北インド・ジャイプル

初めてのインド訪問
 世界有数の人口、歴史、国土を誇るインドを旅する場合、その交通ネットワークが充実した首都のデリーを起点とする旅行計画を立てるのが合理的であろう。今回は、初めてのインド訪問なので、入り口である首都デリーに入って数日間滞在した後、贅沢であるが車をチャーターして周辺の都市を周遊する方法をとった。目的地は、デリーから南西へ約270キロメートルのラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊、デリーからヤムナー河沿いに約200キロメートル南のアーグラーとその郊外のファテープル・シークリーなどである。その後、デリーに戻ってワラーナシー(バナーラス)に飛んで数日間滞在、ワラーナシー近郊のサールナートを日帰りで訪ねて、デリーに戻る、といったルートである。

デリーからジャイプルへ向かう
 ラージャスターン州の州都ジャイプルとその近郊へ向かう。車のハンドルを握っていないということは、運転時の緊張感から解放され、よそ見をたっぷりと楽しむことができる。突然、車道に牛が迷い込んできたり、車の全体が隠れるほど牧草を目いっぱい積んだトラクターが自家用車を追い抜いて行ったり、杖を突いたおばあさんが飛び出したり、…等々、日本では考えられない道路・交通環境である。

インドの交通を背負って立つオートリクシャー
おっと危ない、牛の飛び出し?道路が人間のものだと決めているのは人間の勝手か?
チャーターした運転手付き車
トラクターに積んだ牧草。後方の交通情報は得られるのだろうか。よく見たら、牧草のスペシャルベッドに誰かが寝転がっていた

外国では?
 インドの道路を走行した経験の一端をご紹介したが、国外を旅した時に当時の日本ではなかなか経験できない海外の道路交通環境について、私の経験(驚き)を書いてみる。今では、慣れてしまったが。
 ①トルコのイスタンブールを妻と二人で訪ねた時の話。私は運転手の横の助手席に、妻は後部座席に乗っていたのだが、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げっぱなしであった。事情はこうである。車線に沿って走る、直進車優先、必要のないクラクションは鳴らさない、制限速度を守る、…、これらは全て通じない走行方法である。我先に車線に割り込む、クラクションは鳴りっぱなし、制限速度は無いようなもの、…、これらの運転方法が目前で行われるのである。その度に、私は「あっ、危ない」、「おっ、おい」などと声を上げるのである。
 ②今度は娘とイランに行った時の話。今度は私達は歩行者である。テヘランでは車の増加に対する道路整備が追い付かなく、また白タクが多いうえに信号機が少ないため、歩行者が信号機の無い道路を横切ることが極めて難しい。私達は手をつないで、祈りながら車道を横切る。車の方が私達を目ざとく見つけて、走ったり、止まったり。運が良かったのか、生きて帰ってきました。
 ③英国、バークシャー州(the county of Berkshire)にあるTRRL(Transport and Road Research Laboratory)に留学していた頃、自宅からTRRLに行く時に通るNine mile rideは車同士がやっとすれ違うことのできる道路幅であるが、皆さん、時速60マイルで走る。時速約100キロメートルである。TRRLを見学するために日本から私を頼って訪ねてこられる方々は、どなたかの運転を見て、「大丈夫?」と声を上げる。「大丈夫、人も犬も絶対に飛び出さない」。
 ④まだまだありますが、今日はこの辺で。

ジャイプル
 1728年にこの地方に権力をふるったカチワーハ家の王、サワーイー・ジャイ・スイン2世によって造られ、その名をとって「ジャイプルと呼ばれる」と運転手から説明があったが、「ジャイ」は分かるが、「プル」はどこから来たのだろう。バックミラー越しに私の表情を確かめた運転手は「プルは、城壁に囲まれた町を意味する」と即座に答えてくれた。インドで「プル」と名のつく地名を見た場合、おおよその地名を推定できるそうだ。オランダで「アムステルダム」や「ロッテルダム」のように、「ダム」が地名に使われているのと同じようなものである。
 ジャイプルの旧市街は7つの門を持つ城壁に囲まれている、「まさにジャイのプル」なのだが、その特徴は旧市街の街並みが赤みがかった土色(つちいろ)に統一されていることだ。皆さんは、ピンクシティPink Cityと呼んでいるようだ。

