」、…、一気に17世紀末にとぶ。「17世紀末」とは?…、…。そうです、コルカタがその歴史で注目されるのは、英国がこの地にインド植民地の拠点、『東インド会社』を設置した17世紀の末頃からである。長い間小さな漁村の一つに過ぎなかったコルカタに、英国が資本投下を次々と進め、加速度的に今日のような大都会に発展したのであった。

ドッキネッショル寺院
 コルカタの雑踏から離れ、フーグリー河畔に向かう。ここに架かる著名な橋、ハウラー橋の写真を橋梁工学を専門とする友人から頼まれていることと、湖畔に佇む美しいお寺、『ドッキネッショル寺院』を訪れるためである。ここは、ラーマクリシュナ教団として知られる聖者ラーマクリシュナがかつてこのドッキネッショル寺院にいたことでも有名である。

ドッキネッショル寺院
寺院のアップ写真
寺院のアップ写真

ナコーダ・モスク
 “ヒンドゥー教の国インド”という固定されたイメージがあるが、実はこの国は様々な宗教、例えばイスラム教、仏教、シーク教などが交錯する多宗教国家である。旅行案内書によると、その中でもイスラム教徒は全国民の13%、大まかな単純計算ではなんと1億4千万人を超えるそうだ。この世界有数のイスラム教徒が集中する国で、人口500万人を超える大都市のコルカタである。当然、モスクがあるはずだ?そこはそれ、相変わらずの方向音痴で、迷って、通り過ぎて、…、行ったり来たり、ありました。そうです、『ナコーダ・モスク』である。
 ナコーダ・モスクは、1926年に建造されたコルカタで1番大きなモスクである。このアーグラー郊外のスィカンドラーにあるアクバル廟を模倣して建造されたと言われている。『スィカンドラー』については、既に本ブログで、『タイトル;北インド・アーグラー市内~アーグラー市内をブラブラ~』と題して、ご紹介した。繰り返しになってしまうが、1613年にアクバル帝のために、息子のジャハーンギールが建てた墓所である。
 緑色のドーム屋根と赤砂岩で造られた絶妙の組み合わせは、周囲の喧騒と雑踏の中にあってひときわ落ち着いた雰囲気を持つ。多くのモスクがそうであるように、吹き抜けがあり、そして天井が高く、一緒に1万人が祈ることのできる開放感のある大きな空間が特徴的である。床は、大部分が大理石であり、信者達が床にひざまずいて聖地メッカのカアバ神殿の方向を示すミフラーブ(壁のくぼみ)に向かって静かに祈っておりました。

遠くからナコーダ・モスクを撮る
コルカタで1番大きいナコーダ・モスクに近づく
どこもそうであるが、モスクの近くはやはり賑やかである
ナコーダ・モスクは、既にご紹介したアーグラーの「スィカンドラー」を模したと言われている
ナコーダ・モスクが模倣したとされるアーグラーのアクバル帝の墓所、「スィカンドラー」である
ナコーダ・モスクの内部にある建物
モスク内部。カメラを見せたところ「OK」マークをいただいた

 

 この塔からアザーンが聞こえる。アザーンは、イスラム教における礼拝への呼び掛けで、ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘のようなものである
各地の時間(時計)が表示されている
これ、あり?
多くの人々が溢れかえっている

 ナコーダ・モスクから北東に1キロメートルも歩くと、フーグリー河に架かるハウラー橋がある。この界隈は市場も多く、フェリー乗り場も近いことから人出が多く、活気のあるエリアである

フーグリー河をまたぐハウラー橋 Howrah Bridge
花の取引。インド人の花好きは有名である
露 店
フーグリー河 Hooghly River
ハウラー橋の歩道側の様子
現代のベンガルの芸術家たちの作品やラビンドラナート・タゴールの描いた絵画絵などが展示されている美術アカデミー

Victorianヴィクトリアン
 『ヴィクトリア記念堂』は、インド皇帝でもあった英国のヴィクトリア女王を記念して建造された。1901年に女王がお亡くなりになり、4年後の1905年に建設に着手、1921年に完成した。一般的には、「西洋建築」と言われているが、青い空に輝く純白の大理石の姿は、確かに『タージ・マハル』をモデルにして造られたと言われれば、そんな気もするが…。
 英国には、何かを評価したり、感想を述べる時に「Victorianヴィクトリアン」という表現がある。「ヴィクトリア調」とでも訳すのであろうが、彼らと長く付き合っていると、隠語的に使う場合もあることに気づく。民俗、階級、教養などによって使う英語が違う彼らのこと、状況によるが、“金持ち趣味”のような皮肉を含めることもある。

モイダン公園は、西側をフーグリー河に接する、南北に約 3キロメートル、東西に約 1キロメートルの広大な公園である
モイダン公園
モイダン公園
巨大なヴィクトリア記念堂
ヴィクトリア記念堂のアップ画像

チョウロンギ通りに沿って
 公園の東側を東西に走るチョウロンギ通りはコルカタを代表する幹線道路で、この通りに沿うように多くの有名な寺院や博物館がある。エコノミーホテルが多く、若者達が集まるサダル・ストリートとチョウロンギ通りが交差する辺りには、地下鉄「パークストリート駅(Park Street)」や市バス、ミニバス乗場が近接し、北側にはインド博物館があるので遊び歩きには格好の場所である。また、地下鉄「パークストリート駅」から一駅南側の地下鉄「メダン駅」や二駅南側の地下鉄「ラビンドラ・サロバー駅」からは、ビルラー・プラネタリウム、ヴィクトリア記念堂、セントポール寺院などの見所が近い。
 ご紹介の順番が逆になったが、実はコルカタはインドで最初に地下鉄ができた街である。但し、地下鉄構内の写真撮影は厳禁なので要注意です。

ビルラー・プラネタリウム Birla Planetarium。上映は 1日6回。近くにヴィクトリア記念堂やセント・ポール教会があるので、ついでにお出かけください
セントポール大聖堂 St. Paul’s Cathedral。高さ60メートルのゴシック式大聖堂
セントポール大聖堂の内部
セントポール大聖堂内部

インド博物館
 インド博物館は1814年に創立された200年以上の歴史を持つインド最古の博物館であるとともに、最大の博物館である。考古学、美術、人類学、地質学、動物学、植物学の6部門がある総合博物館で、とくに古代インド美術のコレクションは世界的にも有名である。それぞれ持ち込み料を支払うことによって、 カメラ(Rs50)やビデオ(Rs1000)の館内撮影が許されている。
 道路を挟んでモイダン公園の向かい側にあるので、ヴィクトリア記念堂からだと公園を散歩しながら30分ぐらいである。地下鉄の好きな方は、パーク・ストリート駅から歩いて5分ぐらいである。

インド博物館
インド博物館内部
インド博物館の内庭
展示物
恐竜はどこの博物館でも人気者
インド博物館内部
ショッピング街。チョウロンギ通りの博物館近辺は、とにかく人通りが多い
ショッピング・モール
ショッピング街
カーリー女神寺院 Kali Temple。ヒンドゥー教のカーリー女神を祀った聖地。地下鉄「カーリー駅」が近い

マザー・テレサの家
 マザー・テレサ(別名;コルカタの聖テレサ)は、1910年8月26日にオスマン帝国のユスキュプ(現在の北マケドニア共和国スコピエ)に生まれ、1997年9月5日にここインドのコルカタ(カルカッタ)で亡くなっている(享年87歳)。母のドラナ(Drana)はルーマニア人、父のニコ(Nikollë)はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。本名は、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュであり、修道名がテレサ、“マザー”は、指導的な修道女に対する敬称である。
 1929年から1947年までコルカタの聖マリア学院で地理と歴史を教え、1944年には校長に任命されている。

コルカタにあるマザー・テレサの家
マザー・テレサの家近くのお店
何という楽器だろう?
マザー・テレサの家
マザー・テレサの家の内部
マザー・テレサの家の内部
北マケドニア共和国のオフリドにあるマザー・テレサの像
北マケドニア共和国のオフリドにあるマザー・テレサの像
St. Saviours Church(聖Saviour教会)
St. Saviours Church
教会近くの池で沐浴をしたり、釣りを楽しんでいる

西インド・ムンバイー

ムンバイー
 ムンバイーの空港から市内への一般的な移動の仕方は、空港の最寄り駅アンデーリーまでオートリクシャーで相乗りし、そこから郊外列車のウェスタン・レィルウェイ(Western Railway)でチャーチゲィト駅(Churchgate Station)を目指す。約40分かかる。駅からホテルへの移動は、私の場合は、あらかじめ予約しておいたゲストハウスまで約1キロメートルであったが、荷物があるのでタクシーに相乗りした。ここは、市内中心部にはオートリクシャーは入ることができないので注意が必要である。
 その市内中心部であるが、16世紀には7つの島々と小さな漁村の集まりだったムンバイーだが、埋め立てによって島々がつながり、漁村と一体になって、19世紀には現在のように半島が突き出た形に変化していった。現在、コラバColaba地区と呼ばれる最南端は最も栄えており、そこから北へ行ったフォートFort地区にはムンバイー大学そしてチャーチゲィト駅がある。
 「ムンバイー」はヒンドゥー教の女神の名前であるが、州都の公式名称が「ボンベイ」からマラーティー語のムンバイーと変更されたのは、1996年のことである。ボンペイはポルトガル語の「良港=ボンバイア」に由来する呼び名である。1661年にイギリスへと割譲され、現在、我々が目にするコロニアル風の町並みがスタートした。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ、“クイット・インディア=インドを立ち去れ”運動を展開した。ムンバイーはインド独立後、最終的にマハーラシュトラ州の州都となった。
 インドが現在、世界の映画産業の中心地の一つであることはご存知かと思いますが、そういう私は、「ボリウッド」という造語を知りませんでした。『ボンベイ+ハリウッド=ボリウッド』では、ヒンディー映画産業の中心地として年間900本以上の映画を制作しているそうだ。

シヴァージー・ボーンスレー(Shivaji Bhonsl、1627年4月6日 – 1680年4月3日)の像。闘うヒンドゥー教徒と言われている。17世紀後半、インド北西部のヒンドゥー勢力マラーター王国を起こした創始者かつ初代君主である
ムンバイー・チャーチゲィト駅
駅前の相乗りタクシースタンド。とても便利であった
National Gallery of Modern Art(国立現代美術館)

ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda、1863年1月12日 – 1902年7月4日)の像。インドの哲学者・宗教家

