ミャンマー・インレー湖

バガンを振り返って、そしてビルマを思い出す
 バガンでは、あまりにも多くの文化を背負った歴史に接してきた。ミャンマー屈指の仏塔や寺院を誇るバガンを歩き廻って心身ともに充実し、そして疲れた。今まで見てきた11世紀から13世紀を中心とした仏教資産は、バガン王国の興隆からフビライハーンの侵攻による没落までの250年余りにわたって建設されてきたものだ。一部は考古学保護区に指定されている城壁に囲まれている部分は、「一種の保護区・オールド・バガン」と呼ばれている由緒ある所で、今(2021年)、改めて思い返している。
 個人的なことであるが、私にはミャンマーには特別の思い入れがある。一つは「映画・ビルマの竪琴」であり、もう一つは1979年英国のTRRLにいた当時、家族と一緒にカーディフ城を訪ねた時の印象である。1980年6月、協会誌に掲載された若かりし頃の文章であるが、ここに再掲したい。

イキな道路技術者(1980年6月に某協会誌に掲載された文章から抜粋)                  『Fishguardからの帰りに,かつてのWalesの首都Cardiffで一夜をすごした.Cardiff城で毎年行なわれているSearch light Tattooには数日間早すぎたが,ヤギを先頭に行進する軍の雄姿を見る機会を得た.多くの地元の人々が涙を流して声援する光景は筆者には何とも説明しがたい複雑な気持ちになった.そして,巨城Cardiff城内にあるThe Welch Regimertに入った時に観たビルマBurmaにおける日本軍との交戦の記録,戦利品として展示されている“Wood Pecker” Machine Gun(九二式重機関銃)を観た時には,さらに複雑な気持になったことは言うまでもない.若い世代はともかくも,かつて戦った世代には不幸な戦争の傷あとがいまだ消えずといった印象を受けた.しかし,Cardiff城の地下にあるローマ時代の城壁を観た後,誤って非公開の場所に入った時に軍の関係者が「気にするな」と言って笑顔をふりまくほど英国人は寛容であることをぜひつけ加えたい.』(以上)

 最近の(2021年の)ミャンマー(ビルマ)の国の状態が心配である。いかなる場合も、国軍が国民に銃を向けてはいけない。暗い文章になってゴメンなさい。

バガンからインレー湖へ
 楽しかったバガンに敬意を表しつつ、今回のミャンマー旅行の楽しみに一つ、市場巡りに向かいたい。市場があって、物が売られていて、…、ということになってしまうが、市場巡りの楽しみは、確かに物とお金のやり取りなのだが、本質は、“丁々発止”、“心のやり取り”だと思う。私の表現力では、散文的な文字を並べ、近頃ではデジカメ画像をはめ込む、一種の表現の堕落になっていることを深く反省している。ある意味では、文章の裏に隠れた個人的な思い出を綴っているのかもしれない。すみません。

今日も、ミャンマー屈指のマーケット市場であるインレー湖へ行って思い出を集めてきたい。

朝一番でバガンからインレー湖方面へ向かう。日本で使われていた中古バスである
早朝バスだが、そこそこ混んでいる
車窓から見る夜明けの美しさは旅の楽しみの一つ
アスファルト舗装の工事現場。発展途上の国で良く見る風景である
本格的なアスファルト舗装プラントなど無い。ドラム缶に入っているアスファルトを薪を燃やして溶かしている

アスファルトと粒径の大きな骨材(粗骨材)を混ぜて道路に敷き均し(写真参照)、転圧後にアスファルトと砂など(細骨材)と混合した表層材料を敷き均して転圧。温度が下がると交通開放。いやぁ、参った。専門のことを書く時は皆さんへの表現が難しく数十倍も時間を要した

記憶喪失
 ブラブラしているうちに、小さな町をいくつか過ぎて、今の時間は約17時半。側にボート乗り場があり「ジプシーイン」と書かれたゲストハウスで宿泊することになった。実はバガンで宿泊したゲストハウスと親戚にあたる宿屋であった。恥ずかしながら、このあたりの記憶が無く、バガンからご一緒した誰かが書いてくれた私のメモ帳に「ゲストハウス名」、そして「ニャゥンシュエで最も古いヤダナマンアウン・パヤー」と英語で書かれたメモだけが情報であった。そして、私のカメラには「ボート乗り場」、「ヤダナマンアウン・パヤー」、「夕焼け」、「ディナー」等の写真が残っていた。私が確かに訪ねたという証拠である。

ボート乗場
ニャゥンシュエで最も古いヤダナマンアウン・パヤーYadana Manaung Pagoda
ゲストハウスから撮った夕日
ディナーで食べたローストビーフ350円、ミャンマービール200円。無謀な比較ですが、この料金をどう思いますか

心機一転インレー湖巡り
 何とか記憶を繋いで、今日は、心機一転インレー湖巡りに出かける。インレー湖は、南北に22メートル、東西に12メートル、平均深さ2メートル。雨季でも6メートルである。インレー湖で漁業を営むインダー族は、細長いボートのへりに片足で立ち、別の片足を使ってオールを見事に操る。今回は、そのシャッターチャンスを逃して残念。

インレー湖巡りへ出発

水上生活者のインダー族
タンタウンThan Taung上陸。のどかな田園風景を見ながらマーケットへ向かう
マーケットへ向かう途中に見たのどかな風景
お母さんたちは薪を束ねて売っている
そっくりですね
神様が祀られている
竹籠売り
マーケットの入口、美味しそう
野菜の秤り売り
魚の秤り売り
アクセサリー売場
穀類の秤り売り
の秤り売り

マーケットから移動
 マーケットから移動して、職人街みたいな所へ移動する。目的の一つは、金属製のリングをはめて首を長く見せるパダウン族の女性を見たいことと、その機織り(はたおり)技術を見たいことである。

パダウン族の女性の機織り
金属製のリングをはめて首を長く見せる
私は自分は普通の体型だと思っているが、この輪を首に付けたらどんな姿になるのだろう?
機織りの作業
笑顔が素敵
すぐそばの金銀細工
インポーコンIn Paw Khonの糸作り
露店
湖上にそびえる巨大な水上寺院ファウンドーウー・パヤーPhaung Daw U Paya
競うように金箔を貼っているが、寺院の外で高値で金箔を売っているのがいるので要注意
ファウンドーウー・パヤー
約150年前に建てられたガーぺー僧院Nga Phekyaung。仏像の台座はシャン族独特の仏教様式でタイ北部でも見られる
ガーペー僧院は湖上に建つ木造の僧院で、1844年に建てられた本堂の中には色々な種類の仏像が祀られている
ガーぺー僧院の猫がジャンプする様子。今もジャンプネコはいるのだろうか

ミャンマー・バガン

ヤンゴンからバガンへ
 今日は好きな夜行寝台でヤンゴン中央駅からバガンへ移動である。チケットは既に取ってあるし、体調を整えるだけだ。亀に入れた水が無料で提供されるが、日本語でだれが書いたのか、「飲むのは控えた方が良い」そうだ。そのせいか、皆さん、前もって水を買い求めている。それよりも何よりも、安い椅子席の車両の前のホームは席を争う乗客でいっぱいである

ヤンゴン中央駅
ホームの隅に置いてあった亀に入れた飲み水
(安い)椅子席の車両の前のホームは乗客でいっぱいである
列車が発車する時だけではない。走行時の列車の揺れが半端じゃないし、線路横の立木の小枝が車両にぶつかって、慣れないうちは恐怖であった
寝台Sleeper下段 50USD。でも列車の好きな方ならお判りでしょうが、この揺れがゆりかごになって、アルコールの助けは必要なかった

バガンへ移動してゆっくりと
 熟睡したのか、車掌に起こされるまで眠ってしまった。ところで、写真はヤンゴン駅で知り合いになったオランダ人親子である。ヤンゴン中央駅のホーム近くでバガン行きの列車を待っていたところ、屋根の上にいた鳩がフンをして、お嬢さんの髪が汚れてしまった。駅員が御親切に、『申し訳ない』と言ってお嬢さんの頭を手ぬぐいで洗い始め、我々にも新しい手ぬぐいをくれた。それが縁で、バガンに着いた後、この乗合タクシーでパチリ。この後の宿も彼らが予約していたゲストハウス「ゴールデン・ミャンマー」に誘われ、ご一緒させていただいた。

ヤンゴン駅で知り合いになったオランダ人親子
宿泊した「ゴールデン・ミャンマー」ゲストハウス。私は滅多に宿泊所名を出さないが、バガンの他の町でも、ここのオーナーの奥さんと従妹の方が経営しているゲストハウスに宿泊した

