カンボジア・シェムリアップ

ホーチミンからシェムリアップ
 ベトナムのホーチミン市からカンボジアのシェムリアップへ移動する。目的はただ一つ、ここから「アンコール遺跡」へ行くためである。「前もってビザはとってある」と言えば余裕があるように思われるが、実は(ベトナムのホーチミンに向けて)日本を発つ前日の夕方にカンボジア入国のビザを取ったのである。それもこのブログに何度か登場するハノイに在住する“ご学友”の助力によってである。あぶない、あぶない。
 ホテルもアンコール遺跡に容易に行ける所と言うことで、「…の歩き方」に載っている“日本人バックパッカー御用達の宿”にあたりをつけておいた。空港でバイクタクシーに「日本人」と言うと、片目をつぶって御用達の宿に向かってくれた。有名なゲストハウスらしい。
 私は自分の年を考えて、若い人達への迷惑を考えて、相部屋を前提としたドミトリーは無理と考えていたが、シングルもあるそうで、そこを予約することにした。日本人の大学生らしき若者が7人ほど靴を脱いで居間?で雑談をしていた。そんなにきれいな格好をしていなかったのだが、「シングルですね?」と言われ、さらに今後のスケジュールを尋ねられた。集団で車をチャーターして、「アンコール遺跡」や「ベンメリア遺跡」を効率的かつ経済的に訪ねようと言う計画であった。恥ずかしいことに、「ベンメリア遺跡」など初めて聞く遺跡名であった。「私のような年寄りでも、…」と遠慮したが、気持ちよく仲間に入れてくれた。感謝、ビールを奢ったが、意外や、酒類を飲めない学生もいて、4人で楽しんだ。「意外や、飲めない学生もいて、…」と考えるのは、私が昭和世代の学生をイメージしているのだろうか?

シェムリアップ国際空港
航空機、2機見えますか? 1機の航空機を撮ったつもりだったのだが、偶然、もう一機 写っていた
到着エリアにあった象の像

アンコール国立博物館
 アンコール国立博物館は、シェムリアップに2007年にオープンしたアンコール遺跡群の国立博物館である。汗だくになりながら広大なアンコール遺跡を見学する前に予習、あるいは見学後の復習が涼しい館内でできるので、とても役に立つ博物館である。日本語のオーディオガイドが数ドルと安いのもうれしいサービスである。最近の情報で館内は写真撮影禁止と報告されている記事もあるが、2011年に私が訪れた時は、私も周りの人も写真を撮っており、私達が鈍感だったのか、いずれにしてもここでは内部の写真の掲載は割愛させてください。
 アンコール遺跡の彫刻や彫像をテーマや年代ごとに展示していて、2階から入って1階に向かうのだが、アンコール・ワットの大きな模型がある部屋や約1000の仏様に出会えるイクスクルーシヴギャラリーが人気でした。

アンコール国立博物館
アスラとインド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称を説明している

アンコール遺跡の見学
 「アンコール遺跡」と一口で言ってもその広大さはとてつもない。このクメール王朝時代の遺跡群は1992年ユネスコの世界危機遺産に登録され、さらに遺跡を中心とし修復に努めて、第二段階として2004年世界文化遺産に登録された。今日はゲストハウスに宿泊している日本人学生達の仲間に入れてもらって、アンコール遺跡の見学に出かける。
 経済的かつ充実した“知的好奇心に溢れた旅”を求める若者達が何年もかかって作り上げた“アンコールの歩き方”は、“二人一組”の行動であった。アンコール遺跡と呼ばれるエリアの中でゲストハウスから最も遠い「バンテアイ・スレイ」までトゥクトゥクで50分ほどで行き、そこから見所を見学しながらゲストハウスに最も近い「アンコール・ワット」まで少しずつ歩いて移動し、見学終了後トゥクトゥクでゲストハウスに戻る行程である。アンコール・ワットからゲストハウスまで約7キロメートルである。私の相棒は、大学4年生の好青年であった。よろしくお願いします。