コラバ地区
 最も旅行者に人気のあるコラボ地区にはたくさんの見所があるが、写真を撮るのに観光客が集まっているのはインド門辺りである。かつては植民地支配の象徴だったインド門も、現在では、観光客、地元の親子連れやカップル達の憩いの場となっている。英国国王(インド皇帝)ジョージ5世とメアリー王妃夫妻の来印を記念して、湾に面して建つ巨大な門、インド門の建設が始められ、1924年に完成した。その後は、英国本土からの来印歓迎式典の会場となった。現在はエレファンタ島行きのフェリーや湾内観光船の発着所となっている。実物を見ると分かるのだが、門の下には約600人を収容できる。それほど巨大なのである。

インド門。英国王(インド皇帝)ジョージ5世夫妻の来印を記念して1911年に建設を始める
インド門。この裏からエレファンタ島までの12キロメートルを船で約1時間

 19世紀末、ムンバイー一の資本家であったジャムシェードジー・ターターが外国の友人と某ホテルに夕食に出かけたところ、ヨーロッパ人専用である旨を告げられ、入場を拒まれた。愛国心溢れるターターの義憤を刺激し、…、では終わらない。超一流人物の証である。ここで彼は母国の入口とも言えるムンバイーに世界に通用する一流ホテルの建設を思い立つのである。当時の先進国である欧州に渡り、エレベーター、発電機などの最新機器を調達、さらにエッフェル塔に魅せられて塔を支えている錬鉄(れんてつwrought iron)製の鉄骨を調達した。専門的な説明は避けたいが、炭素の含有量が少ない錬鉄は鋳鉄に比べて強靭で、また、ある程度の量産が可能であることから、鋼鉄の大量生産の手法が発明されるまで建造物の部材の材料として利用されていた。
 構造物の建設競争を調べると、素材革命の競争でもあり、新材料、新技術を利用した構造物の開発競争、例えば、英国のアイアンブリッジ、ドイツのケルン大聖堂等々、枚挙に暇がない。アイアンブリッジについては、私の滞英中、とくに1979年は建設200年記念の行事が英国各界で続いたため、日本から来られる関係各位をご案内した記憶がある。この話の詳細については、本ホームページのいくつかでご紹介したので、ここでは省略させていただきたい。

 注)アイアンブリッジは最初に建設された鉄橋とされるが正確には異なる。1755年には、コストの観点から放棄されたがリヨンで鉄橋が一部建設されている。また、1769年にはヨークシャーで水路を跨ぐ錬鉄製の歩道橋が建設されている。

インド門の前にある、通称、タージマハル・ホテル。インド・サラセン調とゴシック様式が融合。インド一の富豪ジャムシェードジー・ターターが建てた
海側から見たタージマハルホテル

 個人的なことで恐縮であるが、私は信徒ではないが、長い間、拝火教 or ゾロアスター教( Zoroaster 、ザラスシュトラZarathushtra、ドイツ語読みで ツァラトゥストラがイランで興した宗教)に興味を持ち、1997年にイランのイスファハンを訪ねた折、山の上にある拝火教寺院の跡 および町にある新しい寺院を訪ねたことがある。急に拝火教の話題に転じたのは、ターター一族はパルシー(拝火教徒)と知られいるためである。写真の一部をご紹介した。
 ここは(ササン朝)ペルシアの国教であった拝火教を話す場ではないので、残りは割愛させていただくが、インドについて話す場合は、『ターターTATA』を避けては通れなく、その一部をご紹介させていただいた

イスファハンにある拝火教寺院の跡に登った
日干しレンガで作った神殿のようだ。吹き抜けになっている。ササン朝ペルシャ時代(3世紀頃)の建造物と推定されている
山の上から見た街の一部
寺院跡でパチリ

舌がもつれる
 「チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤ」。何度読んでも最後まで一気に読み切れない。どなたか舌のもつれない、短いニックネームを見つけてください。1905年、英国の皇太子(The Prince of Wales)の訪印に合せて建設された建物で、最初は(英国のしきたり通り?)、プリンス・オブ・ウェールズ博物館(The Prince of Wales Museum of Western India)だったのだが…。
 日本語のオーディオガイドも用意されている。見所は、ヒンドゥーとイスラムの細密画のコレクションで、多くの人達が足を止めていた。インドの大財閥ターターTATA家のコレクションもありました。

チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤ。インド・サラセン調の建物
チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤの入口
展示物
展示物
チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤの外庭

エレファンタ石窟
 ムンバイから北東へ約10キロメートル、ムンバイ湾の真ん中に浮かんでいるエレファンタ島へは、インド門裏手から出る船で約1時間、普通クラスでRs120である。巨大なインド門が次第に小さくなっていく。到着してから石窟の入り口まで約100段ほどの階段を徒歩で登っていく。籠を利用することもできる。帰りは機関車に似せた乗り物で戻ることができるので安心だ。
 この島には。7窟のヒンドゥー教の石窟寺院があり、内部には彫刻が残されている。6~8世紀の作とされる石窟があり、すべてシヴァ神が祀られている。16世紀に発見したポルトガル人によって石窟の多くが破壊されたが、第一窟は破壊を免れており、シヴァの神話の世界が彫刻で表現されている。1987年に世界遺産に登録された。結婚や踊るシヴァの像、巨大な三面上半身像を見ることができる。踊ったり、結婚式を挙げたり、さまざまな表情を持つシヴァの彫刻を見ていると、シヴァ神がとても身近に感じられます。

エレファンタ島へ向かう船
エレファンタ島に到着
石窟へは、往きは歩き、帰りは機関車に似せた乗り物で戻る。助かった
舗石の施工。ご苦労様
エレファンタ石窟のチケット売場
チケット売場から700メートルほど進むと石窟の入口がある。その近くから見下ろした船着場の風景
第 1窟。高さ約 200メートルの岩山の頂上付近にある
リンガを祀っている
リンガのアップ
ガンガの流れを頭で受けるシヴァ神。悩ましいポーズである
洞窟の中は広い
悪魔アンダカを退治するシヴァ神。歯を剥き出し、髪は頭骸骨で飾られた怒りの形相である
『シヴァとパールヴァティの結婚』。私は、インドの神々を論じるには浅学である。「シヴァの象徴はリンガであるとか、パールヴァティはガンジス川の女神ガンガーの姉である」ぐらいで、ご勘弁ください
蓮の花の上に座っているシヴァ神
第 4窟
第 5窟
第 1窟に戻ってきた
三面上半身像。多くの見学者が立ち止まる人気の像である
エレファンタ島から戻る。海側から見たインド門とタージマハル・ホテル

カーンヘーリー石窟群
 昨日は、ムンバイーから船に乗ってエレファンタ島の石窟を楽しんだが、今日もムンバイー郊外の北約42キロメートルにあるサンジャイ・ガーンディー国立公園に出かける。ここには、紀元前1世紀から1000年以上にわたって作り続けられた「カーンヘーリー石窟群(Kanheri Caves)」と呼ばれる仏教石窟寺院群が存在するのである。
 ゲストハウスから北に1キロメートル歩いて、インド政府観光局で簡単な観光資料を貰い、目の前にあるチャーチゲィト駅に向かう。方向は逆であるが、数日前にチェンナイからここムンバイーに飛び、市内に向かった時に使った路線なので、経験済みである。ここは郊外列車のウェスタン・レィルウェイのフォート地区の始発駅で、ボリヴリ駅(Borivli Station)まで約1時間である。ボリヴリ駅前にはタクシーやオートリクシャーが待ち構えているので、公園入口まで1キロメートル、さらに石窟まで7キロメートルと距離があるので、多くの旅行者はオートリクシャーをチャーターする。

サンジャイ・ガーンディー国立公園
サンジャイ・ガーンディー国立公園の入場券Rs33
公園のバス停からカーンヘーリー石窟群へ行くバス
入口近くにある第2窟。他の洞窟に比べると仏像、仏塔の保存状態が比較的良い
第 2窟
第 3窟。高さ7メートルの仏陀立像。アジャンター第 26窟前面の仏陀立像と同じ構図である
第 3窟
第32窟
第 20窟
第82窟
第 80窟
さようなら、「カーンヘーリー石窟群」

西インド・アジャンター石窟群

アジャンター石窟とは
 インド国内の主要都市からのフライトがあり、列車やバスの交通アクセスにも恵まれている『アウランガーバード』は、近隣の『エローラ』や『アジャンター』の遺跡を訪ねるのに便利な位置にある。近隣と言っても、アジャンターは、アウランガーバードから、100キロメートル以上も北東に位置する。日本国内からの団体のツァーにも登場しているが、苦手な私目は一人旅で、昨日は『エローラ』、今日は『アジャンター』と忙しい。
 そのアジャンターであるが、中央アジア、中国、日本などの古代仏教壁画の源流と言われ、高温多湿のインドにあって極めて完成度の高い壁画が残っているのである。
 旅行案内書等によると、アジャンターの開窟は前期、後期の2期に分かれ、以下のような記載が多い。
 ①前期=紀元前1世紀頃からの上座部仏教期の前期窟;内部には装飾も少なく、仏像概念が無かった時代なので、ストゥーパを礼拝対象に刻み出した(8,9,10、12、13の5窟のみ)。
 ②後期=紀元5世紀の大乗仏教期の後期窟;インド文明が輝く5世紀の中頃、当時のヴァーカータカ帝国の篤信家(とくしんか)達が当時の最新技術を駆使して造営を始めた。具体的には、チャイティヤ窟(塔院)は5窟、他は僧侶の住居となるヴィハーラ窟である。
 しかし、突然であるが、アジャンターは、職人達はもとより、僧侶達まで忽然と姿を消してしまったのである。理由はヴァーカータカ帝国(デカン北部を3世紀中頃から6世紀中頃まで支配した帝国)の崩壊だと言われているが、確かめようがない。そして、なんと1819年、マドラス(現チェンナイ)駐屯の英国騎兵隊士官によって発見されるまで眠っていたのである。

モーニングバス
 アウランガーバードからアジャンター遺跡へは朝8時半にツァーバスが出ているが、ホテルのスタッフの勧めで6時半頃出発の現地の人々が言うモーニングバス(Morning bus)を利用した。このバスの中から(走行しながら)美しい赤い朝日を拝めること、1時間ちょっとと時間がかからないことが理由である。予定の時間通りに、アジャンター石窟群近くのTジャンクション(Ajanta Caves T-Junction)に到着、待っていたシャトルバスに乗り変えて約10分、Rs10で無事に遺跡に到着である。ここから、急な坂をチケットオフィスまで5分間ほど歩く。結構多くの観光客が並んでいた。