バガンとポッパ山
 バガンに来た観光客が必ず訪れるポッパ山は、バガンの南東約50キロメートルと遠い。タクシーを雇うと約4万Kと高い。私の泊ったゲストハウスは旅行会社も兼ねていてこの辺りでは顔ききらしく、他のゲストハウスに泊まっていた若いドイツ人女性と半額をシェアできるようにセットしてくれた。相当な教養人で、ドイツ語が全くできない私に気を使ってくれて、例のストロングアクセントの英語でホッパ山のことを色々と教えてくれた。私も「…の歩き方」の受け売りで英語に訳してもっともらしく応対した。
 ホッパ山は、25万年前に活動を停止した標高1518メートルの死火山。タウン・カラッTaung Kalatと呼ばれる岩峰の標高は737メートル。ミャンマーの土着信仰であるナッ神信仰の聖地とされてきた。花が大好きなドイツ人女性は、「ポッパ」とはサンスクリット語に由来し、「花の溢れた」という意味だと教えてくれた。

朝早く、ゲストハウスの近くを散歩中に見た観光用馬車のエサ
観光用馬車。後ろ足を揃えて上品な立ち方である
日本で使われていた中古トラックを持ち込んでここで使っている
ポッパ山に行く途中で見た牛に引かせた碾臼(ひきうす)
碾臼の中のピーナッツ。絞りかすは動物のエサ
お嬢さんが集めていたピーナッツ油
バガンの南東約50キロメートルに位置するポッパ山の中腹にあるタウン・カラッTaung Kalat
タウン・カラッの岩峰はミャンマーの土着信仰であるナッ信仰の聖地である
山麓に建てられた別荘住宅
タウン・カラッへの参道の入口
ここまでの岩山の階段は 777段 
タウン・カラッから見たホッパ山
頂上にある祠。この中にナッツ神がある
タウン・カラッから見た、麓(ふもと)に建てられた別荘住宅
麓は門前町のようになっていて市場がある
市場では小学生の年頃の子供達が店番をしている。この国の将来を担う彼等・彼女等に必要なのは「教育だ」。ツァーメイトのドイツ人ご婦人と意見が一致したのだが、あれ(私達が2012年にミャンマーを訪ねて)から9年。困難な政治・社会環境にあるかつての子供達はどうしているだろう
豆腐もある
レストラン
ランチ。おかずが多いミャンマー料理。インドカレーほど香辛料は強くない

バガンに戻って
 ホッパ山に登った心地よい疲れとある種の神秘的な雰囲気を身にまとって、バガンに戻ってきた。それ故か、街中は市場に足が向いてしまう。やはり、心と体が浮き立つ。

バガンに戻って
米 屋

自転車を借りてバガンの遺跡巡り
 翌日、ゲストハウスのおじさんに勧められて、自転車を借りてバガンの遺跡巡りをすることにした。自転車は右側通行、あるいは左側通行のどちらかを聴いたが、不思議な顔をして「知らない」と答え、「それよりも、下着の取り換えと冷蔵庫に入っている大きなボトルの水を1本持っていけ」と教えられた。動き出してすぐに理解できた。汗びっしょりだった。下着を替え、教えられたとおりに自転車に括りつけた。気温と風のおかげで乾きが速かった。「よし、仕切り直しだ」。

最初にカメラに収めた景色は、子供達の托鉢の姿であった。数台の高級カメラを持った数人の大人と3人の子供の托鉢僧であった。交換レンズも数本持っている。アジアのあちこちで見る“某国”の撮影ツァーの一行である
子供達に小遣いをあげ、もっともらしい托鉢のジェシチャーとポーズを撮らせて撮影をするわけである
なにかちょっと、可愛そうな気がする
これとは別にミャンマーでは国民皆僧制度。7歳から11歳、20歳を過ぎてからの2回。4日から7日間。得度式と呼ばれ、日本の成人式みたいなもの
自転車を飛ばしていると遠くの景色も近く見える
軽油?ガソリン?をプラスチックボトルに入れて道路脇で売っている

ティーローミィンロー寺院
 次に目に入ったのが、「ティーローミィンロー寺院」であった。バガン王ナラパティスィードゥーが5人の王子の中から後継者を選ぶ時に、傘が倒れた方向に座っていた王子を選んだという。選ばれたのはパガン王朝第8代国王「ナンダウンミャー王」であった。ナンダウンミャー王は傘によって選ばれたので、王が建造した寺院は、「ティーローミィンローHtilominlo Temple(傘の寺)」と呼ばれているそうだ。1215年の建造物で、高さ46メートルの3層のうち2層の各層にはそれぞれ4体の仏像が収められている。
 注)2016年の地震で建物中央の塔が崩れたそうだが、その後の修復工事の様子は確認していない。

パガン王朝後期の大寺院のひとつ「ティーローミンロー寺院Htilominlo Temple」。1218年、パガン王朝第8代国王ナンダウンミャーNadaungmyarによって建立された
ティーローミィンロー寺院
以下、表情の異なる4体の仏像を御紹介する
ここまでティーローミィンロー寺院

タラバー門
 自転車なのでフットワークはいつもより軽い。いつもは、目に入った場所へ「なんだろう?」と好奇心を持って行くのだが、今度は門のある場所を探してそこから入ることになった。「タラバー門」である。この門は9世紀にピンビャー王がバガンの防御を固めるために構築した城壁の東の城門である。ニャウンウー方面からオールド・バガン方面に向かう時に通る門である。門の両側にはバガンの守護神である兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られている。

中国雲南の南詔国(ビルマ人)に滅ぼされた先住民族のビュー族によって9世紀に作られた(町の東側の)タラバー門。門の東側にニャゥン・ウー村がある
両方の門の窪みの中にバガンの守護人である兄妹の精霊マハーギリ・ナッが祀られている

アーナンダ寺院
 アーナンダ寺院Ananda Templeは、バガン朝三代目の国王チャンスィッターKyanzitthaによって1090年に建てられた寺院である。アーナンダの名は、釈迦の一番弟子の名前から取ったと言われている。本堂は一辺63メートルの正方形で、4つの入口、中央にそびえる高さ50メートルの塔のバランスは、見事なバランスを保っている。
 私が最も美しさを感じるのは、本堂の中央に高さ9.5メートルの4体の仏像がそれぞれ四方を向いて収められている姿である。書籍によると、南と北の二体が創建当時のままで、残りの二体が火事で焼けてしまい、造りなおされたものだそうだ。

タラバー門の南側にあるバガンで最も美しいとされるアーナンダ寺院
角度を変えて撮ったアーナンダ寺院
寺院の本堂の中央に収められている高さ約9.5メートルの4体の仏像のうち東側を向いている拘那含牟尼 Konagamana
西側を向いている釈迦牟尼 Gotama
南側を向いている迦葉仏Kassapa
北川を向いている拘楼孫仏Kakusandha_thumb
釈迦牟尼の拡大写真
西側の入口にある仏足石(ぶっそくせき。釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの)

タビィニュ寺院
 ティーローミィンロー寺院からタビィニュ寺院Thatbyinnyu Templeへ移動する。パガン王朝のアラウンシードゥー王(1113~1163年)の統治下で建立された。高さ約61メートルの荘厳な姿は、オールド・バガンの城壁内に位置する寺院の中でも圧倒的な存在感を見せる。建物内には大きな黄金の仏様があるが、こちらの寺院を見学する際には、裸足になることが求められるので注意してください。タビィニュ寺院のタビィニュとは、全知者、すなわち仏陀を意味するそうだ。
 なお、タビィニュ寺院の隣にあるタビィニュ僧院には、日本人戦没者の慰霊碑が建てられていることを付記したい。

四角い形をしたタビィニュ寺院
12世紀に建てられたオールド・バガンで 1番高い(高さ61メートル)
黄金の仏像

ミャンマー・ヤンゴン

クアラルンプールからヤンゴンへ
 現在、2021年7月である。9年前(2012年2月)に訪ねたミャンマーについて、記憶を掘り起こし、メモを開きながら記録する作業をしている。現実の社会、政治状況は、「コロナ下で東京オリンピックを開催する是非」、「クーデター後のミャンマーの社会情勢」等々の情報が入り乱れ、社会そのものが複雑な状況にある。記憶が定かでない部分も多いが、その辺りはお許しください。
 9年前の旅(本ブログ)のスタート位置は、マレーシアのクアラルンプールから飛び立ち、ミャンマーのヤンゴン国際空港へ着いたところである。空港からバスでヤンゴン鉄道駅に向かい、近くにあるホテルにチェックインを済ませた。次は、明日夜に発つバガンへの寝台列車のチケットを求めるだけである。私にしては、不思議なくらいスムーズにことが運び、ステップを踏みながら街に出かけられた。

ヤンゴン国際空港の上空から地上を撮る
ヤンゴン国際空港に到着
ヤンゴン鉄道駅の切符売場
ヤンゴンからバガンへの寝台列車の切符。これで全て準備ができた。あとは、ヤンゴンの街歩きだ

ヤンゴンのブラブラ
 いつも通り足の向くまま、気の向くまま、街歩きの開始だ。ブラブラしながら“ヤンゴン”に慣れることだ。探求心ではなく、好奇心、“何かを見る”のではなく、“見えるものを受け入れる”のである。街を歩いて美女を捜し歩くのではなく、目に入る美女を…、どうしよう、うまくいかない、まだまだ、未熟な私です。