アンベール城
 ジャイプルから北東へ約11キロメートル行くと、丘の上に建つ巨大なアンベール城が見えてくる。16世紀初頭に時のマハーラージャ(「偉大な王」、「高位の王」を意味する サンスクリット語 の称号 )であるサワーイ・マン・スィンによって建設が開始され、その後、歴代の王により増改築が繰り返され、17世紀のジャイ・スィン1世の時代にほぼ現在の姿になった。
 大きな城で、距離も坂の勾配もあることから歩いて回るのがきつい方々のために、小型ジープあるいは象のタクシーが用意されているが、今回はハイヤーを用意しているので必要ない。

城の中庭からぐるりと360度写し、合成した一種のパノラマ写真
最も左側の写真は、客を乗せてアンベール城内を案内する象のタクシー
客待ちの象のタクシー
アンベール城ガネーシャ門
無許可のアイス屋さん?警官が来たので慌てて…。

ジャル・マハル(水に浮かぶ宮殿)
 アンベール城から車で20分ほどで「水に浮かぶ宮殿(ヒンディー語でジャル・マハル)」に着く。このマン・サガール湖の中央に浮かぶ神秘的なジャル・マハルは、なんと実際には5階建で、その半分以上が水の中にあることだ。元々は、王族の夏の保養地として使われていたそうだが、私が訪ねたのは乾期の12月であるが、7月から9月の雨季にはより水位が高くなるだろうし、かつ不快指数も高くなるので、王族の方々は水位が下がり日中の気温が40℃を超える3月末から5月頃に訪れたのだろうか。

神秘的なジャル・マハル

インドカレー
 今日のお昼は、ジャイプルの繁華街にあるカレー専門店である。カレーライスと書かずにカレーと書いたのは、前者はカレーを米飯にかけて食べる料理であり、ある意味で「日本の国民食」と言って良いであろう。食べ物のことなので一概には言えないが、カレーの発祥の地はご存知のとおりインドであるが、その後色々な変化を経て、特に英国の影響を受けて日本に伝わっている。
 私達が住んでいた英国バークシャー州の某所では、就学前の子供達が集まって遊ぶ幼稚園の様なものがあった。長女がその年齢に達していたので、毎日ではないが、妻と一緒に通っていた。必然的に親同士の交流の場になり、そこにインド人の親子がいたので、「まだ見ぬ国インド」、『未だ見ぬ国日本』について情報交換が始まる。話を急ごう。英国人も交じって「カレー」の話になった(そうだ←妻)。小麦粉を油脂で炒めて作る「カレールー」や「カレー粉」は、インドを植民地化していたイギリスで誕生したものだそうで、日本へは開国を機にインド風ではなく、英国風カレーが伝わったという話である。つまり「カレー」とはインドのスパイスを活用した英国風料理だそうだ。そして、カレーライスは時代とともに日本のジャポニカ種(米)に合う独特の「日本風カレー」へと変化し、「日本の国民食」となったのである。
 話が横の横にずれますが、ロンドンのウェストエンドやピカデリーなどの繁華街にあるパブでは、日本人が懐かしむ味のカレーがありますよ。お訪ねください。
 さて、ジャイプルのカレー専門店で出されたカレーであるが、写真にあるようにナン(パン?)、カレールー、アニスという独特の甘い香りを持つスパイス、砂糖が並べられた。運転手から「インド人は普通、カレーに砂糖は入れない」と聞いていたが、隣りのテーブルで食べていたインド人ご夫婦はアニスに砂糖を少しかけて食べていた。私はご飯を追加で貰って、ルーをかけて食べました。

ジャイプルのレストランでインドカレー
アニス(薬草)と砂糖(食後に一緒に食べる)

風の宮殿
 風の宮殿(ハワ・マハル)は、シティ・パレスの東側に位置する。彫刻を施したテラスが並び、窓は手前に張り出していて、いかにも風通しが良く見える構造のせいか、『風の宮殿』の名前が付いている。かつて宮廷の女性達がここから町を見下ろしたという。

格子窓を風が通り抜ける時に音を立てることから風の宮殿と呼ばれる
風の宮殿(ハワ・マハル)