アウランガーバードからアジャンターへ向かうモーニングバス(Morning bus)
現在、2013年2月の朝 6時 50分。まさに夜明けである。バスの中から早朝の赤い太陽を見るのは、1996年モロッコのマラケシュからフェズに向かった時以来だ
アジャンター石窟群近くのTジャンクション。現地の人々が言うモーニングバスはここで乗降する
Tジャンクションから石窟手前の駐車場の入口までこのシャトルバスで移動する。ガソリンを使わないエコバスである(料金;Rs10)
急な坂をチケットオフィスまで5分間ほど歩く

見学開始
 1819年、マドラス(現チェンナイ)駐屯の英国騎兵隊士官によって1500年以上を経て密林の中から発見されたアジャンター石窟群の見学は、見学と言うより信仰の場そして僧侶達の息遣いが感じられる、身震いするような空間に立つ思いである。中でも第1窟はヴァーカータカ帝国の皇帝ハリシェーナが開窟した場所として最も有名である。ここから見学を開始したい

アジャンター石窟群の位置図
石窟が見えてきた。胸の高まりを覚える
渓谷に沿って窟が刻まれている

 第1窟は、豪華な造りの石窟で、投入された絵師たちも優秀で、壁画の完成度が高いと言われている。

第1窟。王宮で潅水を受けるマハージャナカ王
蓮華手菩薩
ブッダを祀る本堂
柱頭部分の彫刻
第2窟奥廊 千体仏
第2窟
第10窟ストゥーパ
第 9窟ストゥーパのアップ画像
第 10窟ストゥーパ
第 10窟内部に残る仏像画
第 11窟の天井。白黒だが鳥や草花が描かれている
第 11窟の奥に鎮座する仏像
第 16窟へ上る階段、エレファンタゲート
第 16窟
第 17窟前廊左 釈迦像
釈迦像
第 17窟前廊右。ブッダの前世の物語である「ジャータカ物語」がテーマ。羅刹女を退治に行くシンハラ王の軍隊
第 19窟 後期の、祈りのためのチャイティヤ窟。ファサードの多彩な彫刻が目立つ。これらの彫刻は後世に追加されたもの
ストゥーパは仏像と一体化しているため、礼拝の対象は仏像になっている

 

インド最大の涅槃像

 

西インド・エローラ

南のチェンナイから西のアウランガーバードへ
 『南インドのチェンナイ(MAA)』から『西インドのムンバイー(BOM)』経由で『西インドのアウランガーバード(IXU)』へ飛行機で一気に移動する。ここは、人口100万強のデカン高原の古い市場町で、町の名前はムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ帝に由来する。御存知かと思いますが、「…バード(… bad)」 はイスラム系の町の名前を表す言葉である。因みに、「… pur 」はヒンドゥ系の町に使われる言葉である(例;ジャイプル)。
 『アウランガーバード』の『チッカルターナ空港』から市の中心地へ約8キロメートルと近い。小さな町なので分かりやすく、アウランガーバードを起点として、明日以降の『エローラ石窟寺院』と『アジャンター石窟群』の見学に出かけることにする。今日は日曜日であるが、幸運なことに『アジャンター石窟群』は月曜日が休み、『エローラ石窟寺院』は火曜日が休みと両観光地の休みは重複していない。でも、出会った旅行者の中には曜日を勘違いして、両方を観光することができず、涙をぬぐっていた人もいた。

エローラ石窟寺院
 アウランガーバードのセントラル・バススタンドから『エローラの遺跡』まで30分に1便、所要約45分、Rs15で行くことができる。降りたいバス停が近づいたら車内に張られたロープを弾くと、鐘の音がして運転手が停車してくれる、懐かしいバスが運行されていた。アジアのどこの町だったろう?旅情が次第に高まってくる。
 デカン高原の岩山をくり抜いた34の石窟が南北約2キロメートルにわたり連なっている。このエローラ石窟を簡単にまとめると、①南端の第1~12窟は仏教石窟群(5~7世紀)、②第13~29窟はヒンドゥー教石窟群(7~9世紀)、③北端の第30~34窟はジャイナ教石窟群(9~10世紀)というように仕分けされる。このように、インド発祥の3つの宗教の寺院群が1か所に集まる世界でも例をみない遺跡がエローラ石窟群である。石窟は年代順に並び、同時期の異なる宗教の石窟もあり、宗教に寛容なインドの精神的な多様性というか、懐の深さというか、圧倒されるのである。
 後述するように、エローラ石窟群はアジャンター石窟群、エレファンタ石窟群と並ぶインド三大石窟の一つであるが、この中でも、3つの宗教の石窟が見られるのはエローラ石窟群だけである。いずれにしても写真の整理だけでも大変なので、大まかに確認しながら(サボタージュをしながら)写真を掲載していきたい。

乗客は降りたいバス停が近づいたらこの紐を引いて運転手に知らせる
エローラ石窟寺院の入場券

仏教石窟群
 先述したように、エローラ石窟群の第1~12窟は5~7世紀に造られた仏教石窟である。石窟の番号順に見学したわけではなく、人の流れにまかせて見学したので、結局、記録として残っている写真の順番に沿って記憶を呼び起こしてみたい。
 最初は第15窟である。

第 15窟の入口
第 15窟
第 15窟
第 15窟
第 14窟
第 14窟
部屋が整然と並ぶ第 12窟はティーン・タル窟( 3階)の名前通り3階建てである。ストゥーパの無い僧侶の生活区ヴィハーラ窟である。修行僧がここで生活しながら瞑想を行なった
第 12窟
第1 1窟のドー・タル窟は、かつては僧院として機能していた。12窟と同じ3階建てで、無機的な外観も同じであるが、岸壁の色がピンク色がかっている
第 10窟。ほとんどの石窟が修行のための僧院として使用されたが、ここだけが他の石窟と違って仏塔と仏像が祀られており、また、入口が装飾されている。「ドー・タル窟 ( 2階)」と誤って名づけられたが、実際は 3階建てで外からは2階建てに見える

ヒンドゥー教石窟群
 第16窟の『カイラーサーナータ寺院』を挟んで、第13~29窟の全部で17窟から成るヒンドゥー教石窟群は7~9世紀の石窟群である。仏教が衰退していく中で勢いを増していくのがヒンドゥー教である。全体的に言えることは、僧達の居住空間であるヴィハーラ窟が無く、つまり修行の場ではなく、神々を祀る場になっていることが理解できる。これから写真でお目にかけるが、彫りの豪快さ、躍動感が際立っている。
 このエローラ石窟群を代表する第16窟の『カイラーサーナータ寺院』からヒンドゥー教石窟群の見学をスタートしたい。

第 16窟を説明したプレート
入口正面にあるラクシュミー像。ラクシュミーはビシュヌ神の妃で愛の神カーマの母とされている
鼻が欠けた象の彫刻
ラーマーヤナの彫刻。『ラーマーヤナ』はヒンドゥー教の聖典の一つであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド 2大叙事詩の一つである
本殿。この内部に本尊であるシヴァ神の象徴リンガが安置されている。本尊の高さ33メートルの高塔は階段状に層をなし、ドーム状の冠石を持つ典型的な南インド様式
本尊の高さ33メートルの高塔は階段状に層をなし、ドーム状の冠石を持つ典型的な南インド様式
本殿奥の回廊
第 16窟「カイラーサーナータ寺院」。象の彫刻とランケーシュワラ寺院
第 16窟。ナンディー堂の怒れるシヴァ神。シヴァ神に仕え、本殿を向いてひざまずくナンディー牛を安置する
第 19窟
第 20窟
第 21窟の入口にはナンディー像が鎮座している。「ラーメーシュワラ」とも名づけられている。6世紀頃に造られた石窟 
第 22窟
第 23窟
第 25窟
第 26窟
第 27窟
第 27窟
第 27窟

ジャイナ教石窟群
 北端の第30~34窟は、カイラーサナータ寺院より1キロメートル北に位置するジャイナ教石窟群である。ラーシュトラクータ朝第6代のアモーガヴァルシャ1世(814-878)によってジャイナ教が保護された。建造は9~10世紀である。

第 31窟
第 32窟

 

第 32窟
第 32窟
第 32窟 2階
第 32窟
第 33& 34
第 33窟

エローラからアウランガーバードに戻る
 エローナの石窟寺院の見学を終えて、アウランガーバードに戻る。エローラからアウランガーバードのセントラル・バススタンドまで約1時間、1時間に1~2便の運行があり便利であるが、実はラッキーなことに石窟寺院の見学中にお助け日本人が現れたのである。北陸出身の男性一人旅で、「旅行に慣れていないのでタクシーを1日チャーターしてエローラを廻り、これからアウランガーバードに戻る」ということであった。彼のご厚意に甘えて、幾分かのお金をタクシードライバーに渡して、私の次の訪問予定のアウランガーバードの『ダウラターバードビービー・カ・マクバラー廟』で降ろしてもらうことにした。
 『ダウラターバードビービー・カ・マクバラー廟』については、既に上梓した『タイトル:インド・アーグラー郊外』の『タージマハル』の項で簡単にご紹介させていただいたが、ここでもう少し加筆したい。ビービー・カー・マクバラーは、ムガール帝国第6代アウラングゼーブ帝の第一皇妃ディルラース・バーヌー・ベーグムの霊廟である。一見して分かるように、アーグラにあるアウラングゼーブ帝の母の霊廟タージ・マハルにそっくりである。それもそのはず、この廟はタージマハルに似せて作られたもので、「デカン高原のタージ」とも呼ばれているのである。案内書によると、第一皇妃ディルラース・バーヌー・ベーグムは、ペルシアのサファヴィー朝の創始者イスマイル1世の子孫で、したがって裕福であったことから、自らの出費で建てたとも言われている。

南インド・カーンチープラム&チェンナイ

カーンチープラム
 今日は私の旅にしてはハードスケジュールである。朝、タンジャーヴールのホテルをチェックアウト、バスで『カーンチープラム』に向かい、荷物を預けて市内観光。そこから、『マーマッラプラム(マハーバリプラム)』に移動して市内観光、さらに20時30分発の夜行寝台列車(16178 Rockfort Express)で『チェンナイ』に向かう予定である。
 それでは、タンジャーヴールのホテルをチェックアウトしてカーンチープラムに向かいましょう。ここタミル・ナードゥ州のカーンチープラムは、ヒンドゥー教7大聖地の一つであり、7~8世紀に栄えたパッラヴァ朝の残した古都であったことからシヴァ神やヴィシュヌ神を祀る多くの寺院が残っている。
 最初は8世紀初頭のパッラヴァ朝時代に造られた『カイラーサナータ寺院』を訪ねる。この寺は、カーンチープラムで最も美しい寺院の一つとされ、後で訪ねる『マーマッラプラム(マハーバリプラム)』の『海岸寺院』が原型と言われている。本堂にはシヴァ神が祀られており、また50以上の小祠堂が外壁および回廊を構成している。小祠堂の浮き彫りに塗られた漆喰は後代のものである。