少女が顔に塗っているのはタナカ(ビルマ語)で、化粧としてだけでなく日焼け止めとして使用している。タナカの木はタイやミャンマーの国境近くで採れる
サイカー。自転車の横に二人分の座席を背中合わせに取り付けた三輪車。英語のサイドカーの略語のようだ。路地などにあるサイカースタンドで客待ちをしている。私が行きたい目的地は特になく、興味津々で写真を撮るために乗せてもらったので正規の料金は分からなかったが、小銭を見せると、適当に取ったみたいだ。通常は500K~のようだ
陸橋から鉄道を写す
サクラ・タワー。ヤンゴンのビジネス地区のど真ん中に建つ総貸室面積12,425平方メートル、地上高さ約100メートルの20階建てのオフィスビルである。名前からして日本をイメージさせるが、N設計、K組等が頑張って1999年に完成した
アジアの人々が大好きな食べ物と言うよりも、飲み物って何ですか?サトウキビです
皮をむいたサトウキビ(チャンイェ)
サトウキビ絞り器(ジューサー)。最初は、衛生面から敬遠して飲まなかったが、今や熱狂的ファン。本当に美味い
こっちも美味しそうだが、一人じゃ食べきれない
公衆電話
路線バス。日本で使用された中古車が多い
日本の中古バス

スーレー・パヤー
 高さ46メートルの黄金の仏塔(パヤー)「スーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)」は、ヤンゴンのダウンタウンの中心にある、まさにヤンゴンのランドマークである。整然と区画整理されていて、仏塔の周りはラウンド・アバウトになっている。ここを中心に東西にマハバンドゥーラ通りMahabandoola Rd.、南北にスーレーパゴダ通りSule Pagoda Rd.が延びている。仏塔の南東には広い敷地を持つマハバンドゥーラ公園があり、この周辺には英国のビクトリア様式の古めかしい建物が配置されている。
 なお、スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が収められていると言われている。

ダウンタウンの中心に位置するスーレー・パヤーSule Paya(Sule Pagoda)
ぐっと引いて写したスーレー・パヤー(パゴダ)
スーレー・パヤーで出会ったアベック。寺でアベックとは羨ましいと思っていたが、結構難しい数学を勉強していた。聞いた年齢は控えるが、微分方程式の勉強の真っ最中であった。ちょっと手助けしたところ、何という薬か分からないが鼻先に塗る軟膏をお礼にくれた。鼻の通りが良くなった。頑張れ。若者達
移動式祈願船。ロープに取り付けられた船に供物を乗せて吊り上げて神様に捧げ、願い事をする。「不謹慎だ」と叱られるかもしれないが、帰国後に作ってみたくなった。“お祈り”とか“占い”とかは大好きなんです
そう思ったせいか、スーレー・パヤーから数分の所でこの写真を撮っていた。何かわかりますね。手相見です
もっと驚いた。この辺りには沢山の手相見屋さんが店を並べていた
そしてオーセンティックなスタイルのヤンゴン市庁舎が見える
さらに南へ向かうとマハバンドゥーラ公園が広大な面積を誇っている
マハバンドゥーラ公園の周辺にある露店 
マハバンドゥーラ公園にある高さ46メートルの独立記念碑

ヤンゴン川沿岸
 間違ってヤンゴン市庁舎に入ったところ、案内所みたい所にいた担当者が非常に親日的で、彼から簡単な市内地図を貰ってしまった。それによると、ヤンゴン川(エーヤワディー川の支流)沿いの通りは「ストランド通り」と名づけられていた。英国ロンドンの「ストランド」界隈はロンドンっ子に負けないほど詳しい私である(言い過ぎである)。能書きを垂れたところ、すっかり尊敬されてしまって、英国植民地時代に建てられた税関、港湾事務所、ストランド・ホテルなどに連れて行ってくれました。ロンドンのストランドは、昔、住んでいた頃に家内や子供達とオペラだ、バレエだ、近年では孫とミュージカルだと通っただけなのに、随分と役に立った。ありがとう、皆さん。

税 関
ミャンマー港湾事務所
対岸行きフェリー乗場 Pansadon Jetty

ボータタウン・パヤー
 ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤーはお勧めです。解説書から役立つ情報をピックアップさせて下さい。2500年以上前に8人の僧がインドから釈迦の遺品を運ぶ時に、1000人の兵士が護衛にあたった。この寺院の名前は、この1000人の護衛兵に由来する。「ボー」は「1000」、「タタウン」は「兵士」という意味から、ボータタウン・パヤーと呼ばれる。
 第二次世界大戦中に爆撃を受けたが、パゴダの改修の最中に瓦礫の中から数多くの遺品が出てきて、その中から釈迦の遺髪や聖歯と思われるものが発見されたという。

ヤンゴン川沿いに建つボータタウン・パヤー(1000人の兵士の塔)
何と表現したら良いのだろう?
この回廊はやりすぎかなぁ?
仏歯を祀る仏塔(Buddha’s Tooth Relic Pagoda)

シュエダゴォン・パヤー
 ヤンゴンのボータタウン・パヤーを巡った後は、ヤンゴンの華「シュエダゴォン・パヤー」をブラブラする。シュエダゴォン・パヤーは2600年以上の歴史を持つと言われる。タポゥタとパッリカという兄弟の商人がインドで仏陀と出会い、8本の聖髪をもらい受けた。紀元前585年にここに奉納したのがシュエダゴォン・パヤーの起源だと言われている。その後、拡張工事を重ね、また度重なる地震などの災害とその修復を経て、15世紀にパゴーの女王シンソープによって現在の仏塔の原型が完成されたと言われる。東西通商の町として栄えたが、1755年にアラウンパヤー王によって破壊された。後にヤンゴンとして復活した。
 東西南北4つの参道が上に向かってあり、エレベーターあるいは104段の階段を使って上れるようになっている。

1841年に鋳造され、ターヤーワディー王が奉納した鐘。別名「3つの音を持つ偉大な鐘」。重さは42トン
マハ・ガンタの釣り鐘
シュエダゴォン・パヤー。尖塔の傘の部分に付いているティ(鈴)がチリーン

ラオス・ルアンパバーン(2)

ルアンパバーンの街を歩いて見よう
 前回登場させたタイトル:ラオス・ルアンパバーン(1)では、ルアンパバーンの市内や托鉢、郊外のバーン・サーンハイ(酒造りの村)やパークウー洞窟などを見学した。このエキサイティングな街は、まだまだ多くの魅力に溢れた文化、民族、人等々に溢れている。訪ねてみるのが一番です、ご一緒しませんか?お寺から行きましょうか。

この本堂のワット・ビスンナラートとそれと正対する仏塔、タート・パトウム(下の写真)を一つにまとめて(ワット・ビスン)と呼ぶ。形状から、すいか寺とも呼ばれる
本堂と正対している塔はタートパトゥム
ワット・ビスンナラートの境内。ルアンパバーンで最も仏像が多いお寺である
ワット・ビスンナラートから撮った高さ150メートルの小さい山にあるプーシーPhousi
二人の仙人が神に導かれてこの山に辿り着き、ルアンパバーンを作ったと言う伝説から「仙人(ルーシー)の山(プー)」と名づけられたそうである
プーシーの近くで商売をしているこの豆乳屋さん。偶然ですが、顔を隠していますが、味もいけますよ
托鉢の帰りだろうか。お坊さんの集団と出会いました
プーシーホテル
ワット・ホシアンWat Hosian。階段に引き付けられて皆さん写真を撮っている

ルアンパバーン国立博物館
 フランス統治時代の1909年、当時のシーサワンウォン王とその一族のために建造された宮殿である。1975年にパテート・ラーオの政権掌握後(王制崩壊後)、博物館として利用されるようになった。館内には、かつて王室で使用されていた調度品や家具、日用品などが展示されている。

王宮博物館のエントランス
ルアンパバーン国立博物館の正面
ルアンパバーン国立博物館に隣接するワット・マイWat Maiは、1788年に建設着手、完成までに70年間を要した。五重に重なる屋根は典型的なルアンパバーン様式である
角度を変えて写したワット・マイ

タート・クアンシーの滝
 ルアンパバーン市内から約32キロメートル離れた所に美しい水しぶきや涼を求めて多くの市民が訪れる「クアンシーの滝」と呼ばれる滝つぼがある。入場券売場のあるゲートまで車で行くことができ、そこから約15分で滝に到着できるため、多くの人々が訪れる。ルアンパバーン市内からトゥクトゥクで約20分、1台80,00~100,000 kip(往復)である。
 地元の人々は水を口に含み、家族で泳ぎを楽しんでいる。私はスィミングパンツを持っていなかったが、それなりに見せて?仲間に入れてもらった。

タート・クアンシーの滝の入り口。上にいる動物は何だろう
クアンシーの滝
クアンシーの滝
流れ落ちる水が非常に美しい

モン族の村
 ラオス北部の古都ルアンパバーンやその周辺を楽しみ、皆様にも下手なご案内で申し訳ありませんが、「アジア最後の桃源郷」と呼ばれる世界遺産の町のほんの一部をご案内してきました。ルアンパバーンの最後は、のんびりと散策が楽しい山岳民族である「モン族の村」を訪れ、自給自足の暮らしを続けているモン族の生活や文化に触れてみたいと思います。