バンテアイ・スレイ
 ここで、話が飛躍する。私はフランスの作家アンドレ・マルローのファンであったし、現在もファンである。サルトルやマルローを読みたいために大学では第2外国語としてフランス語を選択した。当時、工学志望者はドイツ語選択が多く、フランス語希望者は少数派であったが、私にしては真面目に勉強したと自分では思っている。フランス語担当教授は、ソルボンヌ大学留学から帰国したばかりの先生で、ユーモアやジョークの好きな方であった。エスプリのきいた講義の中で、「アンドレ・マルローが、○○遺跡にあったデバター(女神)に魅せられて、盗掘して国外に持ち出し、逮捕された」と述べられた。講義の中での話、つまり私の学生時代のことである。(こう言ったら叱られますが、)ましてやフランス語を選択した学生達である。皆で拍手して大笑いであった。(小さい声で)「教授も笑っていらっしゃった」。それがこの「東洋のモナリザ」だったのだ。半世紀以上前のこの話を今日の私の相棒達“大学4年生の好青年達”に話したところ、彼等も大笑いであった。「メルシー・ボク」。
 おかげで、「東洋のモナリザ」部分を写真に撮るのを忘れてしまって、偶然写っていた他の写真からトリミングをしてお見せする羽目になってしまった。もっともマルロー事件のおかげで、その後、「東洋のモナリザ」などのデバター周辺は立入禁止区域となって、柵の外からしか見ることできなくなったそうである。

南経蔵破風(はぶ)に施された渦巻文様の浮き彫り
偶然、この写真の右側の後ろに「東洋のモナリザ」が写っていた
上の写真の「東洋のモナリザ」部分を切り取った画像

バンテアイ・サムレ
 バンテアイ・サムレは、12世紀中頃にスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)の統治時代に造られたアンコール・ワット様式のヒンドゥー教寺院の遺跡で、高さ6メートルの外周壁に囲まれている。インドシナ半島の古代民族サムレ(Samré) に因んで名付けられ、「サムレ(入れ墨)族の砦」の意味をもつそうだ。
 アンコール・ワットに似た中央祠堂を持つため、「小アンコール・ワット」とも言われている。また、赤っぽい色をしているのは、「バンテアイ・スレイ」と同じ材料を用いているためである。

バンテアイ・サムレ

バンテアイ・クディ
 最初はヒンドゥー教寺院として建てられたが、後に仏教寺院として再建され、さらにヒンドゥー教寺院に改宗された寺院である。多くの建物が崩壊し、現在復興中であるが、壁面の彫刻や柱のアプサラス像やデンバーの浮彫りなどの細やかな装飾部分は残っている。

外周壁;バンテアイ・クディの仏面島(東撘門)
第3周壁;前柱殿のアプサラスの彫刻
前柱殿のアプサラスの彫刻
第2周壁;デヴァター(右)の浮彫

タ・プローム
 12世紀末にジャヤヴァルマン7世が仏教寺院として建立したが、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと言う。タ・プロームとは「梵天の古老」という意味があるが、その理由については分からない。
 アンコールの他の遺跡と違うところは、樹木が取り払われずに残されていることだ。遺跡に樹木が絡まっている風景に唖然とする。発見当時の様子を残すために樹木の除去などの修復をしていない方法で維持しているようだ。遺跡そのもののメンテナンスは行われているようだ。
 通りがかりの人に映画『トゥームレイダー』のロケ地だと教えられたが、映画を見ていないので確認できない。

危険地域の立て看板
巨大な榕樹・ガジュマルが遺跡に張り付いている
茶胶寺
茶胶寺の補修・修復工の立札

 バプーオンは、明日訪ねる予定の「アンコールトム」にある「バイヨン」の北西に位置する。1060年頃、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられた3層からなる山岳型(ピラミッド型)寺院である。王宮前広場の南端にある東塔門から内側の塔門に向かって延びる長さ200メートル、橋脚の高さ約1メートルの参道が美しい。この参道は、3列に並ぶ円柱の橋脚とともに崩壊していたが、EFEO(フランス極東学院の略称) によって修復されたものである。
 バプーオンとは「隠し子」という意味で、カンボジアとタイの争いの時に、王子をこの寺院にかくまったという「隠し子伝説」からついた名前だそうだ。