初期のドラヴィダ様式と言われるカイラーサナータ寺院は、パッラバ朝時代の8世紀初めに建立された。カーンチープラムで最も美しい寺院と言われる
寺に入るには土足厳禁である
パラヴァ王のシンボルであるライオンの彫刻が施されている
初期のドラヴィダ様式と言われるカイラーサターナル寺院。カーンチプラム最古の寺院である
シヴァ神を祀るカーンチープラム最大の『エーカンバラナータル寺院』のゴープラム。高さ60メートルと巨大である。カーンチープラムでは比較的新しい16世紀~17世紀の建築である。本堂を囲む136本のリンガがあるそうだ。数えていません
思わず手振れしちゃいました?
カイラーサナータ寺院とほぼ同じ8世紀に造られたヴィシュヌ神を祀るヴァイクンタ・ペルマール寺院
ヴァイクンタ・ペルマール寺院の回廊の壁面に施された彫刻。当時の人々の暮らしを偲ばせる彫刻もある

カーマークシ・アンマン絹織物集落
 カーンチープラムのバススタンド付近でおしゃれなTシャツを着たイタリア人の青年に声をかけられた。ナポリ近郊で織物会社を経営しているそうだ。彼はこれから家内経営の織布工や染色工が集まった絹織物集落を訪ねるという。誘われたので、もちろん大喜びでご一緒することにした。サイクルリクシャーで南側へ約20分、彼の言うように小さな工場が集まった集落であった。
 彼は専門家であるから実に知識が広くかつ深く、ここを訪ねる第一の目的は、「バラタナーティヤム」の踊り子の衣装製作の現場を見ることであった。解説書も持っている。彼の説明で初めて知ったのであるが、簡単に言うと、(深く言えるほど知識が無いのだが、)「バラタナーティヤム」とは、3000年以上の歴史を持つとされる舞踊のことで、元々、神に奉納する舞踊であったため、一般に公開されることはなかったという。また、「デバダシ」と呼ばれる日本でいうところの巫女が踊り手となっていたことから、「現在のように男性の舞踏家はいなかった」(お店の人の説明)そうだ。
 「もう一つ。カーマークシ・アンマン集落に来たからには、ここの寺の人気者に会って行ってください」。「人気者?」。「そう、でも人じゃありません」。ここのカーマークシ・アンマン寺院には思わぬ動物がいて人気を集めているのである。象である。

カーンチープラムの中心にあるカーマークシ・アンマン寺院
カーマークシ・アンマン寺院にいる人気の象。実にユーモラスである

マハーバリプラム
 カーンチープラムのブラブラを終えて、次はリゾート地として人気のある『マハーバリプラム(マーマッラプラム)』に向かう。「リゾート地」と言われるようになったのは最近のことで、実はこの地は7世紀頃にはインド洋、アラビア海を越える東西交易の基軸として栄え、8 世紀初頭にはパッラヴァ朝の王ラージャシンハによって建設された寺院などがあることで有名なのである。「マハーバリプラムの建造物群」として数多くの遺跡がユネスコの世界遺産に登録されている。

海岸寺院
 マハーバリプラムのバススタンドから約500メートル、徒歩10分で「海岸寺院」に着く。マハーバリプラムの砂浜に建てられたことから、この名が付けられ、1984年に世界遺産に登録されている。ドラヴィダ建築とでも言うか、石積みの石造技術によって建てられた寺院は今まで見てきた南インド各地の派手な寺院とは違って、均整の取れた、むしろ地味な雰囲気をもってベンガル湾に佇んでいる。そして、ピラミッド型の塔の繊細な装飾や層状の屋根の見事な彫刻が印象的である。

海岸寺院

ファイブ・ラタ
 7世紀の半ばに造られた「ファイブ・ラタ」と呼ばれる「5つの石彫り寺院」がある。俄かには信じられないが、実はこの寺院は一つの巨大な花崗岩から彫りだされた巨大彫刻なのである。この建造物全体は、元々は砂に埋もれていたものが掘削されて現在の姿が表に出たもので、5つそれぞれが特徴を持つ寺院である。
 ところで、インドの二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」はご存知ですね?TV番組やドラマになっているインド神話のお話です。この2篇の叙事詩は、グプタ朝時代にサンスクリット語で書かれて完成されたものである。
 注);「サンスクリット語」については、別途、項を改めなければならないほど、深くかつ重要な項目で、浅学の私が論じるには荷が重すぎるので、ここでは「南アジアや東南アジアにおいて、学術、哲学、宗教などの分野で用いられた古代語」とだけ記しておきます。
 話を「マハーバーラタ」に戻しましょう。マハーとは“偉大な”、バーラタとは“バーラタ国”のことで、現在でもインドの正式国名とされているが、普段は、「バーラタ族の物語」という意味で使われている。繰り返しになるが、「ラーマーヤナ」とともにインド二大叙事詩と称され、ご存知のように「イーリアス」、「オデュッセイア」とともに世界三大叙事詩の一つともされている。
 「ファイブ・ラタ」の説明なのに、「マハーバーラタ」に寄り道をしたが、その理由は「ファイブ・ラタ」のそれぞれに「マハーバーラタ」の登場人物の名前が付けられているからである。叙事詩に興味のある方は、「ファイブ・ラタ」の画像から「マハーバーラタ」に思いを寄せてください。

最初は、ナクラ・サハデーヴァ・ラタである
左から、ドラウパディー・ラタ、アルジュナ・ラタ、ビーマ・ラタ、ダルマラージャ・ラタ
4層の階段状屋根を持ち、1番背が高いダルマラージャ・ラタのズームアップ。浮彫り彫刻に魅せられる
三層屋根のアルジュナ・ラタのズームアップ(右)。周りに配置され象の彫刻が見える(中央部分)

クリシュナのバターボー
 物理学の話である。均質な材料でできている球体を斜面に置いたら、マイナス勾配の方へ回転しながら移動するであろう。球体と面との接点は点であるから微風でも動くであろう。さて、中途半端な力学はこのへんにして、巨大な丸い岩が坂の途中にあるにもかかわらず止まってる(ように見える)。直径約10メートルの『クリシュナ神のバターボール』の登場である。クリシュナ神の好物であるバターボールに似ていることから、このニックネームが付いているそうだ。

クリシュナ神の好物であるバターボールに似ていることから「クリシュナ神のバターボール」と呼ばれる。かつて象を使って引いたが動かなかったという。
裏側から見たクリシュナのバターボール。バターボールをナイフで切ったように見える
パンチャパーンダパ・マンダパ窟
パンチャパーンダパ・マンダパ窟の壁画
パンチャパーンダパ・マンダパ窟の壁画。乳しぼり

チェンナイへ
 “評判の良くないインドの鉄道”に乗ってみた。予想がはずれて?インドの夜行寝台列車にしてはそれほど遅れず、今朝、15分ほど遅れて朝の5時半頃にチェンナイに到着、ここからローカル線に乗ってエグモア駅とパーク駅の中間にあるホテルに向かう。どちらで降りても同じ距離だと駅員に教えられたので、根拠もなくパーク駅で降りた。徒歩で25分と結構な距離であった。6時半頃にホテルに着いたので、チェックインはせずに荷物を預けてその辺をブラブラしようと思ったのだが、スタッフは「このホテルは24時間制だ」と言う。何度か聞き直して理解できた。6時半にチェックインしたら、翌日の6時半前にチェックアウトしなければ、追加料金を払わなければならない。でも、すぐにチェックインしてシャワーを浴びられるので「こりゃぁ、最高だ」と考えて「OK」したのだが、よく考えて見れば明日の朝に6時半前に起きなければならない。結果的にゆっくりと休めないので損をした感じであった。爾来(じらい)、この種のホテルには泊まらないことにしている。
 チェンナイは南インドへの入口ともいうべき大きな町で、タルミナードゥ州の州都であることから行政、経済分野ともに中心的役割を果たしている都会である。確かに1639年に英国の東インド会社をここに設立し、そのオフィスを基地にして南インド全域をコントロールした過去を持つわけで、その経験と力量は今も衰えていない。
 ドラヴィダ文化、つまり、イスラームの影響を受けていない文化を持つ地域で、デリーの中央権力、北のアーリア文化と対峙する、一種の矜持ともいうべき魂を持っている人々である。マドウライで、『ATMお助けマン、N氏』に助けてもらったこともあって、私自身も気合が入っている。「ドラヴィダ文化」じっくり味わいたい。

チェンナイのヴィクトリア・ホール(工事中)
インド人が書籍を見ている姿は、なんとなく哲学者に見える
中央駅。屋根の色が白、茶の建物
鉄道の本社
地下道
チェンナイ中央駅
郵便ポスト
高等裁判所(法律専門学校)
工事中
寺院付属のタンク(沐浴池)から見たカーパレーシュワラ寺院。シヴァ神を祭ったヒンドゥー教建築の門(ゴープラム)がピラミッド型の塔になっており、さらに外面には鮮やかな彫刻が施され、装飾の色彩と相俟って南国的雰囲気が漂う。入場する時には裸足であることが要求されることから、その習慣のない日本人には相当きつい。足の裏が熱いー。
パルタナラティ寺院の西門から
パルタサラティ寺院も土足禁止であり、中は撮影禁止である
パルタサラティ寺院からインド洋を撮る
インド洋で遊ぶ