早速ですが、モン族の村の皆さん、サトウキビの皮むき中、ごめんなさい
女性達は、衣類の刺繍などを行っている
売り物はお人形かな?いかにも特徴のある衣装ですね、素敵ですよ
私は北国に棲んでおりまして、冬期間、一部ですが木の香りを楽しんでおります
小さなお店
この子も売り子さんです?
ゴム靴は履いておりましたが、私の子供の頃もこんな感じでした
果実の薄切りを干したドラィフルーツだろうか?
民 家
染め物の乾燥
私も買い求めました。何かはヒミツ
やっと男性が出てきました。この村では、働いているのは圧倒的に女性でした
モン族の村のお母さん達、子供さん達、そしてニワトリさん、ありがとう

ビエンチャン付録
ラオスのルアンパバーン→バンビエン→ビエンチャンへと移動してきた。明日はビエンチャンからマレーシアのクアラルンプールへ移動する旅程で、エァチケットもとってある。今日はビエンチャンの最終日なので、いつも通りの目的なしのブラブラである。
 ビエンチャンには、先に紹介した「タラート・サオ」と呼ばれるラオス随一のマーケットがあるが、今日のブラブラは、このマーケットを御紹介することではない。このタラート・サオの近くに路上マーケットを開く、“精力剤売りのばあちゃん”の店を覗くのである。もっと正確に言うと、“怪しげな精力剤売りのばあちゃん”をご紹介したい。体をくねくねさせ、怪しげな手つきで数々の精力剤の効能らしきことを私には理解できない言葉で説明する。数人の客が話を聞いていたが、どうもばあちゃんは私をターゲットにして仕掛けているようだ。と言うことは、私が最も怪しげに見えたのだろうか?本人は枯れたつもりだったが、ばあちゃん、なかなかの目利きじゃのう。

ビエンチャンのタラート・サオ近くの路上で売られていた精力剤?の数々
怪しげな精力剤売りのばあちゃん
大先輩、なかなかの目利きじゃのう。ピンクのシャツが可愛い

ラオス・ルアンパバーン(1)

ビエンチャンからルアンパバーンへ移動
 ビエンチャンの北方面バスターミナルから約10時間、150,000kip(10,000kp=約130円)でルアンパバーンの南バスターミナルに到着する。ルアンパバーンには、二つのバスターミナルがあって、北部へ向かう時はもう一つの北バスターミナルから出発する。10時間はさすがに長い。未舗装の道路も多く、振動で本を読むには無理な所も多い。居眠りか、外の景色を楽しむと決め込んで、アルコールに助けてもらう。

ビエンチャンからルアンパバーンへの移動途中に見た工事現場
移動で乗ったバス
休憩所ではトイレに殺到し、次に食べ物屋の店に群がる
バスの休憩タイムで食した名物の焼き鳥。確かに美味い。このままルアンパバーンに着く頃まで記憶が無く。疲れ切って寝ていたらしい
休憩所には食べ物を中心に店が出ている
移動で乗ったバス

ルアンパバーンの托鉢
 昨日は、ビエンチャンからルアンパバーンへの長時間の移動で疲れてしまい、早めに寝たせいか、今日は早くに目が覚めてしまった。ルアンパバーンの名物、早朝の托鉢を見学に行く日だった。天気の具合を見ようと暗い中、外に出たところ、隣りのゲストハウスから人の話し声が聞こえる。そのうちの一人が目ざとく私を見つけて、「together」と聞こえる発音で話しかけてくる。寝ぼけ眼で、一瞬何のことかわからなかったが、「一緒に行こう」と言われている気がして、「with me?」で決着。「彼らがチャーターしてあるトラックで一緒に托鉢(の見学)に行こう」と言うことだった。私が日本人だと分かったのか、リーダー格の男に「百円」とジョークを言われたので、本当に持っていた百円を手渡したところ、大喜びで仲間に見せて自慢していた。私は、「托鉢」の英語を知らないし、サンスクリット語でpindapataと言うこともこの時は知らなかったので、「百円」を繰り返していたところ、皆さんに伝搬して、しばらくの間、皆さん、托鉢のことを「Hyakuen」を言っていたようだ。フランス人が発音すると、「akuen」と聞こえ、「托鉢」が「悪縁」とは妙な感じがした。

6時30分頃、太鼓の音が聞こえ、托鉢が始まっている

 

托 鉢
長い行列が続く托鉢
托鉢は終わったのだろうか。6時半頃に地元民が後片づけをしている。この可愛いお嬢さんは、托鉢物回収係?
仏 像
朝の7時半になった。美しい朝日を堪能できた

バーン・サーンハイとパークウー洞窟へ向かう
 托鉢を満喫した後は、「パークウー洞窟」へ向かうのが一般的なブラブラルートのようだ。托鉢に誘ってくれた隣のゲストハウスの連中もそうするらしい。朝食は未だだが、“百円”もこのまま船着場から船に乗ってメコン川の上流約25キロメートルにあるパークウー洞窟へ向かうことにした。船着場で飲み物を買おうとしたところ、「我慢、我慢」と待ったがかかった。パークウー洞窟行きのボートに乗って1時間半くらいの長い待ったで、「バーン・サーンハイ」という酒造りの村で途中下船した。川べりにある大きなドラム缶で有名なラオスの焼酎「ラオ・ラーオ」を蒸留している過程を見学できるのだ。すきっ腹に、効いたね、「ラオ・ハイ」、「ラオ・サート」、「ラオ・カオカム」、それぞれ特徴があって、…、能書きは言わない、一言、「美味い」。

乗船の申し込み書を提出し、料金を払う
バーン・サーンハイとパークウー洞窟へ向かうボート
バーン・サーンハイ(酒造りの村)到着
ラオ・ラーオ(ラオスの焼酎)の売店
サソリ酒
餅米を亀に入れて発酵させる
右側のゴマをふった海苔は、名物の川海苔である
あちらこちらに散在する建物
この女性は「ラーオ・ルー族」と名乗ったが、私には分かりません
子供達が遊んでいる

パークウー洞窟
 酒造りの村、バーン・サーンハイでラオスの焼酎を何種類か楽しんだが、さすがにサソリの入った焼酎は恐くて挑戦できなかった。ボートに戻るよう集合合図があって皆さん集まったが、ほとんどの方が赤い顔をしていた。寄り道から約30分で、メコン川がナムウー川と合流する地点にあるパークウー洞窟に到着する。川に面した崖にくり抜かれたタム・ティン・ルム洞窟と、そこを過ぎて坂と階段を7分ほど上った所にある横穴のタム・ティン・トゥン洞窟の2か所がある。

パークウー洞窟に到着。上りは結構な勾配である
崖に切り抜かれたタム・ティン・ルム洞窟
竹で編んだ簡易歩道橋
洞窟から対岸を見る
タム・ティン・ルム
階段を上りきった所にあるタム・ティン・トゥン洞窟
パークウー洞窟を去る
ルアンパバーンのワット・シェントーンWat Xiengthong。セーターティラート王によって1560年に建立された
古事記や日本書紀に登場する怪物、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に似た霊柩車 
末広がりの屋根が折り重なる
レッド・チャペルのモザイク画
本堂の裏に装飾されたモザイク画「マイ・トーン(黄金の木)」仏教に関する物語
ここに立っていたとされる160メートルの大樹をモチーフとしたモザイク??

ラオス・ビエンチャン

タイからラオスへ国境超え
 今回は、“沸騰するアジア”の一つ、ラオス、もっと正確に言うならば、“静かに沸騰しつつあるラオス”を訪ねた。普通の入国の仕方は面白くないので、下の娘の留学時代の友人、タイのMaiちゃんにお願いして列車のチケットを予約してもらった。タイのバンコックに数日間滞在して世間話をして、その後にバンコックから列車でラオスのビエンチャンに入る計画である。タイは何度も訪れているのでそのうちまとめることにして、今回はブログから外すことにしたい。他意はありません。
 Maiちゃんが予約してくれたバンコック発ビエンチャン行きのチケットを自分で受け取る。駅の窓口で予約票をパスポートとともに見せるだけでOK、簡単である。ホアランポーン中央駅20 :00発のNo.69 Expressの寝台である。チケットも「Class : ?、 Car :?、Seat No :?、Coach Type :?、Berth Type :?」と、インターナショナルな表記であった。翌朝、タイのノーンカーイNong Khaiに08 :25到着→友好橋(国境)タナレン駅→ラオス出入国税:9,000Kip/人。2012年当時で、100Kip(キープ)=1.03¥だったので約93円だった。 

