ムンバイー
ムンバイーの空港から市内への一般的な移動の仕方は、空港の最寄り駅アンデーリーまでオートリクシャーで相乗りし、そこから郊外列車のウェスタン・レィルウェイ(Western Railway)でチャーチゲィト駅(Churchgate Station)を目指す。約40分かかる。駅からホテルへの移動は、私の場合は、あらかじめ予約しておいたゲストハウスまで約1キロメートルであったが、荷物があるのでタクシーに相乗りした。ここは、市内中心部にはオートリクシャーは入ることができないので注意が必要である。
その市内中心部であるが、16世紀には7つの島々と小さな漁村の集まりだったムンバイーだが、埋め立てによって島々がつながり、漁村と一体になって、19世紀には現在のように半島が突き出た形に変化していった。現在、コラバColaba地区と呼ばれる最南端は最も栄えており、そこから北へ行ったフォートFort地区にはムンバイー大学そしてチャーチゲィト駅がある。
「ムンバイー」はヒンドゥー教の女神の名前であるが、州都の公式名称が「ボンベイ」からマラーティー語のムンバイーと変更されたのは、1996年のことである。ボンペイはポルトガル語の「良港=ボンバイア」に由来する呼び名である。1661年にイギリスへと割譲され、現在、我々が目にするコロニアル風の町並みがスタートした。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ、“クイット・インディア=インドを立ち去れ”運動を展開した。ムンバイーはインド独立後、最終的にマハーラシュトラ州の州都となった。
インドが現在、世界の映画産業の中心地の一つであることはご存知かと思いますが、そういう私は、「ボリウッド」という造語を知りませんでした。『ボンベイ+ハリウッド=ボリウッド』では、ヒンディー映画産業の中心地として年間900本以上の映画を制作しているそうだ。
コラバ地区
最も旅行者に人気のあるコラボ地区にはたくさんの見所があるが、写真を撮るのに観光客が集まっているのはインド門辺りである。かつては植民地支配の象徴だったインド門も、現在では、観光客、地元の親子連れやカップル達の憩いの場となっている。英国国王(インド皇帝)ジョージ5世とメアリー王妃夫妻の来印を記念して、湾に面して建つ巨大な門、インド門の建設が始められ、1924年に完成した。その後は、英国本土からの来印歓迎式典の会場となった。現在はエレファンタ島行きのフェリーや湾内観光船の発着所となっている。実物を見ると分かるのだが、門の下には約600人を収容できる。それほど巨大なのである。
19世紀末、ムンバイー一の資本家であったジャムシェードジー・ターターが外国の友人と某ホテルに夕食に出かけたところ、ヨーロッパ人専用である旨を告げられ、入場を拒まれた。愛国心溢れるターターの義憤を刺激し、…、では終わらない。超一流人物の証である。ここで彼は母国の入口とも言えるムンバイーに世界に通用する一流ホテルの建設を思い立つのである。当時の先進国である欧州に渡り、エレベーター、発電機などの最新機器を調達、さらにエッフェル塔に魅せられて塔を支えている錬鉄(れんてつwrought iron)製の鉄骨を調達した。専門的な説明は避けたいが、炭素の含有量が少ない錬鉄は鋳鉄に比べて強靭で、また、ある程度の量産が可能であることから、鋼鉄の大量生産の手法が発明されるまで建造物の部材の材料として利用されていた。
構造物の建設競争を調べると、素材革命の競争でもあり、新材料、新技術を利用した構造物の開発競争、例えば、英国のアイアンブリッジ、ドイツのケルン大聖堂等々、枚挙に暇がない。アイアンブリッジについては、私の滞英中、とくに1979年は建設200年記念の行事が英国各界で続いたため、日本から来られる関係各位をご案内した記憶がある。この話の詳細については、本ホームページのいくつかでご紹介したので、ここでは省略させていただきたい。
注)アイアンブリッジは最初に建設された鉄橋とされるが正確には異なる。1755年には、コストの観点から放棄されたがリヨンで鉄橋が一部建設されている。また、1769年にはヨークシャーで水路を跨ぐ錬鉄製の歩道橋が建設されている。
個人的なことで恐縮であるが、私は信徒ではないが、長い間、拝火教 or ゾロアスター教( Zoroaster 、ザラスシュトラZarathushtra、ドイツ語読みで ツァラトゥストラがイランで興した宗教)に興味を持ち、1997年にイランのイスファハンを訪ねた折、山の上にある拝火教寺院の跡 および町にある新しい寺院を訪ねたことがある。急に拝火教の話題に転じたのは、ターター一族はパルシー(拝火教徒)と知られいるためである。写真の一部をご紹介した。
ここは(ササン朝)ペルシアの国教であった拝火教を話す場ではないので、残りは割愛させていただくが、インドについて話す場合は、『ターターTATA』を避けては通れなく、その一部をご紹介させていただいた
舌がもつれる
「チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤ」。何度読んでも最後まで一気に読み切れない。どなたか舌のもつれない、短いニックネームを見つけてください。1905年、英国の皇太子(The Prince of Wales)の訪印に合せて建設された建物で、最初は(英国のしきたり通り?)、プリンス・オブ・ウェールズ博物館(The Prince of Wales Museum of Western India)だったのだが…。
日本語のオーディオガイドも用意されている。見所は、ヒンドゥーとイスラムの細密画のコレクションで、多くの人達が足を止めていた。インドの大財閥ターターTATA家のコレクションもありました。
エレファンタ石窟
ムンバイから北東へ約10キロメートル、ムンバイ湾の真ん中に浮かんでいるエレファンタ島へは、インド門裏手から出る船で約1時間、普通クラスでRs120である。巨大なインド門が次第に小さくなっていく。到着してから石窟の入り口まで約100段ほどの階段を徒歩で登っていく。籠を利用することもできる。帰りは機関車に似せた乗り物で戻ることができるので安心だ。
この島には。7窟のヒンドゥー教の石窟寺院があり、内部には彫刻が残されている。6~8世紀の作とされる石窟があり、すべてシヴァ神が祀られている。16世紀に発見したポルトガル人によって石窟の多くが破壊されたが、第一窟は破壊を免れており、シヴァの神話の世界が彫刻で表現されている。1987年に世界遺産に登録された。結婚や踊るシヴァの像、巨大な三面上半身像を見ることができる。踊ったり、結婚式を挙げたり、さまざまな表情を持つシヴァの彫刻を見ていると、シヴァ神がとても身近に感じられます。
カーンヘーリー石窟群
昨日は、ムンバイーから船に乗ってエレファンタ島の石窟を楽しんだが、今日もムンバイー郊外の北約42キロメートルにあるサンジャイ・ガーンディー国立公園に出かける。ここには、紀元前1世紀から1000年以上にわたって作り続けられた「カーンヘーリー石窟群(Kanheri Caves)」と呼ばれる仏教石窟寺院群が存在するのである。
ゲストハウスから北に1キロメートル歩いて、インド政府観光局で簡単な観光資料を貰い、目の前にあるチャーチゲィト駅に向かう。方向は逆であるが、数日前にチェンナイからここムンバイーに飛び、市内に向かった時に使った路線なので、経験済みである。ここは郊外列車のウェスタン・レィルウェイのフォート地区の始発駅で、ボリヴリ駅(Borivli Station)まで約1時間である。ボリヴリ駅前にはタクシーやオートリクシャーが待ち構えているので、公園入口まで1キロメートル、さらに石窟まで7キロメートルと距離があるので、多くの旅行者はオートリクシャーをチャーターする。