南インド・マドウライ&タンジャーブール

インドのマドウライ
 今回の旅は、前回に続いて同じくインドである。違いは、前回が北インド地域だったのに対して、今回は南インド→西インド→東インドと広域にわたる点である。
  最初は、南インドのマドウライである。いきなりですが、ここで問題が起きた。スリランカのコロンボ経由でマドウライに入国したために、まだインドの紙幣であるルピーを持っていない。換金するために空港内の銀行に向かったのだが、未だ銀行が開いておらず、インドルピーへの換金ができなかったのだ。マドウライは、私が訪問した2013年時で、人口90万人強のタミルナードゥ州第3の州都なので、銀行業務などはフルタイム・オープンと勝手に思って油断していたのだ。今更であるが、スリランカで換金しておくべきだった。これが1つ目の失敗で、後の大失敗の原因でもある。
 その大失敗である。マドウライ鉄道駅で翌日のトランジャブール行きの列車と3日後のチェンナイ行きの夜行寝台列車の予約をしなければならない。通常の窓口ではなく、駅の特別の事務所で、彼らに言わせれば「外国人用の特別予約」をしてくれるという。にこにこである。ところが、大問題というか、大失敗を起こしてしまう。「外国人用の特別予約」では、列車のチケットの予約はクレジットカードではできず、インドルピーの現金がなければ駄目だというのである。「プリーズ」とお願いしたが、基本的に、この国で「プリーズ」は通用しない。インドを理解するのに重要なキーワードは、「プリーズは通用しない」ことである。国際会議の場などで学問を論じる場合でも「原理原則にこだわる姿勢」、「厳しい質問」は徹底している。これはとても良いことであるが。
 結局、ATMでインドルピーを引き出す羽目になったのだが、これが大問題を引き起こしてしまった。私は、ATMなるものが良く分かっていなく、(危険なことに)ATMの操作を周りの人達に手伝ってもらって、暗証番号だけを自分で入力するていたらく(為体)である。駅に戻って「外国人用の特別予約」の担当者にクレジットカードでの決済を再度お願いしたが、やはり「プリーズ」は拒否された。近くにあったATMを適当に操作しているうちに私のクレジットカードはATMマシーンに吸い込まれてしまった。今後の旅のホテルなどの予約事項は、クレジットカードが無ければ、全て無効である。お助けマン、助けてくれ。
 現れました、お助けマン、N氏。結論から言うと、ATMの管理会社と銀行の双方に保証人と共に伺って、私のパスポートと保証人の身分証明書を提示する必要があるという。翌日、お助けマンが私のホテルに迎えに来てくれて、30キロメートル先にある銀行の支店長と支店長室で面談、ペナルティ無しでクレジットカードを取り戻すことができました。我々はお客さん扱いで紅茶をサービスされました。必要な金額のインドルピーも手にすることができました。すっかり調子に乗ってしまって、今後の旅行のために少額紙幣をたくさん入れてくれるようにお願いしたところ、通常の銀行窓口業務では係員に文句を言われるのですが、笑顔で応じてくれました。「プリーズ」もケースバイケースで通用するようです。
 私のようなドジはそうそういらっしゃらないと思いますが、皆さんのインド旅行の参考までに、…、①お助けマンは、できれば社会的地位の高い人を(身分証明書に銀行員たちが頭を下げていました)。②紅茶を飲む余裕を。③さすがインドは英国の植民地を経験した国家そして人々。「better」の精神にあふれている。④コピーを取る店がとても少ない。日本を出国する前にパスポートなどのコピーを取っておくこと。

ミーナークシー寺院
 ATM騒動でマドウライ滞在はあまりにも短くなってしまった。でもツァーに参加するのとは違って人間的な触れ合いを経験したことは、私流の旅の作法で、十分に楽しんだ。…。すみません、「全く懲りていないのです」。助けていただいた、N氏、そして皆さん、本当にありがとうございます。そのN氏の推薦、マドウライでこれ一つと言われれば、『ミーナークシー寺院』。「これだけでインドの歴史を相当勉強できます」。そう言われちゃ、挑戦しないではいられない。
 ミーナークシー寺院は、魚の眼を持つと言われているドラヴィダの女神、ミーナークシー女神とその夫であるスンダレーシュワラ神(シヴァ)、そしてふたりの子供であるガネーシャやナンディーなどを祀ったヒンズー寺院である。ガネーシャは象の頭をした神、ナンディーはシヴァの乗り物の牡牛であり、名前を知らないまでも、本やTVなどでご覧になったことはあると思います。
 林立する12の塔門(ゴープラム)とそれを彩る3300体と言われる神々の彫刻に圧倒される。お勧めに従って東西南北にある4ヵ所のゴープラムを重点的に観ることにした。極彩色とでも言おうか、その色遣いに驚かれるでしょう。

マドウライのミーナークシー寺院界隈
同じく、ミーナークシー寺院界隈
遠くから観たミーナークシー寺院
順不同で東西南北の4つの塔を掲載する。最初は南塔。60メートルの高さがあるので私の持つコンパクトカメラの広角レンズでは、いくら離れても一つの構図には収まらない
南塔の中心部をズームアップ
東撘(正門になる)
東撘の中心部をズームアップ
北塔
北塔の中心部をズームアップ
西塔(駅から真っすぐ歩いてくるとぶつかる)
西塔の中心部をズームアップ

タンジャーヴール
 思い出いっぱい?のマドウライからティルチラパッリ経由で次の訪問地の『タンジャーヴール』へ向かう。バスは高速道路を快適に飛ばした。途中、高速道路の走行車線を絵で区分けした表示版などに珍しいものがあり、思わずカメラを向けてしまった。乗り換えを含めて合計約4時間でタンジャーヴールの新バス・スタンドに着いた。
 町の中心は旧バススタンド周辺であり、新バス・スタンドから旧バス・スタンドまでは74番のバスで20分と聞いたが、予約したホテルは新・旧・バススタンドの中間くらいに位置していたので、時間の節約のために旧バススタンドには移動せずに新バス・スタンドからオートリクシャーでホテルに直行した。
 私がタンジャーヴールに寄る目的は、マドウライ、カーンチープラ、そしてクンバコーナムなどへの移動が便利であることが理由だったのだが、「この町に来て驚いた」というか、「タンジャーヴールの皆さん、ごめんなさい」。世界遺産にも登録され、「ビッグ・テンプル」と呼ばれている巨大な寺院『ブリハディーシュワラ寺院』には驚きました。タンジャーヴールは9世紀から13世紀にかけて栄えたチョーラ朝(THE IMPERIAL CHOLA)の首都だったのですね。そして、チョーラ朝の最盛期だった11世紀に造られた寺院だと教えられました。かなり遠くからでも寺院の塔を眺めることができるのは勿論、中に入ると、ヒンドゥー教の神・シヴァ神の乗り物である巨大なナンディ(牛)の像を祀っているお堂にも驚いた。ナンディー像の長さは6メートル、高さは4メートルと、インド最大のものであると教えられました。
 今日は、タンジャーヴールを(ブラブラよりも小さく)ちょろちょろしてから、近くの『クンバコーナム』へ日帰り観光、そしてタンジャーヴール戻ってきて、ブラブラの予定である。

高速道路の珍しい車線表示(車両別の走行車線を絵で区分けしている)
夜の8時に写したタンジャーヴールにあるブリハディーシュワラ寺院。明らかに光量不足であって、“幻想的”などとおだてても何も出ない
寺院内のナンディー堂の中にはシヴァ神の忠実な供であるナンディーの像が祀られている。安カメラでは光量不足になかなか対処できない
飲料水
タンジャーヴール駅の工事風景
タンジャーヴール駅のプラットホーム
タンジャーヴール駅のプラットホームのマークは、遠目にはロンドンの地下鉄マークに見える

クンバコーナムへの日帰り観光
 『クンバコーナム』は、タンジャーヴールから日中は1時間に4本とバスの本数も多いし、所要時間も1時間半と十分に日帰りが可能な場所にある。私は、列車に興味があったので列車を使ったが、バスの方が便利である。
 街そのものは小さく、門前町といった感じである。その中でも、サランガパニ寺院はビシュヌ神を祭るヒンズー教寺院で、クンバコーナム最大級の寺院である。さらに言えば、南インドではティルチラパッリのランガナータスワーミ寺院に次ぐ伝統ある寺院でもある。本堂はチョーラ朝末期に建立され、残りは17世紀のナーヤカ朝によって造られたものである。
 クンバーコナムから西に約4キロメートルある小さな町ダーラースラムにあるアイラーヴァテシュワラ寺院は、12世紀半ばにラージャラージャ2世により建立された。この寺院が面白いのは、建物自体が山車(だし)に見立てられており、建物の壁面には寺院を引く象や馬、車輪などが彫刻されている点である。大チョーラ朝の他の寺院に比べて小ぶりであるが、美しさ、繊細さ、彫刻全体の完成度は高い評価を得ている。
 蛇足ながら、この町を訪ねる多くの方々はお寺巡りが主目的だと思いますが、12時~16時の4時間は休み時間なのでくれぐれも注意してください。

タンジャーヴールからクンバコーナムまでの列車のチケット。クンバコーナムは多くの寺院がある門前町
サランガパニ寺院はビシュヌ神を祭るヒンズー教寺院。チョーラ朝時代に建立され、17世紀に現在の建物になった
サランガパニ寺院は高さ45メートルのゴープラム(塔門)を持つ寺院で、その威容はさすがに迫力がある
サランガパニ寺院を隣の建物の中から撮る
クンバコーナムから西へ4キロメートルのダーラースラムにあるアイラーヴァテシュワラ寺院。建物を山車に見立てて、それを引く象と車輪が彫刻されている
山車に見立てたアイラーヴァテシュワラ寺院を引く象と馬と車輪の彫刻
山車に見立てた寺院を引く象と馬と車輪の彫刻
ラージャラージャ 1世(RAJARAJA Ⅰ)から始まるチョーラ朝の系図が展示されていた

クンバコーナムへの日帰り観光を終えてタンジャーヴールに戻る
 クンバコーナムを楽しませてもらった後、タンジャーヴールに戻り、市内観光へ出かける。ここのブリハディーシュワラ寺院は、1987年に先行して世界文化遺産に登録され、後に2004年にガンガイコンダチョーラプラムのブリハディーシュワラ寺院、アイラーヴァテシュワラ寺院が加わって、「大チョーラ朝寺院群」として範囲を拡大して登録された。

ブリハディーシュワラ寺院の全景。前殿の前にシヴァ神の乗り物、ナンディを祀った祭殿がある
東側にある塔門(ゴープラム)は見事な彫刻で仕上げられている
タンジャーヴールの王宮と見張り塔。7層建てでアーチ型の窓がユニーク。鐘つき塔とも呼ばれる

北インド・ワラーナシーとサールナート

ワラーナシー
 インド独立後のこの都市の正式名称は「ヴァーラーナスィー(Varanasi)」である。町の北側をワルナー川(Varuna)、南側をアッスィー(Assi)に挟まれていることに由来(Varuna + assi)している。他方、日本の旅行案内書で表記される「ワラーナシー」の方が現地でも通じやすいことを考えて、ここではワラーナシーで通したい。また、日本では、ガンジス河(Ganges、英語名)と呼ばれている河も、こちらで使われているガンガー(Ganga)で通したい。
 私は何度かワラーナシーを訪問しているが、どこの旅先でも最初の訪問で感じた印象が心に残るであろう。私の最初の訪問は2008年12月だったので、その時のメモを参考に印象を記したい。新しく訪問した地域については、後日ご紹介したい。
 デリーからワラーナシー市のババトプル空港へ飛んだのはいいが、ここから市内まではシャトルバスが無く財布を抑えて迷っていると、こういう時に必ず現れるお助けマンというか調整役がここでも現れた。迷っている旅行者を数人集めてタクシーと交渉してくれた。このお助けマンは徹底していて、空港の出口から1キロメートルくらいの所までタクシーで行き、そこからローカルバスで市内へ向かった。途中、旅の色々な情報は集まるし、安くはなるし、言葉の勉強にもなる。迷っていた旅人3人は相談して、お助けマンの料金分をシェアして気持ちよく支払った。「ありがとう」。
 話には聞いていたのだが、この町には日本人旅行者が多い。私が泊ったホテルで隣の部屋に住んでいた?40代の男性にご登場願おう。彼は会社を数年前に辞めワラーナシーの隣町である「サールナート」に1年間滞在し(彼は修業とは言わなかった)、その後ワラーナシーに来て1年経ったそうだ。一食30円のカレーもどきで命を繋いでいるそうだが、彼がガンガーに向かって祈る写真が掲載されている地元紙を私に見せて、「いつも作務衣を着ているので坊さんと間違われて困っているよ」と話をしていた。4日間滞在したワラーナシーで色々と助けてもらった。