修復された円柱の橋脚と参道

アンコールワット
 アンコール・ワットは、1113~1145年頃にスーリヤヴァルマン2世によって建立された石造りのヒンドゥー教寺院である。16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在に続いているが、ご存知のように、ユネスコの世界文化遺産あるアンコール遺跡群を代表する寺院である。クメール語で、アンコールは王都、ワットは寺院を意味することから、アンコール・ワットは「国都寺院」という意味になる。大伽藍と美しい彫刻はクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。寺院を囲む東西1.1キロメートル、南北1.3キロメートルの濠、参道、3つの回廊、中心部の5基の塔から成る壮大な寺院は、結構、首回り、足、腰にくる見学であった。
 若者に首を揉んでもらって、首回りが軽くなってはたと気づいた。一般的にクメール建築は正面が東を向いていると言われ、二人もそれに気づいていたのだが、アンコールワットはなぜか西を向いている。理由は分からない。ゲストハウスに戻ってから、この話を持ち出したのだが、「ヒンズー教の寺院なのでカンボジアから見ると西にあるインドの方向を向いている」とか、「王の墓なので、西方浄土…」等々、分かったような、分からないような、…。

西の参道から見上げたアンコール・ワット中央
水面(みなも)に映るアンコール・ワット中央
アンコール・ワット第三回廊のデバター
急勾配である

アプサラダンス
 私の“夜の病気”は、場所、季節を問わずにやってくる。ゲストハウスから若き美女の運転するバイクに乗せてもらって、怖いので細いウェストにしっかりとつかまって、5分間。クメールの伝統舞踊「アプサラダンス」を観ることができるレストランでカンボジアの郷土料理を食している。
 アプサラは、古代ヒンドゥー神話に登場する水の精であるが、現在は伝統舞踊ショーの人気演目「アプサラダンス」として民衆の中に生きている。内戦で一度は失われてしまったアプサラダンスは復活していたのだ。きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の手の動きに特徴があり、妖艶な踊りは人々の視線を引き付ける。民衆劇も演じられ、笑いを誘っていた。
 贅沢な夜だった。

民衆劇
女性の手の動きに特徴がある踊り
きらびやかな衣装に身を包んだ女性達の踊り
フィナーレは夜の10時半であった。ご苦労様。お休みなさい

ベンメリア遺跡
  ベン・メリア遺跡は、シェムリアップから約70キロメートル離れたクーレン山南麓にある遺跡である。まさにジャングルの奥深くにある遺跡で、距離も遠いし、定期観光バスも無いことから、一人旅は難しい。ここでも、ゲストハウスに感謝感激。タクシーなら1台60US$のところを十人以上乗車のマイクロバスで一人あたり7US$と特別料金である。明るい雰囲気の若い連中と片道1時間ほどの行程であった。
 ベン・メリアとは「花束の池」の意であり、アンコールワットと比べると規模には劣るが、類似点も多いため東のアンコールワットとも呼ばれる。但し、寺院に関係する碑文はほとんど残されておらず、現在でも謎の多い遺跡である。
 タ・プローム遺跡を凌ぐような草木に埋もれたジャングル遺跡であるが、遺跡の周りは管理者がしっかりと維持管理をしているのか、それとも多くの訪問者によって雑草が踏み固められているためか、歩きやすいように整地されていた。気になったのは、客の取り合いをする未就学か低学年の“小さきガイド”であった。正確には、“自称、小さきガイド”であった。わずかのお金をねだりながら、英語らしき言葉で説明をしたり、腕を取って見所に連れて行く(行かれる?)のである。「ありがとう。学校に行けると良いね」と日本語で言った。小金を入れてあるポケットを抑えながら、そう言ったのだが、これは子供達への教育であり、一人旅の作法・流儀でもある。

天と地をつなぐナーガ
崩れ落ちた石がそのままになっている
自称「遺跡案内人」。勉強するんだぞ
勢いのある木々と崩壊した建物
「CMACによって除去された地雷源」の立札がある。「CMAC」とは、Cambodian Mine Action Centre(カンボジア地雷対策センター)の略号である
CMAC
ベンメリアを象徴する崩壊した遺跡