ネパール・ルンビニ 

インドからネパールへ
 これまで続けてきた「インドの旅」を終え、拙稿「タイトル:ブッダの道・ブッダ・ガヤー」の後にインドからネパールに渡った。具体的には、「ネパールのルンビニ」→「ポカラ」→「カトマンドゥ」の旅程である。

ルンビニ聖園
 ネパールのルンビニを最も有名にしているのは、ゴータマ・シッダールタ(後のブッダ、仏陀)の生誕の地であることであろう。先に訪ねたインド・ビハール州のブッダ・ガヤーが悟りの地であるのに対して、ルンビニは、初めて説法をしたサールナート、そして入滅の地クシーナガル(ともにインド・ウッタルプラデーシュ州)と並んで、ブッダの生涯に因む4大聖地であり、仏教徒の巡礼地になっているのである。解説書によると、もともと19世紀に建てられたお堂があった場所を日本の調査隊が発掘した際に、ブッタの誕生の場所を意味するマークストーンが発見され、また紀元前3~7世紀に存在した聖堂の礎石も発掘されたことなどが根拠となっている。
 ルンビニ園は、南側から聖園(Sacred Garden)、各国の寺院がある寺院地区(Monastic Zone)、ホテルがある新ルンビニ村(New Lumbini Village)の3つの区に分けられる。聖園へは、ルンビニの街中からは歩いて15分ほどで、ブッダ誕生の地である聖池の中心部に位置する。入園はRs200、履物代Rs5を支払って入場できる。
 私は、最も北側にある新ルンビニ村の日本山妙法寺を楽しみに残すことにして、まず南側の聖園に向かい、聖園から北に向かうことにした。聖園には、マーヤー聖堂(Mayadevi Temple)、プスカリニ池(Pushkarini)、アショーカ王の石柱(Ashokan Pillar)、ネパール寺(Royal Buddha Bihar)と見所満杯であり、多くの人々が訪れている。

アーチの上部に付けたストゥーパの装飾が目印となっているネパール側ゲート
Greater Lumbini Buddhist Circuit。多くの旅行者がこの地図をカメラに収めて、地図として参考にしていた
マーヤー聖堂(Maya Devi Temple)への方向表示
マーヤー聖堂の入口
マーヤー聖堂の内部

タルチョ
 大きな菩提樹を囲んだタルチョ(マニ旗)がたなびいている。タルチョはチベットの5色の祈祷旗であり、5色の旗に託された文字や絵が 風になびくことで読経したことになるという、 チベット仏教の信仰 である。
 私が大きなタルチョを最初に観たのは、2014年3月に中国のシャングリラShangri-Laを訪ねた時である。大亀山公園に設置された巨大なマニ車の横にはためくタルチャに魅せられていると、地元の方(チベット人)がとても上手な?英語で教えて下さったメモを今でも大事に持っている。①五色の順番は青・白・赤・緑・黄の順に決まっている。②それぞれが天・風・火・水・地、すなわち宇宙を構成する五大要素を表現する。③風馬旗(rlung rta 。rlung ;風、rta;馬)と言う。「日本人、好き」と言って、ヤクの乳とヨーグルトをくれたじいちゃん、ばあちゃん、「おいしかったです。あらためてありがとう」。

アショーカ王の石柱
 アショーカ王がインド各地に建てた王柱の一つで、「即位20年にシャカムニ・ブッダ誕生の地に巡礼して、住民の租税を8分の一に減免する」と記されている。

金色の仏像
寺院内部
ネパール寺。再発見後のルンビニで最初に建てられた仏教寺院で、1953年の開基
多くの国から巡礼団や観光客が訪れる聖園

仏舎利(入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨)
アショーカ王の石柱。後の白い建物は聖堂
タルチョがたなびく菩提樹
お祈りを捧げる人々
王子ゴッタマ・シッダールタの生誕後に産湯として使われたというブスカリニ池。畔に立つタルチョがたなびく菩提樹は、仏暦2500年を記念してマヘンドラ国王が植樹したもの
「ブッダの生誕の地を祝して」 タイ国民
ルンビニ美術館の遠景。遺跡から見つかった出土品などが展示されている

玄 奘
 629年に陸路でインドに渡り、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還し、多くの仏典を漢訳した。その旅行は弟子たちがまとめた『大唐西域記』であり、それを種本にして読み物にしたのが呉承恩の『西遊記』である。日本人にはかの『西遊記』の主人公、三蔵法師として知られる。

玄奘(Xuan Zang 602-664)の像

中華寺
中国寺
寺院地区に建てられたシンガポール寺院。土足厳禁
寺院地区に建てられたドイツ寺
世界リンソン佛教協会フランス
ルンビニ博物館(Lumbini Museum)。遺跡から見つかった出土品などが展示されている
ルンビニ博物館に展示している出土品など
日本山妙法寺。日本人僧侶がいらっしゃる時には旅行者の宿泊が可能であるが、修業を課せられるそうだ
金の仏像

 

北側の高い位置にある日本山妙法寺から振り返って南側を撮る

ルンビニ周辺の仏跡巡り
 私が旅行中で最も幸せを感じるのは、このような古ぼけたバスに乗って、運転手さん、おじさん、おばさん達に親切にされる時である。何故なのか旅行中に意地悪されたことはほとんど記憶にない。今日は、ルンビニ周辺をうろうろする予定である。

インド産タタ製のバス

ティラウラコット
 ルンビニ県カピラバストゥ郡に位置するティラウラコットTiaurakotは、ルンビニから西へ約27キロメートル。シッダールタ王子が29歳で出家するまで過ごしたシャカ国のカピラバストウの王宮跡とされる。遺跡は1967年から日本の立正大学によって発掘・城砦跡だと確認された。王宮跡とされる遺跡(東西400メートル、南北550メートル、ただし遺跡自体はブッダより後の時代との説)、王宮跡からの出土品を展示するカピラバストゥ博物館、釈迦(ブッダ)の両親であるシュッドーダナ王とマーヤー王妃を火葬した場所とされる双子仏塔跡(仏塔は紀元前4世紀~前2世紀のマウルア朝に建立)がある。

双子仏塔。シッダールタ王子の両親シュッドーダナ王と王妃マーヤーを火葬した跡と言われている仏塔跡。マウリヤ朝(紀元前4~2世紀)のものと言われている

カピラバストゥ王宮の帰属を巡るインドとネパールの論争
 旅行記や観光案内書に掲載された記事からピックアップされた話であるが、「カピラバストウの王宮跡の帰属を巡るインドとネパールの論争」が話題になっている。①ティラウラコットは王宮にふさわしいスケールを持った城塞跡であることが発掘調査によって明らかにされた、②玄奘三蔵が書いた「大唐西域記」には「カピラバストゥには高さ7メートルの城壁がある」と記されており、③他に符合する遺跡が無いことから「この位置がカピラバストゥであることが傍証されるのではないか」というネパールの主張がある。それに対してインド領ピプラハワからは、「シャカムニ・ブッダ」と記載された「舎利壺」、すなわち「ブッダの遺灰を詰めた壺」が発見されており、強い説得力がある。さて、この勝負、科学的にどちらが勝つか?

蓮の池
カピラバストゥ王宮寺院 Kapilavastu Palace Temple
王宮内部