国境の町・タイのノーンカーイ
ノーンカーイで降車
イミグレーションの手続き。公的な行政サービスだと思ったら実は私的有料サービスだった
国境越え。パスポートのチェック
タイ・ラオス友好橋(タイ-ラオス国境)。メコン川にかかる、1994年にオーストラリア政府の援助を受けて完成したタイ(ノーンカーイ)とラオス(ビエンチャン)を結ぶ長さ1,174メートルの国境の橋
ビエンチャンに入ると、おばさん達が待っている
アヌサーワリー・パトウサイAnousavary Patuxayの案内表示。
アヌサーワリー・パトウサイは、パリの凱旋門をモデルに建てられた戦没者慰霊塔。上は展望台になっている
パトゥーサイの内側の一部

タート・ルアン
 タート・ルアンThat Luangを最も有名にしているのは、仏舎利(仏陀の骨)が納められていることである。黄金に輝く高さ45メートルの塔は美しくかつ豪華な姿で人々の目をひきつける。一辺約85メートルの外壁は正方形で、その中の庭部分に一辺約60メートルの正方形の土台があり、その土台の上に塔が建っている。
 16世紀半ばに、ルアンパバーンからビエンチャンに遷都したセーターティラート王(1534年~1572年)の命によって建設が始まり、その後、幾多の破壊や修復を経ており、現在の姿になったのは、1930年代からの本格的な修復による。セーターティラート王はラオスにかつて存在したラーンサーン王国、そしてタイ北部にあったラーンナータイ王国の16代目の王である。

タート・ルアンThat Luang。黄金に輝く高さ45メートルの塔。仏舎利が納められている
セーターティラート王の像
タート・ルアン
ここまでタート・ルアン
1563年セーターティラート王によって建立されたワット・ホー・パケオ Wat Ho Phra Keo。ビエンチャンに都が移された時、エメラルド仏を安置する目的で建立された
ラーイ・ラーオと呼ばれる龍のレリーフ
ワット・シーサケートWat Sisaket。1551年にセーターティラート王の命によって建立された寺院。博物館でもある
ワット・シーサケット
7000体近くの仏像が納められている回廊
金色と緑のコントラストが美しいインペン寺院 Inpeng temple
違う角度から撮ったインペン寺院
豪華な内部
仏 像
右側にメコン川。19時10分頃
メコン川の夕焼け。19時40分頃
ラオス随一のマーケットであるタラート・サオにはバスターミナルが隣接している。これからバスでブッダ・パークへ出かける

ブッダ・パーク
 「ブッダ・パーク(正式名称はワット・シェンクワン)」と言われると、仏教に関する像が立ち並んでいるように想像してしまうが、ヒンドゥー教の神像も祀られていて、なんのことはない、宗教のテーマパークと言った感じである。これらの石像は全て一人の宗教家によって集められた寄付やお布施によって造られ、驚くことに全て手彫りだそうだ。私は、宗教色むんむんの施設だと思っていたが、最初に書いたように、どうも宗教のテーマパークだ。そう思って見ると事の良し悪しは別として、楽しくなってしまう。楽しいことは良いこと。楽しもう。

ブッダ・パーク(正式名称はワット・シェンクワン)
公園に入ってすぐ右側にある。何故か、皆さん、最初にここに入る。隠された中を覗きたい心理なんだろうね。上も歩けるようになっている
メジャーで身長を測っている人がいた
申し訳ないが、ブッダ・パークに飽きてしまった。タラート・サオ・バスターミナルに戻る
ホテルから歩いて十数分と近いせいもあるが、私はメコン河の方が好きだ。メコン河を見おろすアヌヴォン王像を忘れていたのでパチリ
メコン河

ビエンチャン3日目のブラブラ
 朝の散歩は、やはりメコン川。遅めの食事を済ませて、今日も気の向くままにビエンチャンをブラブラ。

タートダム(黒塔)。ビルマ様式の塔でラオス語でタートが塔、ダムが黒、つまり黒塔である。14世紀から16世紀頃に建てられたと言われているが、定かではない
国立競技場。入口が開いていたので、勝手に入って若者達の練習を見学させてもらった
ラオス国立博物館(外庭・正面側)。ラオスの発掘された考古学的な遺跡、フランス植民地時代から社会主義革命への歴史的変遷などを説明・展示している
入口を飾っていた
博物館の外にあった展示物
裏庭にあった日本の中古車
日本の中古車。塗装を塗り替えないでそのまま使われている。このペィンティング、楽しいですね。
農機具
農機具

唐丸籠(とうまるかご)。唐丸は、東天紅・声良とともに日本3大長鳴鶏の一つで、1939年に天然記念物に指定された。昔、近所のおばあちゃんが鶏を入れた唐丸籠を雑草のある所に次々と移動させて草刈りをさせていた。賢い
、先人の知恵だ
この美しい鶏の名前は、御免なさい、憶えていません 

スリランカ・コロンボ

キャンディからコロンボ
 キャンディからコロンボへの移動は、列車、バスともに充実しているので、旅行者の好み、スケジュール、予算等々、選択肢が広い。私は、こういう場合にはすべてに優先して、列車を選ぶ。理由は勝手に決め込んでいる“旅情”である。あの孤独感は、そして相反するが人との出会いは、私の“旅をする重大要素”なのである。でも、圧倒的にバスを利用する人が多いみたいなので、参考までにバスの運行データの一部もご紹介します。私設バスターミナルからエアコン付き特急バスで約3時間半、Rs.105です。簡単すぎると言うことは、人気があるとお考え下さい。
 さて、朝6時前なのに、キャンディ駅はコロンボ行きのチケットを求める旅行客で賑やかである。未だうす暗いせいか、列車に乗り始めるとすぐに居眠りを始めるお客さんが多い。3時間弱の睡眠時間は、その後のコロンボのブラブラには貴重な時間なのかもしれない。

構内に掲示されている列車時刻表
これから出発するキャンディ駅ホーム。未だうす暗い 
文章だと、あっという間にコロンボ駅に到着。白い駅舎が美しい
ホテルにチェックインした後、コロンボ駅付近からブラブラを始める

何事か?
 突然、何かが爆発したような炸裂音が聞こえた。雷の音どころではない大音響である。一瞬、TV等の画像で見るテロか何かかと思った。でも、武装した軍や火器を持った人達がいなかったので、そうではないらしい。歩道橋の上でしゃがみこんでいた青年が、英語で「エレクション」と教えてくれた。「エルとアール」の発音は難しいが、この状況で卑猥なジョークを言う青年には見えない。一瞬、ピンとこなかったが、「選挙?」と返したところ、青年が頷きながら再度「エリクション(election)」と言ったので、やっと理解できた。それにしても経験したことのない爆音だ。時間の経過でやっと様子が分かってきた。選挙の応援に支援者が爆竹を鳴らしたのだ。私は、駅近くの歩道橋の上にいたのだが、爆竹の音と共に地面を伝わる振動が橋を揺るがしていたのである。私もその一人であるが、驚いた歩行者が橋の欄干にしがみついていたわけだ。朝一番に気合を入れられた。

歩道橋の上にいたので、支援者達が爆竹を鳴らす様子がリアルに見えた。道路に散乱する紙屑でやっと事情が呑み込めた
爆竹によって地面が揺れ、その振動で歩道橋が揺れた。このような大きな揺れと音は聞いたことがない
候補者と支援者たち
盛り上がっている

フォートとペター
 コロンボは、街の特徴を大まかにザクッと言うと「フォートFort」と「ペターPettah」に分けられる。前者は、先程着いたばかりであるが、コロンボ・フォート駅、つまりコロンボの玄関口であり、また、コロニアルな雰囲気が最も強く残る官庁街でもある。後者は、先程歩いてきた歩道橋を渡った辺りで、「HOTEL」があり、セントラル・バスターミナルや民営バスターミナルがあるエリアである。ここで、「HOTEL」とは、この国の呼び名で、「大衆食堂」を指すことが多いので、要注意。そして、ペターで忘れてはならないのが、“雑踏”、そう「The Shitamachi」である。市場巡りに取りつかれている方には嬉しい、スリランカ随一のバザールがある庶民の町である。但し、食べ過ぎないように。

オランダ時代博物館
 オランダ時代博物館Dutch period museumは当時の植民地政府の建物を博物館にしたもの。当時のこのペター地区は白人とスリランカ人の混血児である「バーガー」とイスラム商人の豪華な邸宅が並ぶ高級住宅地であった。ヨーロッパ風の建物らしく、手入れの行き届いた芝生の中庭がある2階建ての建物で、1階にはヨーロッパ人が訪れて香辛料貿易を始めた経緯についての資料を展示し、2階には使用されていた家具や古地図などが展示されている。

オランダ時代博物館 Dutch period museumは当時の植民地政府の建物を博物館にしたもの。当時のこのペター地区は高級住宅地であった
オランダ博物館のかわいらしい展示物
ジャミ・ウル・アルファー・モスク
1909年に建造されたジャミ・ウル・アルファー・モスク。コロンボで最も古いモスクである
ペター地区の中心にあって、赤と白の縞模様が際立つ
その名のようにフォートFort(要塞)だったフォート地区に建っている高さ29メートルの時計塔。建設された当初は灯台だったが、1952年に廃止された
税 関
仏教寺院
ワールド・トレード・センター
スリランカ最大手スーパーマーケット「カーギルスCargills」の本店。1階にはスーパーとケンタッキーがあった
コロンボ国立博物館。1877年、英国のセイロン総督ウィリアム・グレゴリー SirWilliam Gregoryによって造られたスリランカ最初の博物館
悪魔払いの仮面コレクション
青クジラの剥製
ここまでコロンボ国立博物館