ジャンタル・マンタル
 ジャンタル・マンタルとは天文台のことである。ここでも、ジャイプルを築いたマハーラージャ、ジャイ・スィン2世が登場する。彼は、天文学に興味を持ち、ペルシャやヨーロッパの文献を読んで造形を深め、ついにはムガル皇帝の許可を得て、インド各地に天文台を作った。参考にしたのは、中央アジアのウルグ・ベグの天文台である。最初はデリー(1724年)、次にジャイプル(1728年)、ウッジャィン(1734年)、ワラーナシー(1737年)、マトゥラー(1738年、現存しない)の5か所である。
 暦の制作や日照り、洪水などの気象予測などを行った。ジャイプルのものが最も大きく、観測儀の数も多い。現在見られるものは1901年に修復されたもので、2010年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

ジャンタル・マンタル(天文台)には色々な種類の観測儀が設営されている

シティ・パレス
 シティ・パレスは、1726年、マハーラージャ、サワーイー・ジャイ・スィン2世によって町の中心に造られた。以降、後継者によって増築され現在の姿となっている。7階建ての建物は多くの装飾がなされ美しさを誇っていて、現在も一部はマハーラージャの住居となっているが、他は博物館として使用されている。
 建物の敷地に入ると大きな中庭があり、その中央に「ムバーラク・マハル」と呼ばれるテキスタイルの展示館がある。歴代のマハーラージャの着衣とか、宮中で使用された楽器などが展示されている。同じ中庭にアートギャラリーがあり、絵画や写真が展示されている。
 シティ・パレスでひときわ目立つ建物が、「ディーワーネ・カース」と呼ばれる貴賓謁見の間である。赤砂岩と白大理石で造られた豪華な建造物である。入口には黒で決めた衛兵が二人立っていたが、記念写真をお願いすると両脇に立ってくれた。「ありがとう」。この衛兵と共に入口に置かれていたのが、巨大な銀の壺である。1902年、日英同盟が締結された年であるが、エドワード7世の戴冠式に出席したマハーラージャがこの壺にガンガーの水を入れて船で英国まで運ばせたものだそうだ。敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この水で毎日沐浴をしていたそうだ。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である。

ギャラリーに飾られている絵画
ムバーラク・マハルと呼ばれるテキスタイルの展示館
シティ・パレスの中にあるディーワーネ・カースと呼ばれる貴賓謁見の間
ディーワーネ・カースの入り口に置かれている銀の壺。ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品である
パレスの正面にある中庭「ピタム・ニワス・ チョウク」には 4つの美しい扉があるが、「クジャクの扉」の一部である
ナンを焼く炉の制作現場を見学。時間があったら学びたかったが、…。

サンガネール
 サンガネールは、ジャイプルの南16キロメートルにある木版染めで有名な村である。サラスヴァティー川を渡った橋の西側のほとりには職人達が集まる工房がたくさんある。木版彫り、下地染め等々、女性を中心とした職人達が一心不乱に働いている。サンガネール染めの更紗をお土産として家族に頼まれているせいもあって見学に力が入る。茜の花柄模様は、更紗の代表格というか、日本でも着物のお好きな方々が夏に愛用する定番というか、魅力に溢れたパターンである。私が訪ねた工房では、4人の女性が手際よく分業をこなしている姿は感動的で、こういう職人達の工房見学には目の無い私にとっては、至福の時である。

サンガネール(更紗)工房にあった道具
色々な型のアップ
きれいな方々でした

ビルラー寺院
 翌日、朝からジャイプルのビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)を訪ねる。資産家のビルラー家がインド各地に建立した寺院の一つで、ピンクシティのジャイプルにあって白い外観は珍しい。内部もヒンドゥー寺院にはめったに見られないステンドグラスで装飾されているが、描かれているモチーフはヒンドゥーの神話の神々である。
 寺院に入る前に、靴脱ぎ場があってここで靴を脱いで中に入るようになっている。

ジャイプルのビルラー家によって建てられたビルラー寺院(ヒンドゥー寺院)
寺院に向かう途中にある像の一つ
ビルラー寺院のアップ
靴脱ぎ場。ここで靴を脱いで中に入る
ヒンドゥー寺院ではめったに見られないステンドグラスの装飾

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