ガート
 日本のTV番組などでインドのガンガーが写し出されると必ず出てくるのが、ガート(Ghat)と呼ばれる川沿いに作られた階段状の堤であろう。沐浴やヒンドゥー教徒の火葬場になっているスペースであり、ここを訪れる巡礼者の聖地である。ガイドブックによると、ワラーナシーには84のガートがあり、それぞれに名前が付けられている。有名なものとして、北からワルナーサンガム、パンチガンガー、マニカルニカー、ダシャーシュワメード、アッスィーがある。これらのガートに続く道端には、バクシーシと呼ばれる喜捨を求める人々が多い。私が「バクシーシ」を知ったのは、1996年にモロッコを訪れた時であるが、「裕福な者は、貧しいものに施しなさい」という、イスラムの教えだそうだが、一部に「貧しいものが、お金持ちから金品をもらうのは当たり前」という考えを強調する人達もいるそうだ。
 もっとも人気のあるガートは、ダシャーシュワメード・カートである。解説書によると、ダシャは10、アシュワメードは古代インドで王位継承時などに行われた特別な儀式のことだそうだ。神話や伝承の域を出ないが、創造神ブラフマーがここでその儀式を行ったとか、紀元2世紀頃の王族達が行った、という話が伝わっている。

ガート(GHAT沐浴場 No.41)
ダシャーシュワメード・ガート近くにある給水塔
ガンガーに向かってお供え物をする
河の流れで増水しても沐浴ができる階段状のガート、ケダールガート
ケダールガートの上部のアップ写真
バクシーシ(喜捨)を求める人々
バクシーシ(喜捨)を求める人々

沐浴に挑戦したが
 さて、3000年以上の歴史を持つヒンドゥー教の聖地、シヴァ神の聖都であるワラーナシーを語るには、ガンガーの沐浴について語らなければなるまい。現地の人々?あるいは旅行者らしき人々が下着1枚あるいは衣服を付けたままガンガーで沐浴をしている。私もズボンのすそをあげて試みたが、水の色や浮遊物を見てさすがに尻込みしてしまった。科学的な根拠ではなく、いわゆる見た目できれいとはとても言い難く…。口に含んでうがいをすれと言われると、「勘弁してほしい」。何となく、足がかゆくなってきた。
 何かの本にジョークのように書いてあったが、「コレラ菌もガンガーの細菌には勝てず、したがってガンガーの水は科学的には意外ときれいなのだ」…そうだ?何となく説得力があるように聞こえるが、責任は持てない。この種の論理展開、よく使う方がいらっしゃいますよね。気を付けてくださいね。

ガンガーに向かって朝のお祈りをする僧侶
日の出前のガンガーで沐浴をする人々
朝の沐浴をする人々
朝の沐浴をする人々
早朝のガートの風景
ガンガー側からガートやお祈りをしている人々をカメラに収めるために船に乗る観光客
朝早く沐浴をする人達が利用する屋台
ガンガーに供える花を売っている
ガンガーでの釣り
こんな魚が釣れている。これ自体はきれいに見えるが、ガンガーを見ると。食べるには、ちょっと…
ダシャーシュワメード・ガートを陸の方に向かって(川から離れるように)歩くと、このような通りが待っている
後日、空港へ向かう途中に社内から撮った大きい通り(空港までのタクシー料金;Rs600)

火葬場
 マニカルニカー・ガートとハリシュチャンドラ・ガートには火葬場がある。私はお世話になっている作務衣坊さんに連れられて前者を見たのだが、ここに運ばれてきた死者の耳に「ターラカ・マントラ(救済の真言)」をシヴァ神が囁くことによって死者は解脱できるそうである。ガンガーに浸された死者は薪の上に載せられ、喪主が火を付け、遺灰はドーム・カーストの人達によってガンガーに流される仕組みである。「ドーム」とは、火葬をする人のことを言う。ドーム・カースト以外の人々は手出しをしてはいけないし、また写真を撮ることなど絶対に禁止である。カメラを持っているだけで厳しく問いただされるので、ディバックなどに厳重に保管されることをお勧めします。
 作務衣坊さんの話だと、子供と出家遊行者は荼毘に付されずに石の重しを付けられて河の奥深くに沈められるそうである。前者はまだ十分に人生経験をしていない、後者は既に人生を超越していることが、その理由だそうである。
 帰りに近くのおもちゃ屋で直径3センチメートルほどの封印した鉄板製の容器を買い求めた。この容器の中にはガンガーの水が入れられており、「お墓に備えると良い」ということで100円だったが、買い求めた。しかし、帰国した頃には中の水は蒸発してしまっていた。それよりも何よりも、ヒンドゥー教徒は墓を持たないそうだ。「やられた」。(皮肉ではなく)さすがはインド人、100円でこんなにも遊ばせてくれたし、この原稿200字分を稼がせてくれた。

24時間、火葬の煙が消えないマニカルニカー・ガートを遠くから見た

プージャー
 プージャー(礼拝)は、ガンガーに向けて毎晩日没後に行われるガンガーの一日の終わりの儀式である。礼拝僧が河に花を浮かべ燭台に無数の蝋燭を掲げて祈る。ドラ、太鼓が鳴り響く中で祈祷の儀式が行われるド迫力の宗教行事である。ガンガーで始まり、ガンガーで終わるヒンドゥー聖地の一日の締めくくりで、すごい人ごみと熱気の、誤解を恐れずに言えば、一種のショーと言うか、エンターティンメントと言っても良いであろう。

ダシャーシュエアメード・ガートで行われるプージャー
船に乗ってプージャーを写す
ガンガーに向かって祈る僧達
水面に浮かぶ蝋燭

サールナート
 ワラーナシーの北東約10キロメートルのサールナートへはオートリクシャーで片道40分くらい、往復を予約できる。相当以前から『仏教における重要な仏跡』を訪ねたいと思っていたので、「ついに…」である。ここで『重要な仏跡』とは、仏陀生誕の地(ネパールの)「ルンビニ」、成道の地「ブッダガヤ」、初転法輪の地「サールナート」、涅槃の地「クシナガル」、ブッダ教団の地「ラジギール」、仏典結集が行なわれた「ヴァイシャリ」、仏教大学が栄えた「ナーランダ」などである。今回は「サールナート」を訪ねる。
 仏陀は、当初は自らの悟りを他の人々に説法することは考えていなかったと言われる。ブッダ・ガヤで悟りを開いた仏陀は、その気持ちを翻意して伝道の旅に出た先はバラモン教修行者の聖地、サールナートであり、ここの鹿が多く住む林の中で昔のバラモン教修行中の5人の仲間と再会、彼らに説法をしたのが始まりである。初転法輪の故地と言われる所以である。彼らはこの説法によって、仏陀の教えに帰依することとなり、ここに仏(悟った人・仏陀)、法(仏陀の教え)、僧(仏陀の教えに救われ、実践する仲間)という『三宝』が初めて揃い、仏教教団が成立することとなった。現在はインド政府の管理の元に遺跡公園になっている。その周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館(英語版)に収蔵されている。残念ながら、ここは撮影禁止であり、したがって、皆さんにお見せできない。

スリランカのマハーボーディソサイエティ(大菩提会)が1931年に建てたサールナートのムーラガンダ・クティー寺院(根本香堂。釈尊の遺骨が納められている)。仏教寺院の内部は簡素な構造で、たくさんの壁画が描かれていた
鹿公園入口
初転法輪の地を記念して、6世紀にアショーカ王によって建てられたサールナートのダメーク・ストゥーパ(仏塔)。広い公園の中にあっても、高さ約 43.6メートル、直径約 2.8メートルの大きさは目立つ
野外学習とでもいうのだろうか
ダメーク・ストゥーパの外側に東南アジアから訪れる巡礼者によって付けられた金箔が残っている
アショカピラー
折れているアショカピラー
おばさん達も一休み
通りの絵描き(サールナート)
移動式の路上マーケット
移動式の路上マーケット
移動式の路上屋台

北インド・アーグラー市内

アーグラー市内をブラブラ
 昨日は、タージ・マハル、今日はアーグラー城や市内のブラブラである。朝8時頃、皆さん、行動開始だ。おじさんの日課だろうか?道路掃除である。市内牧場?に放牧されている牛さんも散歩、リクシャー(英語でRickshaw)も動き始めている。リクシャーとは、戦前に日本から輸入され広まった「人力車」からきている名前で、正確に言えばサイクルリクシャーである。ちょっとした遠出にはエンジンのついたオートリクシャーが一般的である。
 ロバは、いつでも、どこでも重労働。私も含めて、多くの日本人は可哀そうだと思うようだ。

朝の掃除。ちょっと風が吹くとゴミが飛んでしまって、このおじさん、何度も同じ動作を繰り返している。朝の体操と思えばよい
ここアーグラーでも市内牧場に牛の放牧がされている
ロバはいつでも、どこでも重労働

 タージ・マハルからヤムナー河に沿って3キロメートルほど北上すると、アクバル帝によって1565年に構築された赤砂岩の『アーグラー城』が大きな姿を見せる。南側にあるアマル・スィン門が入口で、多くの人々がカメラを取り出し、今日の1枚目がスタートする。

赤砂岩で築かれたアーグラー城の威容
濠を渡ってアーグラー城に入場する
ムガル朝の第3代皇帝アクバル帝が息子と后のために建てたジャハンギール宮殿
浴槽(ロイヤル・ハンマーム)
ジャハンギール宮殿内部
1648年にムガル帝国の帝シャー・ジャハーンによって建設されたモスク、ジャマー・マスジット。赤砂岩で造られたこの礼拝堂はインドで最大のものとも言われている
遠くに霞むタージ・マハル
ヤムナー河の方角から見たムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)。第5代皇帝シャー・ジャハーンが息子アウラングゼーブによって 幽閉された場所である
ゴルデノルーフ
ジャハンギールの王座
モスク
ヤムナー河の対岸にあるイティマド・ウッダゥラー廟
正門は赤い石で造られ白い大理石が嵌め込まれている
1613年にアクバル帝のために、息子のジャハーンギールが建てた墓所、スィカンドラー