朝は市場から
 今日はコロンボの一番人気とでも言おうか、多くの旅行者が訪ねる「キャラニア寺院」に出かける予定である。未だ朝早いし、時間があるので近くで声が飛び交う市場を覗くことにした。大きな入口に、「Fose Marketフォース市場」と書かれ、その下に「Federation of self-employees」とあった。正しい英語かどうかは横に置いといて、「自営業者連盟」とでも言うのであろうか、広い場所に個々人が店を出すやり方らしい。
 おもちゃ、宝飾品、衣類、果物、野菜等々、大繁盛の市場である。私は朝の果物を買ったが、随分とおまけしてくれた。

フォース市場 Fose Market
大繁盛の市場
果物屋さん

キャラニアの仏教寺院
 『キャラニア』と聞いても、仏教に興味のない方々にはピンと来ないかも知れない。しかし、仏教に関心のある方、歴史に興味を持つ方々に、ここにある『ラジャ・マハー・ヴィハーラRajamaha Viharayaとは』と聞けば、…。釈迦がこの地を訪れ、沐浴と説教を行ったとされるスリランカの3つの聖地のひとつなのである。紀元前3世紀頃には現在の白いダーガバ(仏塔)の原型となるものが建てられたと言われている。その後、幾多の度重なる争いの歴史の中で破壊と修復が繰り返され、何度か再建されてきた。
 コロンボのペター地区にある中央バスターミナルから224番、228番、235番のバスで約50分、Rs20で、コロンボの北東11キロメートルにあるキャラニアに着く。バスの運転手は気の良い奴で、バスターミナルのすぐ側にある仏教寺院『ラジャ・マハー・ヴィハーラ』(あるいは『キャラニア寺院』)に向かう門を教えてくれる。礼を言って、参拝者の流れについて行くと、キャラニ河に突き当たり、沐浴場が目の前にある。境内に入るのに沐浴は求められないが、遊歩道を通って階段を上がり門まで来たら裸足になる。偉そうに見えた人に「ルールか?」と尋ねたところ、「マナーです」と答えがあった。「ルール」と「マナー」を峻別し、それも上品な英語で話されては、…。久々に聞く「マナー」に深々と頭を下げた。

気の良いバスの運転手。キャラニア寺院 Kelaniya Templeへ出発
教えられたラジャ・マハー・ヴィハーラへの門。バスターミナルのそばであった
寺院が近くなると、供花やおもちゃなどの店が増え始める
キャラニ河のほとりにあるラジャ・マハー・ヴィハーラは、釈迦が説教したといわれる聖地である
ラジャ・マハー・ヴィハーラへ向かう参道
ラジャ・マハー・ヴィハーラへお詣りの節は裸足厳守で。習慣のない日本人には相当にきつい
ラジャ・マハー・ヴィハーラでは線香の煙が絶えない
参 拝
参 拝
寺には青空学級があって、子供達がお行儀よく勉強している
三色ボールペンが珍しいのか、子供達がねだってくるので、トラブルを避けるため先生にさしあげた
ラジャ・マハー・ヴィハーラ
白いダーカバ
ラジャ・マハー・ヴィハーラ内
赤ちゃんの健康を祈っているのだろうか
皆さん、素晴らしい笑顔でした
スリランカ美女4人。なんと美しい笑顔でしょう。時間よ、止まれ

ガンガーラーマ寺院
 ベイラ湖近くに建つガンガーラーマ寺院 Gangaramaya Templeは、18世紀に建てられたもので、コロンボで最大級の寺院のひとつである。スリランカをはじめ中国、タイ、ビルマなど各国、各地域の多数の仏像が祀られている。ある意味で、一種の仏像博物館といった感じであった。

ガンガーラーマ寺院
コロンボ市内で最大の寺院。2月のポヤ・デーには盛大なペラヘラ祭りが開催される
ガンガーラーマ寺院内部

ジェフリー・バワ
 スリランカ・コロンボ出身の建築家で、スリランカを代表する建築家。外と内の障壁を取り除き、光と影を上手くグラデーションさせたデザインに特徴がある。

シーマ・マラカヤ寺院 Seema Malakaya Templeは、ベイラ湖湖上に建っており、建物はスリランカを代表する建築家、ジェフリー・バワによって設計された。管理運営は先にお見せしたガンガーラーマ寺院が行っている
ベイラ湖に浮かぶシーマ・マラカヤ寺院
このようなものも
異なる角度から撮ったシーマ・マラカヤ寺院。どこへ行っても掃除をしている方々の姿が絶えない
ここまでシーマ・マラカヤ寺院
いきなり景色が変わります。寺院から海へ向かうと、遂にインド洋が目前にひらけた 
結構海水浴客が来るのだろう。子供向けの玩具が売られている
インド洋。思えば遠くへ来たもんだ

明日はスリランカの実質最終日
 明日はコロンボからインドのマドゥライへ飛ぶ予定なので、今日は、スリランカの実質最終日だ。こちらでしか手に入らない紅茶などを日本に送ったり、ブラブラする貴重な日だ。
 いきなり、赤色の建物である。赤い色と言えば郵便ポストであるが、ここでは赤い建物が郵便局であった。ここに来た理由は、買い込んだスリランカ紅茶を船便で日本に送ることである。船便(Surface mail)の送りは、通常、郵便局などで行うため、梱包から最後の切手まで、厄介なことが起きることがある。失礼ながら、国民性とか、民度を測る尺度にもなる。最近は航空便類が安くなったので、トラブルが少なくなったのですが。今回は、美男好きの美人スタッフが助けてくれてスムーズにいきました。

郵便局
郵便局の美人スタッフ。日本へ紅茶などを船便で送る時にとても助けてもらった
Siri Vajiraramaya
イシパタナラーマヤ寺院 Isipathanaramaya Maha Viharaya。1915年に人種暴動の扇動容疑で英国当局によって処刑された一人息子ヘンリー・ペディスを記念して、父親のデュエニュゲ・ディサン・ペディスが建てた。コロンボで最も古い仏教寺院の一つである

 

スリランカ・キャンディ

キャンデイ
 大まかに言って、スリランカの歴史はこの国へのインドの侵攻に影響を受ける。つまり、スリランカは北側から反映し、その文化の中心が次第に南側へと移動していく。したがって、私のブログの(文化の)主役も北から南へと移動してきた。それで、南側に位置するキャンディKandyは比較的遅い時期に歴史に登場することになる。15世紀に盆地の地の利を得て、国家防御に落ち着きを見せたが、16世紀初頭に始まるヨーロッパ列強の侵攻が始まる。1505年にポルトガルの植民地支配、そしてオランダ、イギリスへと覇権争いを重ねてた結果、ここキャンディも内紛を重ね、ついには1815年に300年以上続いて滅亡した。シンハラ王朝2000年の歴史の終焉である。一国の歴史である。細かい間違いはお目こぼし下さい。

ダンブッラからのインターシティ・バスで約2時間、キャンディのメィン・バスターミナルに着いた。早速、お助けマンに助けられて、近道の急な階段を上ると(この写真は上った地点)、ホテルは50メートル先にあった。「…歩き方」に載っていたこのホテルは便利すぎる
警察署にも歩いて数分
鉄道駅(右側)もすぐそば。写真が見えなかったので、「おっ、線路を歩いている」
時計塔まで見えるので時間を確認し
列車が無い場合は歩いて5分くらいでバスセンター
急ぐ時は交差点の地下道を通って近道できる
携帯を持っていないので目の前の地下道入口にあった公衆電話を使う。これでは迷いようがないはずなのだが
それでも迷う時は近くにあるモスクのミナレットを目当てに歩く
それでもわからなくなったらホワイトブッダに祈る。あーあ

 以上、ドキュメンタリー風に述べたが、まさにドキュメンタリー。すべて本当の話。追伸;実は書いていないことが一つだけあります。守衛に注意されて写真を撮ることができなかったのですが、すぐ近くに刑務所もあったのです。私には、そして当然皆様にも関係が無いと思い、書きませんでした。悪しからず?
 話を戻します。いつもはどなたかに道を聞くなどお話することが必ずあるのだが、今回は全ての施設などが狭いエリアに集約されているので一言も話さないで、移動できる。そのせいで目的のキャンディ湖に早く着くことができたが、逆に何か損をしている感じである。ケースバィケースであるが、私の旅のスタイルは、どうも見知らぬ人々との交流が無いと面白くないようだ。

