ポロンナルワとは
ポロンナルワの歴史を大急ぎで見ていくと、1017年、南インド・タミル系のチョーラ王朝に首都アヌラーダプラを征服されたシンハラ王朝は首都をポロンナルワに移した。シンハラ王のウィジャヤバーフ1世 (Vijayabahu I) はその後、灌漑設備等の修復をし、また仏教の普及に努めた。12世紀、孫にあたるパラークラマ・バーフ1世(Parakrama Bahu I)は、農耕と国家防衛の目的で首都周辺にパラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)と呼ばれる巨大な灌漑用貯水池を建設した。この辺りに遺跡の残る旧市街がある。この治世下において、ポロンナルワはインフラ整備でさらに農業が栄え、また周辺国との交易で黄金時代を迎える。仏教都市としても発展し、タイやビルマ(現ミャンマー)からの仏教僧が訪れるようになった。その後、王位についた南インドのカリンガ王朝出身のニッサンカ・マーラ1世(Nissanka Malla I)の時代もなんとか体制を維持していたが、悲しいかな、歴史は繰り返す。
ポロンナルワの支配層は、国力の衰退とともに南インドの王侯貴族の支持を求めたため、スリランカ独自の王朝の力は衰えていく。南インドのカリンガ王朝のマーガによる1214年の侵攻、アーリャ・チャカラヴァルティー (Arya Chakrawarthi) の1284年の侵攻と続いて、南インドのパーンディヤ朝に権力を委譲、1232年にはダンバデニヤ(Dambadeniya)に遷都された。そして、ついに1255年、シンハラ王朝はポロンナルワを放棄した 。
クワドラングル
クワドラングルQuadrangleは、古都ポロンナルワの旧市街中心部(宮殿の北側)にある『クワドラングル(四辺形の意味)』の城壁に囲まれた庭で、11の建物が集まっている場所を言う。シンハラ王朝時代(1017年〜1255年)の仏教の中心地で『仏歯寺』があった所である。1982年に世界遺産に登録されている。
ハタダーゲ
クワドラングル遺跡群の一つのハタダーゲHatadage。12世紀にシンハラ王朝のニッサンカ=マーラ王により、釈迦の歯を祀る「仏歯寺」として建立された。サンスクリット語で刻まれた王を称える碑文や3体の仏像が残っている
ランカティラカ
乳白色の寺院、キリ・ヴィハーラの南隣に、頭の無い巨大な仏像を収めた仏殿「ランカティラカLankatilaka」がある。13世紀にパラークラマ・バーフ3世により建立され、後にウィジャヤバーフ5世により修復された。高さ17.5メートル、幅18メートル、奥行き52メートルの大きな建物であるが、建物自体は損傷が激しく、天井が落ち、上部もかなり壊れている。往時は屋根があったとも推測されている。最も奥には頭のなくなった仏像が立っている。勿体ない。
ガル・ヴィハーラ
ガル・ヴィハーラの3石像を見学に出かける。石像は1枚の石からなり、2つの座仏像、立像、涅槃像の4体の仏像から構成されている。現地で貰った英文の説明書によると、「仏陀の瞑想→悟り→涅槃」を表しているそうだ。一番左の高さ4.6メートルの坐仏像は瞑想の像。右側のもう一つの坐仏像は釈迦が天国で教えを説いている像。次の高さが約7メートルの立像は、悟りを開いて7日目のブッダが瞑想中に影を作ってくれた菩提樹に祈りを捧げている様子。蓮(ハス)の台座の上で腕を組み佇んでいる立像は、悟りを開いた仏陀の姿だとされる。それぞれのステージで、仏陀は何を考えたのだろうか。
突然であるが、実を言うと、私が原稿を書いている時は必ずと言っていいほど周りで音が鳴っている。今は、バッハのシャコンヌである。昨年暮れに98才で亡くなった「20世紀最後の巨匠」と呼ばれたイブリー・ギトリスのヴァイオリンである。シャコンヌのせいだろうか、…、仏陀が悟りを開いた時、仏陀は「涙を流した」と私が勝手に考えたのですが?その時仏陀は悲しかったのではありません。私は、涙は全てを洗い流し浄化してくれると、いつも思っており、仏陀もまさにすべてが洗い流され(自動詞)無上の心になったのだと思います。
申し訳ありません、突然の横道をお許し下さい。『ガル・ヴィハーラ』に戻ります。2つの「座仏像」、「立像」と来たので、最後の「涅槃像」に進みます。巨大である。横になっているせいか、流線型のなだらかな姿がふくよかな顔と共に一層目立ち、まさに涅槃に入ろうとしている。大きな像なので足の部分だけをアップして撮ったが、涅槃象特有の左右の足が前後にずれているのがお分かりかと思います。この足の裏と枕の模様は、スリランカの仏像に良く見られる模様だそうで、太陽のシンボルだそうです。
最後になりますが、ガル・ヴィハーラに入る時は、靴を脱がなければならない。素足では火傷をすることがありますので、靴下をお持ちください。勿論、帽子も禁止です。もう一つ、仏像を背に写真を撮るのは禁止です。