 

正面から写したスィカンドラー
スィカンドラーの内部
スィカンドラーの天井
美の要素が凝縮され、そしてカリグラフィーが美しい
ヤムナー河の対岸にあるムガル時代のイティマド・ウッダゥラー廟。白大理石の透かし彫り技法は、のちにタージ・マハルに継承され、地元の人からは“ベビータージ ”とも呼ばれている
博物館を訪ねたが、工事中のために閉館。女性達が働いていたが、労賃は1日100円と聞いた

北インド・アーグラー郊外

アーグラーへ向かう途中の風景
 アーグラーはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市で、世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラー城塞があることで知られる。車のチャーターなので移動の自由度が高く、また建設中の道路を見たいので、ジャイプルのビルラー寺院を見学した後、一気にアーグラーへ向かう。日本国がかつて発展途上にあった時代の国土造成の景色が次から次と現われ、懐かしく、そして興奮する。日本でもかつて一部の地域であったらしいが、牛糞を道路脇に集めて乾燥し、それを燃料として燃やして使う、ある意味で合理的であり、またサステイナブル(sustainable)な方法に改めて感心する。牛の多いこの国では清掃も兼ねる道路管理であると言えば、冗談がきついだろうか。子供達が牛糞を奪い合う姿は、なにか微笑ましいが、その陰に厳しい経済環境ががあることも忘れてはならない。

アーグラーへ向かう。道路工事中
Rape blossoms(ナタネ菜)
牛の糞(燃料)
高速道路のトールゲートを建設中
ラージャスターン州(州都はジャイプール)とウッタル・プラデーシュ州(州都はラクナウ)の境界
ウッタル・プラデーシュ州(UP州)から振り返って写す

ファテーブル・スィークリー
 個人的にイスラーム文化が大好きで、色々な国のイスラーム建築を見てきたが、建設中のそれを見たのは1997年5月にイランの首都テヘランを訪ねた時である。テヘランで開催された「土木工学に関する国際会議」に出席した折、会議の議長の特別の計らいによって、新しく建設中の『イマーム・ホメイニ聖廟』の建設現場を個人的に見学する機会を得た。セメントコンクリートでドームの構造部分を造り、その上をタイルで装飾する手際は見事としか言いようが無かった。インド旅行編の中でイランのイスラーム建築を出したのは、イスラーム建築の特徴であるアーチやドームを多用する例を見ていただきたいためである。それに対して、これから御紹介するインドの『ファテープル・スィークリー』では、屋根や庇などの木組みを石で表現したような造りに特徴が見られるからである。同行してくれた建築を専攻する大学院生の話だと、インド古来の建築様式や技法を反映しているのだという。
 ファテープル・シークリーとは「勝利の都市」を意味する。ムガル帝国 (1526〜1858年)の第3代皇帝であるアクバル帝は、世継ぎに恵まれなかったが、聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言によって男子を得たことから、1571年にこの地に首都を移転し、その後5年をかけて都を建設した。しかし、水不足で14年後には移転を余儀なくされ、赤砂岩で築いた宮廷やモスクはわずか14年間(1574~1588年)しか使われなかった。逆説的な言い方をすれば、短期間しか使用されなかったため、建築物は痛まないで残っているとも言えよう。1986年に世界遺産に登録された。

モスク地区
 ファテーブル・スィークリーの遺跡はモスク地区と宮廷地区に分けられている。先ず、モスク地区を巡る。アクバル帝が1573年にグジャラート地方を征服した記念に丘の上に建立した高さ54メートルの巨大なブランド・ダルワーザ(勝利門)に向かう。赤砂岩に白大理石の象眼を施したムガル建築の最高傑作と言われる。
 門を通って中に入ると、四方を囲まれた大きな中庭になっており、左側にインド最大級の面責を誇るジャミー・マスジット(金曜モスク)がある。ここのモスクには、アクバルが息子を授かると予言した聖者シェーク・サリーム・チシュティーなどの廟(ダルガー)が祀られていることから「ダルガー・モスク」という呼び名もある。
 勝利門を入って左側にあるのは「ダルガー・モスク」であるが、真正面に二つの廟がある。二つのうちの左側にあるのはアクバル帝が息子を授かると予言したサリーム・チシュティーの墓である。そして、右側にあるのは聖職者や聖者が講話などを行う建物(ジャマート・カーナ)であったが、サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されたために「イスラーム・カーン」の名で呼ばれている。建物の中やその周辺には沢山の墓石がある。

イランのテヘランに建設中のイマーム・ホメイニ聖廟(1997年テヘランにて撮影)。写真の右側は、まだ施工中の建築物である
イスラーム・カーン廟。サリーム・チシュティーの孫の「イスラーム・カーン」がここに埋葬されている
サリーム・チシュティー廟(1580年、1606年)。最初は赤砂岩と大理石で造られたが、後に全てを白大理石に置き換えられた
モスク地区のジャミー・マスジット(金曜モスク)
モスク地区のブランド・ダルワーザ(勝利門)。高さ54メートルの巨大な門である
水は貴重である

宮廷地区
 宮廷地区で目立つ建物は、列柱に支えられた階段状の5層の吹き抜けからなる『パンチ・マハル(5層閣)』である。下層の柱の形状が一つひとつ異なっている。解説書によると、建物前の中庭には十字形に方眼が刻まれており、ハーレムの女性達をチェスの駒に見立てて、それを王が上から眺めたそうである。
 もう一つ、大勢がカメラを向けていたのは、宮廷地区の政務部分にあたる『ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)』である。吹き抜けの室内の中央には巨大な柱が建っており、2階の回廊につながる橋でこの柱の上に渡る構造になっている。ここには玉座が置かれ、王は貴賓や賢人達を迎え入れた。

パンチ・マハル(5層閣)
五層閣を支える柱石だが、木組みを思わせる構造になっている
五層閣を支える柱
ディワーネ・カース(貴賓謁見の間)は、宮廷地区の政務部分にあたる
ディワーネ・カースの室内中央に巨大な柱が建っており、2階の回廊からこの柱の上に渡る構造になっている

 

庭園

タージ・マハル
 威厳のある赤砂岩の正門横から横250メートル、奥行き350メートルの敷地に入っていくと、正面に泉水と庭園を前景にしたタージマハル(Taji Mahal)の姿が見えてくる。青空にそびえ立つ白大理石の完璧なシンメトリーは、「佇まい(たたずまい)」という表現がぴったりの静かな気品を醸し出している。基壇のディメンションは、95メートル四方、本体は57メートル四方、高さ67メートル、四隅の塔(ミナレット)の高さは43メートルである。1983年に世界遺産登録されている。
 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)が、皇帝になって3年目、1631年に妃のムムターズ・マハルが亡くなった。皇帝は、その死を悲しんで、ムガル帝国の国力を傾けて妃のために墓陵を建てた。「マハル」というのは、この亡くなった后の称号ムムターズ・マハルが変化したもので、「宮殿」という意味ではない。
 後に、この膨大な費用のために国が傾いて後継者争いが生じ、息子が第6代皇帝アウラングゼーブ帝となり、タージ・マハルを造った第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグラ城に幽閉されてしまうのである。そして、人間の運命とは奇なるもの。今度は、親を幽閉した息子の第6代皇帝アウラングゼーブ帝の第一妃、ディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓が、17世紀後半に息子のアーザム・シャーによってアウランガーバードに構築された。この「タージ・マハル」にならって建てられた廟墓が、「ビービー・カー・マクバラー廟」である。この名前は、「婦人の墓(Tomb of the Lady)」の意味だそうだが、タージ・マハルと似ているために「貧乏人のタージ」の愛称を付けられている。
 「ビービー・カー・マクバラー廟」については、後に別稿インドの「アウランガーバード」編で再度登場してもらう予定なのでお待ち下さい。

斜め横から撮ったタージ・マハルの門。南の正門である
タージ・マハルの門
門の天井
タージ・マハル
水面に映ったタージ・マハル
正面内部から撮ったタージ・マハル
内部のアップ
幾何学的な文様(アラベスク)、かつ抽象概念をも装飾書法(カリグラフィー)をもって表現するイスラミック・カリグラフィーが美しい
ミナレット
タージマハルの隣に建つモスク
大理石の浮き彫り
ここで大失敗。車を待たせた出口と違った扉から出てしまって戻れなくなり、「絶対にダメだ」の係員と喧嘩をしている人が私も含めてたくさんいた。規則を守らせるというより、頑迷な態度で、「不愉快な奴だ」の英語が飛び交っていた
「タージ・マハル」に似ていることから「貧乏人のタージ」の愛称で呼ばれるディルラース・バーヌー・ベーグムの廟墓(インドの「アウランガーバード」に建つ)

北インド・ジャイプル

初めてのインド訪問
 世界有数の人口、歴史、国土を誇るインドを旅する場合、その交通ネットワークが充実した首都のデリーを起点とする旅行計画を立てるのが合理的であろう。今回は、初めてのインド訪問なので、入り口である首都デリーに入って数日間滞在した後、贅沢であるが車をチャーターして周辺の都市を周遊する方法をとった。目的地は、デリーから南西へ約270キロメートルのラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊、デリーからヤムナー河沿いに約200キロメートル南のアーグラーとその郊外のファテープル・シークリーなどである。その後、デリーに戻ってワラーナシー(バナーラス)に飛んで数日間滞在、ワラーナシー近郊のサールナートを日帰りで訪ねて、デリーに戻る、といったルートである。

デリーからジャイプルへ向かう
 ラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊へ向かう。車のハンドルを握っていないということは、運転時の緊張感から解放され、よそ見をたっぷりと楽しむことができる。突然、車道に牛が迷い込んできたり、車の全体が隠れるほど牧草を目いっぱい積んだトラクターが自家用車を追い抜いて行ったり、杖を突いたおばあさんが飛び出したり、…等々、日本では考えられない道路・交通環境である。

インドの交通を背負って立つオートリクシャー
おっと危ない、牛の飛び出し?道路が人間のものだと決めているのは人間の勝手か?
チャーターした運転手付き車
トラクターに積んだ牧草。後方の交通情報は得られるのだろうか。よく見たら、牧草のスペシャルベッドに誰かが寝転がっていた