キャンディ湖から寺院へ
 キャンディ湖は19世紀初めにキャンディ王朝の最後の王であったスリー・ウィクラマ・ラジャシンハが12年をかけて造った湖である。ガイドブックによると、湖に浮かぶ島は王室とトンネルでつながる王のハーレムであったという。着飾った愛妾を従えて、…、(それに対して)現代の我々はセーラー服とディパックとスニーカーで、モーターボートに乗って、…、あなたの好みはどちらですか?私の好みは、恥ずかしいのでヒミツ

キャンディ湖
森自体を剪定したように見える
部屋の窓から湖が眺められるクィーンズ・ホテル
モーターボート乗船場
マルワトウ・ヴィハーラ。ここから坂を上って行く
お坊さん達が談笑している
ここまでマルワトウ・ヴィハーラ
セントポール教会。意外に、この街には教会があったりする

キャンディアン・ダンス
 キャンディアン・ダンス(Kandyan dance)は、キャンディを中心に行われている踊り。 キャンディ王朝の頃に宮廷内で踊られていたものに、18世紀初頭に各地の舞踊が組み込まれたものである。牧歌的で非常に分かりやすく、悪魔払いやファイヤーダンスが組み込まれている。キャンディ芸術協会Kandyan Art Association(文化ホール)で催されるキャンディアン・ダンスショーの入場は、Rs.300と安く人気がある。

キャンディアン・ダンス
ファニーと言っていいのか、怖いのか
キャンディアン・ダンス
ここまでキャンディアン・ダンス

仏歯寺
 現在の仏歯寺を囲む堀と八画形の堂は、最後のキャンディ王スリー・ウィクラマ・ラジャシンハによって建てられた。寺院内に奉納されている仏歯は、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際に手に入れたものとされている。その後、4世紀にインドのオリッサ州カリンガの王子が頭髪に隠して、(セイロン=現スリランカ)のアヌラーダプラに奉納した。先に述べたように、この国は、北からの侵攻によって都が南下する運命をたどってきた歴史を持つ。そして、1590年を最後にキャンディで終止符を打った。キャンディ王ウィマラ・ダルマ・スリヤ1世の時代で、王は仏歯を祀る寺として2階建ての寺院を建てた。三世代後のナーランドラ・シンハ王が寺院を新築、これが現在、寺院内部に残っているものである。
 入場料Rs.500、カメラ持ち込み料Rs.150。仏歯寺の部屋が開かれる「プージャ」は、5時半、9時半、18時半。入場券売場の隣に無料のガイドツアー(MP3を利用)の受付がある。人気のお寺だけに、上記の時間ごとに30分前には入場して列に並ぶことが要求されるので要注意です。

仏歯寺
仏歯寺

ペーラーデニヤ植物園
 翌朝、キャンディー近郊の総面積5.6平方キロメートルのペーラーデニヤ植物園へ向かう。市内バスターミナルから、ペーラーデニヤ行きのバス(No.652、No.724)で所要10分、Rs.20でペーラーデニヤ植物園に着く。14世紀の王パラークラマバーフ3世が王妃のために造園し、1821年に植物園として開園されたものであることから「王立植物園Royal Botanic Garden」の名が付けられた。植物の種類は、4000種以上と言われている。

ペーラーデニヤ植物園(王立植物園)Royal Botanic Garden、Rs.1100
ポリエチレン包装袋の持込み禁止
映画の撮影ではありません。王立植物園で結婚記念撮影を行うのは若者の憧れだそうだ
お幸せに
最も大きい竹として知られるビルマのジャイアント・バンブー
人数制限のあった橋
橋梁の人数制限の看板(荷重制限)
違う角度から撮った橋
植物園内の案内図
植物園出入口

ピンナワラの象の孤児院
 キャンディ近郊に、親を無くしたり、はぐれた子象、あるいは失明したりした象を100頭余り保護している「像の孤児園Elephant’s orphanage」と呼ばれる施設がある。回復した像達は、寺院や象使いに引き取られるそうである。
 バスで行くのが安くて簡単である。キャンディのメイン・バスセンターからキャーガッラKegalle方面行きのバス(No.1、No.2、No.662)で約1時間、Rs.59→カランドゥパナ・ジャンクションKarandupana junction下車→ランブッカナRambukkana行き(No.681)バスに乗り換えで約15分、Rs.20→ピンナワラPinnawala の像の孤児園Elephant’ Orphanage下車。見学料金はRs.1000。

「象の孤児院」の入場券。入場する際に入場券の左側にマジックインクで自分でサインをする(この写真では記名部分をトリミングしてある)
ピンナワラ(Pinnawara)の象の孤児院
象のエサ
小象の水浴び。ポヤポヤの毛が可愛くて、大人気である
のどかな風景
こんなに近くで像の親子を見たことはありませんでした
これは観光客が象にあげるための観光客用の売り物です。人間が食べると鼻を巻き付けてきます

 ピナワラの象の孤児院からキャンディ市内のホテルに戻ってきました。あの超便利ホテルです。近くに市場もあるのです。

ホテル近くにこのような美しいインド寺院がありました
美味しい果物
これは旅行者には使えない
食べる前から興奮します
ここに並んでいる店は、買い物をするとクジをくれる。こういうのって大好き
当選番号の発表
マヨネーズなどが当たる。私はハズレだった。二つ当たった地元の人から名前の知らないフルーツを貰った。ありがとう

スリランカ・ダンブッラ

ダンブッラ石窟寺院
 スリランカを代表する石窟寺院、1991年にユネスコの文化世界遺産に登録された『ダンブッラ石窟寺院』を訪ねる。岩山の頂に5つの石窟が並んで建てられており、第1窟から第5窟までに古い順番に並べられている。入場する前に、「金色の大仏Golden Buddha」の位置に注目しよう。最初はチケットである。金色の大仏の右側にチケットオフィスがあるので、料金を支払ってレシートを持っていないと入場禁止になるので、厳重注意である。石窟寺院への入場も金色の大仏の左脇から続く階段を上ることになる。20分ほど上れば、いよいよ入り口である。高さは約180メートルである。

金色の大仏 Golden templeの入口
巨大な金色の大仏
1991年にユネスコの文化世界遺産に登録された
第1窟 デーワ・ラージャ・ヴィハーラDava Raja Vihara。「神々の王の寺」の意味。壁と同じ自然石に約 14メートルのこの寺院最大の涅槃像が彫られている
スリランカでは足の裏を赤く染めるのが特徴。紀元前 5世紀にウィジャヤ王がインドから到着した時に手のひらが真っ赤であったことに由来する
第 1窟を出て振り返って全体をパチリ
回 廊
第2窟 マハー・ラージャ・ヴィハーラMaha Raja Vihara。「偉大な王(ワッタガーミニ・アバヤ王)の寺」の意味。ダンブッラ最大の洞窟で幅 52メートル、奥行き25メートル、高さは入り口付近で 6メートル。洞内には56体の仏像が安置されているが、案内書によると第2窟の見ものは壁画だと強調されている
特徴ある枕
第3窟 マハー・アルト・ヴィハーラMaha Aluth Viharaam。「偉大な新しい寺」の意味。18世紀後半の王キルティ・スリ・ラージャーハーが建造した。写真は坐像である
先に御紹介したように、第2窟では壁画に人気があるようだ。以下に続ける
第2窟の壁画に満足して、明るい所へ出ると、“水連”。いいですね
第3窟 マハー・アルト・ヴィハーラMaha Alut Vihara。繰り返しになるが、「偉大な新しい寺」の意味である
第4窟 パッツィーマ・ヴィハーラPachima Vihara。「西洋(西)の寺」の意味
キャンディ王朝末期の作。右側奥に真新しい黄色に塗られた仏像がある。これは以前に観光客がこの仏像の手のひらに座って写真撮影をしたため、法力が失われてしまった。そのためもとの塗りをはがして塗り直したものだそうだ
黄色い仏像
第5窟 ディワナ・アルト・ヴィハーナDevana Aluth Vihara。1915年に造られた最も新しい窟
第 2窟の仏像
天井から滴り落ちる聖なる水を囲んでいる。因みに、ダンブッラとは「水の湧き出る岩」の意味である
第2窟の天井画

 

ここまで第2窟の天井画
天井画にすっかり満足して、第2窟を出てから周りの風景を楽しむ

あーあ、疲れた
 ダンブッラ市街地に戻ってきた。見所、たっぷり、本当に心身ともに疲れた。ダンブッラを訪れる前に情報が少なかったせいか、びっくりするほど観光資源に恵まれたところであった。汗だくになっていたので下着を1枚買い、シャワーを浴びようとしたところ、露店の兄弟が海水浴に行けと勧めてくる。水門がある海水浴場だという。水門は土木的に興味があるので話にのって出かけたのだが、露店の兄弟は「海水浴場までバスが無いのでオートリクシャーで行け」と言う。奴らはつるんでいたようだ。
 さっと泳ぎ、水門を修理をしていた技術者に口を出したところ、すっかり感謝された。そして教えられた。「あと数分でバスが来るよ」。バスの運転手に私の降りる停留所を教えてくれて、「フレンドシップ」とか言って、バス料金を払わせなかった。いろんな奴がいるね。でも、まずいよ、公共料金なんだから。
 戻ってから、出かける前に下着を買い、オートリクシャーとつるんだ露店の兄弟から、タオル1枚を取り上げてやった。露店の兄弟は二人だったので、2枚、取り上げてやった。私は、「サンキュー」とは言わなかった、「スマィル」と言いながらほほ笑んでやった。ちょっと、本気を出し過ぎたかな?

ダンブッラ市街地の露店。何屋さんだろう?
水 門

スリランカ・ポロンナルワ

ポロンナルワとは
 ポロンナルワの歴史を大急ぎで見ていくと、1017年、南インド・タミル系のチョーラ王朝に首都アヌラーダプラを征服されたシンハラ王朝は首都をポロンナルワに移した。シンハラ王のウィジャヤバーフ1世 (Vijayabahu I) はその後、灌漑設備等の修復をし、また仏教の普及に努めた。12世紀、孫にあたるパラークラマ・バーフ1世(Parakrama Bahu I)は、農耕と国家防衛の目的で首都周辺にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。この辺りに遺跡の残る旧市街がある。この治世下において、ポロンナルワはインフラ整備でさらに農業が栄え、また周辺国との交易で黄金時代を迎える。仏教都市としても発展し、タイやビルマ(現ミャンマー)からの仏教僧が訪れるようになった。その後、王位についた南インドのカリンガ王朝出身のニッサンカ・マーラ1世(Nissanka Malla I)の時代もなんとか体制を維持していたが、悲しいかな、歴史は繰り返す。
 ポロンナルワの支配層は、国力の衰退とともに南インドの王侯貴族の支持を求めたため、スリランカ独自の王朝の力は衰えていく。南インドのカリンガ王朝のマーガによる1214年の侵攻、アーリャ・チャカラヴァルティー (Arya Chakrawarthi) の1284年の侵攻と続いて、南インドのパーンディヤ朝に権力を委譲、1232年にはダンバデニヤ(Dambadeniya)に遷都された。そして、ついに1255年、シンハラ王朝はポロンナルワを放棄した 。

博物館横の人工貯水池
シヴァ・デーワーラヤ No.1。入口突き当たりの左側にあるヒンドゥー寺院である。ポロンナルワ遺跡は広大な仏教遺跡群なのだが、ここは異なってヒンドゥー教の遺跡になる
リンガ。もう、見飽きましたよね

クワドラングル
 クワドラングルQuadrangleは、古都ポロンナルワの旧市街中心部(宮殿の北側)にある『クワドラングル(四辺形の意味)』の城壁に囲まれた庭で、11の建物が集まっている場所を言う。シンハラ王朝時代(1017年〜1255年)の仏教の中心地で『仏歯寺』があった所である。1982年に世界遺産に登録されている。

崩壊寸前の 7階建ての塔、サトウマハル・プラサーダ Satmahal Prasada。上の階になるにつれて小さくなっている。タイのワット・クークット寺院に似ている
”石の本”ガルポタGal-Potha。長さ9メートル、幅1.5メートル、厚さ44~46センチメートルの石は、約 100キロメートルも離れたミヒンターレからニッサンカ・マーラ王の命令で運ばれ、文字が彫られた。インドの侵略者のこと、ニッサンカ・マーラ王への称賛の言葉などが碑文として彫られている
ガルポタを横から写す
ワタダーゲ Vatadage。クワドラングルに囲まれた円形の仏塔。四方の入口には、ムーンストンとガードストンがある。ポロンナルワにシンハラ王朝の都が置かれる以前の創建とされる。当初は屋根があったが、現在は基部の壁面が残っている
前の写真のアップ画像。両脇にある石像は守護神として寺を守っているので「ガードストーン」と呼ばれる
仏両者のガードストンの中央に、牛の横のシルエットがたくさん彫られている半円形の石板がある。真理と宇宙を表すもので「ムーンストーン」と呼ばれている像のアップ

ハタダーゲ
 クワドラングル遺跡群の一つのハタダーゲHatadage。12世紀にシンハラ王朝のニッサンカ=マーラ王により、釈迦の歯を祀る「仏歯寺」として建立された。サンスクリット語で刻まれた王を称える碑文や3体の仏像が残っている

ハタダーゲ
ハタダーゲの門を入って右側の壁にサンスクリット文字で「王を称える碑文」が残っている
シヴァ・デーワーラヤ No.2。11世紀、インドのチョーラ王朝のタミル人がポロンナルワを征服した時代に建てた
パラークラマ・バーフ王妃によって12世紀に建てられたパバル・ヴィハーラPabalu Vihara(精舎、寺院、僧院)。この形は、日本流に「鏡餅」と呼びましょう。最初は、最上部に塔があったそうだ
パバル・ヴィハーラの横の風景を取り込んでみた
ニッサンカ・マーラ王によって12世紀に建てられた「ランコトウ・ヴィハーラ(金の尖塔 Golden Pinnacle)。かつては尖塔部分が金で覆われていた」。ポロンナルワで一番大きなダーガバ(仏塔)で、高さ、直径ともに55メートルと分かりやすい。アヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔をモデルにしたそうだ
キリ・ヴィハーラKiri Vihara(乳白色の寺院)。キリとはシンハラ語でミルクを意味し、ミルク色の石灰の漆喰は、ジャングルで700年を経てもその塗りを保っている。パラークラマ・バーフ1世の妻のひとり、サバドラ女王が建てたものとされる

ランカティラカ
 乳白色の寺院、キリ・ヴィハーラの南隣に、頭の無い巨大な仏像を収めた仏殿「ランカティラカLankatilaka」がある。13世紀にパラークラマ・バーフ3世により建立され、後にウィジャヤバーフ5世により修復された。高さ17.5メートル、幅18メートル、奥行き52メートルの大きな建物であるが、建物自体は損傷が激しく、天井が落ち、上部もかなり壊れている。往時は屋根があったとも推測されている。最も奥には頭のなくなった仏像が立っている。勿体ない。

ランカティラカ寺院は、キャンディ郊外にあるレンガ造りの古寺の一つ
ランカティラカ寺院の奥には頭の取れた巨大な仏像が見える
仏像の後ろには「瞑想の道 Meditation Road」があり、僧侶達が 1日3回瞑想をする修行をしたそうだ
外側の壁にはシンハラ建築のGedigeという様式の典型である浮彫が見られる

ガル・ヴィハーラ
 ガル・ヴィハーラの3石像を見学に出かける。石像は1枚の石からなり、2つの座仏像、立像、涅槃像の4体の仏像から構成されている。現地で貰った英文の説明書によると、「仏陀の瞑想→悟り→涅槃」を表しているそうだ。一番左の高さ4.6メートルの坐仏像は瞑想の像。右側のもう一つの坐仏像は釈迦が天国で教えを説いている像。次の高さが約7メートルの立像は、悟りを開いて7日目のブッダが瞑想中に影を作ってくれた菩提樹に祈りを捧げている様子。蓮(ハス)の台座の上で腕を組み佇んでいる立像は、悟りを開いた仏陀の姿だとされる。それぞれのステージで、仏陀は何を考えたのだろうか。
 突然であるが、実を言うと、私が原稿を書いている時は必ずと言っていいほど周りで音が鳴っている。今は、バッハのシャコンヌである。昨年暮れに98才で亡くなった「20世紀最後の巨匠」と呼ばれたイブリー・ギトリスのヴァイオリンである。シャコンヌのせいだろうか、…、仏陀が悟りを開いた時、仏陀は「涙を流した」と私が勝手に考えたのですが?その時仏陀は悲しかったのではありません。私は、涙は全てを洗い流し浄化してくれると、いつも思っており、仏陀もまさにすべてが洗い流され(自動詞)無上の心になったのだと思います。
 申し訳ありません、突然の横道をお許し下さい。『ガル・ヴィハーラ』に戻ります。2つの「座仏像」、「立像」と来たので、最後の「涅槃像」に進みます。巨大である。横になっているせいか、流線型のなだらかな姿がふくよかな顔と共に一層目立ち、まさに涅槃に入ろうとしている。大きな像なので足の部分だけをアップして撮ったが、涅槃象特有の左右の足が前後にずれているのがお分かりかと思います。この足の裏と枕の模様は、スリランカの仏像に良く見られる模様だそうで、太陽のシンボルだそうです。
 最後になりますが、ガル・ヴィハーラに入る時は、靴を脱がなければならない。素足では火傷をすることがありますので、靴下をお持ちください。勿論、帽子も禁止です。もう一つ、仏像を背に写真を撮るのは禁止です。

1枚の石からなるガル・ヴィハーラの3石像。2つの座仏像、立像、涅槃像の4体の仏像から構成されている
瞑想にふける座仏像
洞窟に入った坐像
ハスの台座に建つ立像。悟りを開いた仏陀の姿とされている。高さ7メートル
穏やかな表情の涅槃仏
涅槃像特有の左右の足が前後にずれている
枕の模様に注目
デマラ・マハー・サーヤ。蓮の池