外国では?
 インドの道路を走行した経験の一端をご紹介したが、国外を旅した時に当時の日本ではなかなか経験できない海外の道路交通環境について、私の経験(驚き)を書いてみる。今では、慣れてしまったが。
 ①トルコのイスタンブールを妻と二人で訪ねた時の話。私は運転手の横の助手席に、妻は後部座席に乗っていたのだが、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げっぱなしであった。事情はこうである。車線に沿って走る、直進車優先、必要のないクラクションは鳴らさない、制限速度を守る、…、これらは全て通じない走行方法である。我先に車線に割り込む、クラクションは鳴りっぱなし、制限速度は無いようなもの、…、これらの運転方法が目前で行われるのである。その度に、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げるのである。
 ②今度は娘とイランに行った時の話。今度は私達は歩行者である。テヘランでは車の増加に対する道路整備が追い付かなく、また白タクが多いうえに信号機が少ないため、歩行者が信号機の無い道路を横切ることが極めて難しい。私達は手をつないで、祈りながら車道を横切る。車の方が私達を目ざとく見つけて、走ったり、止まったり。運が良かったのか、生きて帰ってきました。
 ③英国、バークシャー州(the county of Berkshire)にあるTRRL(Transport and Road Research Laboratory)に留学していた頃、自宅からTRRLに行く時に通るNine mile rideは車同士がやっとすれ違うことのできる道路幅であるが、皆さん、時速60マイルで走る。時速約100キロメートルである。TRRLを見学するために日本から私を頼って訪ねてこられる方々は、どなたかの運転を見て、「大丈夫?」と声を上げる。「大丈夫、人も犬も絶対に飛び出さない」。
 ④まだまだありますが、今日はこの辺で。

ジャイプル
 1728年にこの地方に権力をふるったカチワーハ家の王、サワーイー・ジャイ・スイン2世によって造られ、その名をとって「ジャイプルと呼ばれる」と運転手から説明があったが、「ジャイ」は分かるが、「プル」はどこから来たのだろう。バックミラー越しに私の表情を確かめた運転手は「プルは、城壁に囲まれた町を意味する」と即座に答えてくれた。インドで「プル」と名のつく地名を見た場合、おおよその地名を推定できるそうだ。オランダで「アムステルダム」や「ロッテルダム」のように、「ダム」が地名に使われているのと同じようなものである。
 ジャイプルの旧市街は7つの門を持つ城壁に囲まれている、「まさにジャイのプル」なのだが、その特徴は旧市街の街並みが赤みがかった土色(つちいろ)に統一されていることだ。皆さんは、ピンクシティPink Cityと呼んでいるようだ。

アンベール城
 ジャイプルから北東へ約11キロメートル行くと、丘の上に建つ巨大なアンベール城が見えてくる。16世紀初頭に時のマハーラージャ(「偉大な王」、「高位の王」を意味する サンスクリット語 の称号 )であるサワーイ・マン・スィンによって建設が開始され、その後、歴代の王により増改築が繰り返され、17世紀のジャイ・スィン1世の時代にほぼ現在の姿になった。
 大きな城で、距離も坂の勾配もあることから歩いて回るのがきつい方々のために、小型ジープあるいは象のタクシーが用意されているが、今回はハイヤーを用意しているので必要ない。

城の中庭からぐるりと360度写し、合成した一種のパノラマ写真
最も左側の写真は、客を乗せてアンベール城内を案内する象のタクシー
客待ちの象のタクシー
アンベール城ガネーシャ門
無許可のアイス屋さん?警官が来たので慌てて…。

ジャル・マハル(水に浮かぶ宮殿)
 アンベール城から車で20分ほどで「水に浮かぶ宮殿(ヒンディー語でジャル・マハル)」に着く。このマン・サガール湖の中央に浮かぶ神秘的なジャル・マハルは、なんと実際には5階建で、その半分以上が水の中にあることだ。元々は、王族の夏の保養地として使われていたそうだが、私が訪ねたのは乾期の12月であるが、7月から9月の雨季にはより水位が高くなるだろうし、かつ不快指数も高くなるので、王族の方々は水位が下がり日中の気温が40℃を超える3月末から5月頃に訪れたのだろうか。

神秘的なジャル・マハル

インドカレー
 今日のお昼は、ジャイプルの繁華街にあるカレー専門店である。カレーライスと書かずにカレーと書いたのは、前者はカレーを米飯にかけて食べる料理であり、ある意味で「日本の国民食」と言って良いであろう。食べ物のことなので一概には言えないが、カレーの発祥の地はご存知のとおりインドであるが、その後色々な変化を経て、特に英国の影響を受けて日本に伝わっている。
 私達が住んでいた英国バークシャー州の某所では、就学前の子供達が集まって遊ぶ幼稚園の様なものがあった。長女がその年齢に達していたので、毎日ではないが、妻と一緒に通っていた。必然的に親同士の交流の場になり、そこにインド人の親子がいたので、「まだ見ぬ国インド」、『未だ見ぬ国日本』について情報交換が始まる。話を急ごう。英国人も交じって「カレー」の話になった(そうだ←妻)。小麦粉を油脂で炒めて作る「カレールー」や「カレー粉」は、インドを植民地化していたイギリスで誕生したものだそうで、日本へは開国を機にインド風ではなく、英国風カレーが伝わったという話である。つまり「カレー」とはインドのスパイスを活用した英国風料理だそうだ。そして、カレーライスは時代とともに日本のジャポニカ種(米)に合う独特の「日本風カレー」へと変化し、「日本の国民食」となったのである。
 話が横の横にずれますが、ロンドンのウェストエンドやピカデリーなどの繁華街にあるパブでは、日本人が懐かしむ味のカレーがありますよ。お訪ねください。
 さて、ジャイプルのカレー専門店で出されたカレーであるが、写真にあるようにナン(パン?)、カレールー、アニスという独特の甘い香りを持つスパイス、砂糖が並べられた。運転手から「インド人は普通、カレーに砂糖は入れない」と聞いていたが、隣りのテーブルで食べていたインド人ご夫婦はアニスに砂糖を少しかけて食べていた。私はご飯を追加で貰って、ルーをかけて食べました。

ジャイプルのレストランでインドカレー
アニス(薬草)と砂糖(食後に一緒に食べる)

風の宮殿
 風の宮殿(ハワ・マハル)は、シティ・パレスの東側に位置する。彫刻を施したテラスが並び、窓は手前に張り出していて、いかにも風通しが良く見える構造のせいか、『風の宮殿』の名前が付いている。かつて宮廷の女性達がここから町を見下ろしたという。

格子窓を風が通り抜ける時に音を立てることから風の宮殿と呼ばれる
風の宮殿(ハワ・マハル)

ジャンタル・マンタル
 ジャンタル・マンタルとは天文台のことである。ここでも、ジャイプルを築いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世が登場する。彼は、天文学に興味を持ち、ペルシャやヨーロッパの文献を読んで造形を深め、ついにはムガル皇帝の許可を得て、インド各地に天文台を作った。参考にしたのは、中央アジアのウルグ・ベグの天文台である。最初はデリー(1724年)、次にジャイプル(1728年)、ウッジャィン(1734年)、ワラーナシー(1737年)、マトゥラー(1738年、現存しない)の5か所である。
 暦の制作や日照り、洪水などの気象予測などを行った。ジャイプルのものが最も大きく、観測儀の数も多い。現在見られるものは1901年に修復されたもので、2010年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

ジャンタル・マンタル(天文台)には色々な種類の観測儀が設営されている

シティ・パレス
 シティ・パレスは、1726年、マハーラージャ、サワーイー・ジャイ・スィン2世によって町の中心に造られた。以降、後継者によって増築され現在の姿となっている。7階建ての建物は多くの装飾がなされ美しさを誇っていて、現在も一部はマハーラージャの住居となっているが、他は博物館として使用されている。
 建物の敷地に入ると大きな中庭があり、その中央に「ムバーラク・マハル」と呼ばれるテキスタイルの展示館がある。歴代のマハーラージャの着衣とか、宮中で使用された楽器などが展示されている。同じ中庭にアートギャラリーがあり、絵画や写真が展示されている。
 シティ・パレスでひときわ目立つ建物が、「ディーワーネ・カース」と呼ばれる貴賓謁見の間である。赤砂岩と白大理石で造られた豪華な建造物である。入口には黒で決めた衛兵が二人立っていたが、記念写真をお願いすると両脇に立ってくれた。「ありがとう」。この衛兵と共に入口に置かれていたのが、巨大な銀の壺である。1902年、日英同盟が締結された年であるが、エドワード7世の戴冠式に出席したマハーラージャがこの壺にガンガーの水を入れて船で英国まで運ばせたものだそうだ。敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この水で毎日沐浴をしていたそうだ。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である。

ギャラリーに飾られている絵画
ムバーラク・マハルと呼ばれるテキスタイルの展示館
シティ・パレスの中にあるディーワーネ・カースと呼ばれる貴賓謁見の間
ディーワーネ・カースの入り口に置かれている銀の壺。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である
パレスの正面にある中庭「ピタム・ニワス・ チョウク」には 4つの美しい扉があるが、「クジャクの扉」の一部である
ナンを焼く炉の制作現場を見学。時間があったら学びたかったが、…。

サンガネール
 サンガネールは、ジャイプルの南16キロメートルにある木版染めで有名な村である。サラスヴァティー川を渡った橋の西側のほとりには職人達が集まる工房がたくさんある。木版彫り、下地染め等々、女性を中心とした職人達が一心不乱に働いている。サンガネール染めの更紗をお土産として家族に頼まれているせいもあって見学に力が入る。茜の花柄模様は、更紗の代表格というか、日本でも着物のお好きな方々が夏に愛用する定番というか、魅力に溢れたパターンである。私が訪ねた工房では、4人の女性が手際よく分業をこなしている姿は感動的で、こういう職人達の工房見学には目の無い私にとっては、至福の時である。

サンガネール(更紗)工房にあった道具
色々な型のアップ
きれいな方々でした

ビルラー寺院
 翌日、朝からジャイプルのビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)を訪ねる。資産家のビルラー家がインド各地に建立した寺院の一つで、ピンクシティのジャイプルにあって白い外観は珍しい。内部もヒンドゥー寺院にはめったに見られないステンドグラスで装飾されているが、描かれているモチーフはヒンドゥーの神話の神々である。
 寺院に入る前に、靴脱ぎ場があってここで靴を脱いで中に入るようになっている。

ジャイプルのビルラー家によって建てられたビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)
寺院に向かう途中にある像の一つ
ビルラー寺院のアップ
靴脱ぎ場。ここで靴を脱いで中に入る
ヒンドゥー寺院ではめったに見られないステンドグラスの装飾